僕には初恋の女の子がいる。


「成歩堂くん傘ないの?入って行きなよ!」

 下駄箱がある正面玄関の傍で恨めしく空を見上げていた僕に、雨なんて吹き飛ばしてしまいそうな笑顔を浮かべたあの子がそう言った。
 雨の日に傘を忘れてしまって憂鬱な気分だったけど、彼女が話し掛けてくれただけで嘘のように気分が高揚し、一層の事傘なんて忘れて良かったとすらこの日は思った。

 クラスメイトの名字名無しは明るくて、クラスの中心的存在だ。誰にでも別け隔てなく接していつも明るく、何かと班のリーダーを務めることの多い。そんな子。
 僕は特にクラスで目立つ方でもなくて、いつもどこかの輪の中にいる彼女に近付く勇気すら持てない。極稀に話し掛けられることもあったけど、あまりの緊張に気の利いた返事もできず、落胆するのが日課だった。
 それでも密かに抱いた恋心に自然とあの子の姿を目で追ってしまう。けれども、そうしていると自然と気づくことがあった。―――― 僕が彼女を目で追うように、彼女もまた、御剣怜侍の姿を目で追っていたのだ。

 その瞬間全てを察した僕は、勝ち目なんてない。そう思った。

 同じくクラスメイトの御剣は明らかに周りと一線を引いた存在だ。父のような弁護士を目指しているらしく、休み時間も常に分厚い六法全書に噛り付いていて年相応にグラウンドで遊ぶことはない。極め付けに容姿端麗であり、女の子が放っておく筈もなかった。
 いいなぁ、御剣くんは。彼を羨望の眼差しで見る度に胸が痛くて、小学四年にして僕は失恋の気持ちを味わってしまったのである。

 そんなある日、今までの日常をひっくり返すような出来事が起こった。御剣怜侍の給食費を盗んだ疑惑で学級裁判が開かれたのだ。

「成歩堂くん。君がやったんでしょう?先生怒らないから、本当のこと言いなさい?」
「で、でも僕…本当にやってない…」
「嘘つくなー!御剣の給食費盗んだのお前しかありえないんだぞ!」

 「そーだそーだ!」と次々に野次が飛んで、教室のど真ん中で晒し者にされている僕に容赦無く突き刺さる。
 お前がやったんだろ。そう言わんばかりの無数の視線を一身に受けて、全身が火のように熱くなった。息が詰まってまともに返事すらできない。僕じゃないのに。どれだけそう嘆いても、先生ですら僕の話に耳を傾けてくれない。
 あの子が僕のことを見ている。表情こそ感情が読み取れなかったけれど、内心では皆と同じように僕が犯人だと軽蔑してるんだと思うと、泣き出したいくらい悲しくて、どこかに消えてしまいたくなった。

 ついに目の端にじわりと涙が滲んで、慌てて袖で拭う。そんな時、騒がしい教室に叱咤する声が響いた。

「成歩堂くんはやってないって言ってますッ!」

 あの子だった。途端に教室が静まり返る。それぞれが困惑の面持ちで顔を見合わせ、又してもコソコソと耳打ちが始まると、今度は机に足を乗せて我関せずに踏ん反り返っていた矢張政志が徐に口を開いた。

「そーだぞ。お前らいっつもそうやってグルになって一人をいじめて、恥ずかしくねーのかよ」
「で、でもねぇ?御剣くん?」
「…呆れるな」
「え?」

 担任の顔が引きつる。僕は何が起きているのか理解できなくて、ぽかんと三人を見比べていると、黙って聞いていた御剣くんが突然机を叩いて立ち上がった。そしてビシッと力強くクラスメイト達に人差し指を突き付けて、まるで弁護士のように叫んだのだ。

「法廷では証拠品がモノを言う。成歩堂がやったと言う証拠はあるのか!?」
「それは…」
「ないのなら、この学級裁判は終わりだ!」

 男の僕でも感嘆の息を溢す程、御剣くんはかっこよかった。その一声により皆はすっかり黙り込んでしまったのだ。
 犯人は結局分からずじまいだったけど、その日は引き攣ったままの先生の指示によりお開きになった。

 帰りの挨拶を終えると、僕はすぐに三人の元に駆け寄った。未だに学級裁判の余韻が残っていて手足は震えていたけど、それよりも喜びの方が強くて、いてもたってもいられなかったのだ。

「名字さん、御剣くん、矢張くん…信じてくれて本当にありがとう!」

 三人の反応はバラバラだった。御剣くんはさも気にした素ぶりはなく、当然だと言わんばかりの返事が返ってきた。矢張くんは何故か少し動揺していたけど、「気にすんなって!」と肩を叩いてくれた。名字さんは困ったように眉を八の字にしながら申し訳なさそうに笑った。

「ごめんね、すぐに助けられなくて。雰囲気が怖くて、尻込みしちゃったんだ…」
「そんな、君が謝ることないよ!僕、本当に嬉しかったんだ」

 そう言えば、名字さんは照れ臭そうに笑ってくれた。彼女に怖いものなんてなさそうだと思っていたけど、名字さんでも尻込みすることがあるんだと驚く反面、やっぱり彼女は僕にとって憧れで、好きなんだなと改めて思い知らされてしまった。

 そこからだった。何となく四人が仲良くするようになったのは。

 人を寄せ付けない雰囲気のある御剣くんや、お騒がせ担当の矢張くんや、遠い存在とすら思っていた名字さんと仲良くなるなんて夢にも思わなかったけど、三人とも話せば不思議と気が合って、自然と帰り道はいつも一緒だった。
 友達ができたのは嬉しかったけど、何よりも、あの子と当たり前のように顔を合わせられているのが僕にとっては夢のようだった。

「うわぁ!いいなぁシグナルザムライのストラップ!」
「へへーんいいだろー。三色しかいないからお前は敵役な!」
「えー!?矢張くん酷い!」
「そんなこと言わずに一色被ってもいいじゃないか」
「あ、御剣くん頭いいね。そうしようよ」
「やったー!それじゃあ回すよ!」

 そんなこと言って、内心では僕の青色と被りますようになんて考えていた。名字さんは駄菓子屋の横に置かれたシグナルザムライのガチャガチャと睨めっこをすると、ゆっくりと小銭を入れて回した。ゴトっとガチャガチャが落ちて、拾ったそれを四人並んで覗き込む。

「…青だな」
「何だよー成歩堂とお揃いかよ!」

 まさか、本当に被るなんて思わなくて言葉を失っていると、名字さんは一息置いてから笑って「お揃いだね!」なんて言いながら掌のシグナルザムライを見せてきた。
 もしかしたら赤が良かったのかもしれない。不自然な間に一瞬そんな考えが浮かんだけど、何ともない三人を見て僕は慌ててかぶりを振ると彼女と笑い合った。今だけは密かに喜んでいたかったんだ。


 ほどなくして、御剣くんは転校していった。あまりに突然のことだった。

 先生からは家庭の事情とだけしか聞かされていない。けれど、親友のような間柄だった僕達にとってはあまりに大きなダメージで、三人で集まっても不自然な空気が漂うようになっていた。
 あの子の心境を知っている僕は、きっと腫れ物に触るような態度で接していたのだと思う。僕だけじゃない。あんなにも明るかったあの子が嘘のように静かになったのを、気付かない人はいなかっただろう。

 決して仲が悪くなったわけではない。声を掛ければ返事も返ってくるし、一緒に帰ることだってあった。それでも、確実に僕達の間には御剣がいなくなったことによって生まれた蟠りのようなものができていて、そうやってあの子の笑顔も連れて行ってしまった御剣が、完全な八つ当たりだと分かっていても恨めしかった。せめて、相談だけでもして欲しかった。
 
 世の中、どれだけ嘆いてもどうにもならないことはある。僕達はそうして気まずい空気を持ったまま、進路を別々にし、いつしか思い出深い過去として心の中に記憶をしまった。
 
 けれども僕は、机に飾ったままの青のシグナルザムライを見る度にあの頃のことを思い出すのだ。僕には確かに、初恋の子がいたことを。




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