22.ピンクシャーベット
オドロキくんを送り届けて早々に私は成歩堂なんでも事務所にやってきていた。 問題の彼とまた顔を合わせるの気まずいと思っていたけど、何やら当の本人は弁護の仕事を貰い、みぬきちゃんと現場を駆け回っているらしい。その為、文字通り後程連絡してくるという旨のメールが届いていたので、正直な所ホッとしている私がいた。 あの夜の真実を、何も覚えていないオドロキくんの鼻先に突きつけてやりたい気持ちもあったけど、今は何より自分の気持ちを整理したかった。
「それで、どこをどう掃除すればいいんですか?マジック道具の山ですけど」 「それを考えるのがキミの仕事って訳」 「(お礼になんでもするとは言ったけどこれは…)」
応接室兼所長室である筈の部屋を見回してげんなりする。先日のストーカー事件を解決してくれたお礼に何かしたいと申し出たのだが、返ってきた返事は何と大掃除。 いや、どこかでその返答は察していたけど。いざ現場を目の前にすると申し出を撤回したい気分になってきた。だってここあまりにも物が多すぎる。みぬきちゃんの大事な道具も溢れかえっているし、適当なマネはできない。
「とりあえず自分の机は自分でやってくださいね。重要な書類とかにはあまり手を付けたくないので」 「名無しちゃん。僕の机が汚いって言いたいんだろうけど、できる男は仕事場を選ばないんだよ?」 「はいはい。分かったから一緒にやりますよ。グレープジュースと二人きりにはさせませんから」 「おっかないなぁ」
ナルホドさんにトイレ掃除を押し付け、私はテーブルの上のお菓子やらゴミやら漫画を片付けていく。 この漫画、私も好きなアクション漫画だけどこんな風に雑に置かれてるなんて…。持ち主には説教と貸してくれるよう説得しないとな。漫画は大事に扱わないと。 せっせと漫画をまとめて端に積み上げていると、ナルホドさんがトイレからひょこっと顔を出して私と漫画を見た。
「ちなみにそれオドロキくんの私物だから」 「……」
心でも読んだかのような発言にじとっと睨めば、ナルホドさんは面白そうに笑ってすぐにトイレに消えていった。…どのみちオドロキくんの説教は免れなかったな。 この部屋は如何せんテーブルの上がひっちゃかめっちゃかで、まずはスペース確保の為にゴミを集めたりトランプを箱にしまったりしていく。正直終わりが見えないけど、やれるだけやってしまおう。 袖を捲り直してよしっと気合を入れよう、そう思った時だった。玄関の方から「ナルホドくーん」と聞き慣れない少女の声が聞こえてきた。
「ナルホドくーん?お邪魔しますねー」 「あ、春美ちゃんだ。ごめんお願いしてもいいかな」 「分かりました」
知り合いなのだろうか。ナルホドさんは手が離せないらしく、代わりに玄関に向かうと、これまた不思議な和服を纏った可愛らしい女の子がきょとんと此方を見て立っていた。
「あ、貴女は」 「はじめまして。春美ちゃんであってるかな?」
みぬきちゃんと同い年くらいだろうか。思わぬ客人にかける言葉を迷っていると、目の前の女の子は私を見るなりハッと目を丸くすると次第に拳をぶるぶると震わせ、袖を勇ましく捲り上げている。 な、何かしらこのただならぬ雰囲気。思わずたじろいでしまっていると、後ろからナルホドさんが「久しぶりだね春美ちゃん」とニコニコしながら歩いてきた。
「ナルホドくんの浮気者ー!!!不潔ですーッッ!」
バチン!と、それはそれは気持ちの良い音をたててナルホドさんは自分よりもずっと小さな女の子に張り倒されていた。最早止める隙すらない見事な平手打ちであった。
「真宵様というものがありながらー!」 「ご、誤解だよ春美ちゃん。というか真宵ちゃんに関しても誤解ッ」 「うわぁあーん!」
ははぁ。そういうことか。 話の流れで大方察しが付いた私は、珍しく助けを求める視線に頷き、暴れる女の子に目線を合わせる。
「春美ちゃん、ご挨拶が遅れてごめんね。私は名字名無しって言います。ナルホドさんとはただの近所付き合いで仲良くさせてもらってるだけだから、思っているような関係じゃないんだよ」 「ほ、本当ですか…?」 「本当本当。今日も大掃除お手伝いしにきただけなんだから」
そう言うと、春美ちゃんはすぐに涙を引っ込め背筋を伸ばしながら「私ったら…取り乱してしまい申し訳ありません」と叫んだ。歳の割に、とても礼儀正しい女の子だ。
「私、綾里春美といいます。ナルホドくんとは長い付き合いでして、こうして真宵様の代わりに時々お顔を見にくるんです」 「真宵ちゃんっていうと、ナルホドさんの助手さんでしたっけ」 「そうだよ。何やら思わぬ誤解をされてるみたいだねどね」
相変わらずヘラヘラしているナルホドさんに呆れながら腕を引っ張って助け起こす。頬には見事な赤い紅葉が浮かび上がっていた(ちょっと似合っているのが玉に瑕だ)。 春美ちゃんは手慣れた様子ですかさず氷をナルホドさんに渡すと、「私もお掃除お手伝い致します!」と改めて腕まくりをしている。猫の手でも借りたいところだったからとてもありがたい。
「凄い助かるよ。来て早々だけどお願いできるかな?」 「勿論です!」
「では私はあちらを!」と早速すっ飛んで行った春美ちゃんに呆気にとられつつ、気を取り直して私も大掃除を再開する。 既に何度も掃除をしにきていて慣れているのだろう。春美ちゃんはせっせとナルホドさんの溢れかえりそうな仕事机を整理整頓している。思っていた以上に手際がいいのでリビングは彼女に任せて、私は隣の物置がわりになっている部屋を掃除することにした。
「うわ!埃っぽいッ」
噎せ返るような空気に慌てて備え付けの窓を解放して空気の入れ替えをする。殆ど使っていない部屋だとはいっていたけど、まさかここまでとは。 引越しの際に使ったのだろう。部屋中に組み立てられたままの段ボールが積み重なっていて、中にはまだ服やら小物やらが入っているものまである。ナルホドさんは元々はアパートに住んでいたけど、みぬきちゃんを養子として迎え入れたのを境に事務所に住むようになったらしい。お互いの荷物が行き場を失って、寂しくここに押し込められたようだ。 この荷物さえどうにか片付ければ部屋はかなり有意義に使えるのだろうけど、そうする気配すらないのが実にあの親子らしい。
空いているダンボールだけでも畳んでしまおう。そうして山の中の一つに手をかけると、ふと箱の中にポツンと目立つピンクの何かが入っていることに気付いた。
「これって…」
クリーニングに出したばっかなのだろうか。自然と手が伸びて、綺麗に畳まれたピンクのそれを目の前で広げて絶句する。 誰なら似合うんだってくらい彩度の高いピンクの生地に、ど真ん中に悪目立ちしそうなハートとRYUの文字。一度見たら忘れられないようなセーターが、私の両手からぶら下がっていた。 そう。一度見たら忘れられないのである。例え忘れていたとしてもこれだけ派手なセーターを見たらどのみち手にとっていただろうけど。けれど私は確かに、このセーターを過去に見たことがあった。
小学生の頃に父に連れられて初めて裁判の傍聴をした。 被告人は大学生くらいの若い青年で、遠くにいても矢鱈目立つセーターを着ていたのと、真犯人として告発された女性を庇って泣き崩れていたのを今でもはっきりと覚えている。 その記憶があまりにも強烈に印象に残っていたせいで、私は裁判というものに苦手意識を抱くようになっていったのだ。
「(あの服がどうしてここに)」
一つの仮説が浮かんだ時だった。背後から突然「名無しちゃん」と名前を呼ばれて、思考の海に身を投げていた私は肩が跳ねた。
「び、びっくりさせないでください」 「普通に声をかけただけなんだけど…って、そのセーターこんなところにあったのか」
私の手元を覗き込んでナルホドさんは懐かしそうに、どこか物悲しげに目を細める。一瞬曇った表情に戸惑うけど、ナルホドさんは何事もなかったかのようにヘラりと笑って「失くしたのかと思ったよ」と言った。 嘘だ。根拠なんて何もなかったけど、彼とセーターを見て私はそう思った。
「…これ、どこかのブランド物ですか?デザインが龍一にぴったりですね」 「ははは。そうだったら良かったけど、これは世界に一つしかないものだよ。手作りだからね」 「プレゼントですか。素敵ですね。いつ頃もらったんです?」 「ん?大学生の頃かな。それがどうかしたの?」
平常を繕っていたつもりだけど、私の探るような質問にナルホドさんも変だと気付いたようで、訝しげに私を見据えてくる。本人にとってもあまり触れられたくない話題なのか、一見いつも通り飄々としているけど、纏う雰囲気はいつになく重い。
「小さい頃裁判の傍聴に行ったことがあるんです。その時、被告人の男の子はこのセーターを着ていました」 「は、」 「今の話を聞いて確信しました。あれはきっとナルホドさんでした」
全てに合点がいった。証言台に立つナルホドさんの姿を懐かしく思ったのも頷ける。 違和感が解決して一頻りにスッキリしていると、呆然としていたナルホドさんがハッと我に返って「ちょ、ちょっと待って」と一気に慌てだした。いつものナルホドさんからは想像もできない余裕のない表情。これは貴重だ。
「見てたって何。全部?それにしたって格好がぼくと似ても似つかないだろ?思い違いだよ!」 「異議あり。その服は一つしかないのに他人が着てたらおかしいでしょ。それにあのトゲトゲ頭、間違いなく貴方です」 「い、異議あり!ぼくの頭はニット帽で守られている。見たことなんてない筈だ!」 「異議あり。残念ながらナルホドさんがお昼寝している時に我慢できなくて覗いちゃいました。反省はしていません」 「なんだって……」
ナルホドさんは衝撃に打ち震え、仰け反って冷や汗を流している。なんだかいつもと様子が一変しているが、もしかしたら素はこっちなのかもしれない。ただちょっとやさぐれてしまっただけで。 まるで息子の成長を見守る母のような気持ちでまじまじと見ていると、ナルホドさんは私の視線から逃げるように手をかざして顔を背けた。
「後生だ…その記憶は忘れてくれないかな…」 「忘れたくても忘れられないから困ってるんです。いいじゃないですか。今思えば可愛らしい男の子でしたよ」 「小学生に言われたくないよ」 「でもやっぱり。ナルホドさんは捏造なんてしてませんね」
私の言葉に、ナルホドさんはこれでもかと目を丸くさせる。話が突然飛躍したのだから言葉が見つからないのだろう。忙しなく口をパクパクさせていて思わず笑ってしまった。
「…なんでそう思うの」
沈黙が流れるけど不思議と気まずくはない。じっと向こうからの言葉を待っていると、ナルホドさんは両手をポケットの中に突っ込んでただそう言った。
「だって、自分に罪を着せた人の無実を最後まで懇願して信じていたような人がそんなことするかな?そんなお人好しだから弁護士になったんじゃないのかなって。当時はまだ大学生でしたし」 「人は変わるさ。ぼくもあの頃とは違うかもしれない」 「根本はそう簡単に覆せませんよ」
少し迷ったけれど、「司法試験また受けないんですか?」そう聞けばナルホドさんはニット帽を目深に被って「…さぁね」と言った。 踏み込み過ぎたかもしれない。でもどうしても伝えたかったから、例え喧しいと言われようとも後悔はない。これはただの私のエゴだ。
もしかして怒っただろうか。すっかり黙り込んでしまったナルホドさんに不安がかられて顔を覗き込むと、突然腕が伸びてきた。慌てて退くと、ナルホドさんの腕が私の手の中のセーターを奪おうと空を切る。
「そのセーターをこっちに渡しなさい」 「怖!?まさか捨てるつもりじゃ…」 「名無しちゃんに見られちゃったからね。仕方ないね」 「何で!?」
全くもって意味が分からない。人相が完全に悪人だ。 両手をわきわきさせながら近づいて来るナルホドさんに何故か追い詰められている。ジリジリとにじり寄って来る様に思わずセーターを遠ざけながら後退していると、足裏に何かを踏んづけた感触がした。
「うわッ!」
ぐるりと視界が天井を捉える。「危ない!」と叫ぶ声が聞こえて、強く目を瞑ると私はそのまま仰向けに転んでしまった。 背中に若干の痛みはあるけど、頭は床にぶつけた筈なのに衝撃がなかった。恐る恐る目をあけると、ナルホドさんが私の上に覆いかぶさるようにして乗っかっていて、右手で頭をぶつけないように後頭部を支えてくれていた。
「ごめん、大丈夫かい?」
思った以上に鼻先に顔があって一瞬思考が停止する。目の前のナルホドさんは冗談抜きで焦っていて、いつも気怠そうに細められた両目はこれでもかと開かれて私を見ていた。 無精髭のせいで分からなかったけど、間近で見るとナルホドさんってまだ若いんだなぁ。そんなことを呑気に考えている時だった。ドアの方から物音がして、ナルホドさんの肩越しにそちらに視線を向ける。
「あ、」
オドロキくんだった。足元に鞄と書類が散らばっていて、それが先程の物音の原因だと分かる。一瞬でこの場の状況を理解するも、そこからは言い訳する暇すら与えられなかった。 突っ立ったままのオドロキくんは酷くショックを受けたような表情で私達を見下ろしていて、肩越しに振り返ったナルホドさんが呼び止めようとするも、慌てて書類を拾い上げるなり「すみません!お邪魔しました!」とだけ叫んで部屋から出て行ってしまった。
「……」 「……」
嵐のように去って行った姿に暫し部屋に沈黙が流れる。視界の端に見えたナルホドさんはまいったと頭を掻いていたけど、私はそれどころではなくて、放心状態から我に返るまで少し時間がかかった。
「あれは完全に誤解したね…」
オドロキくんの表情が脳裏にこびりついて離れない。なんてタイミングが悪いんだろう。 頭を抱えたくなるのを我慢してナルホドさんにひっぱり起こしてもらうと、私はふらふらと部屋の外に出てリビングを覗いた。当然ながら彼の姿はない。 すると、事務所の大先輩チャーリーくんのお手入れをしていた春美ちゃんが不思議そうに出口を見ていて、それから私達の方を向いて首を傾げた。
「オドロキさん、今来たところでしたのに何やら凄まじい剣幕で去って行きましたけど、何かあったのですか?」 「ああ、うん…それはもう…」
ちらりと先程の物置部屋を振り返る。私が踏んづけたであろうマジック用のボールがコロコロと転がっていて、それはもう大きな溜息が勝手に溢れたのだった。
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