20.一等星に墜落
この季節でも夕方頃になると比較的涼しくて過ごしやすい。問題も無事解決して、安堵した私は自身の家兼店の前のガラスで己の反射と睨めっこをしていた。
警察の事情聴取を終えた後、お礼に皆で食事でもとみぬきちゃんに連絡を入れたのだが、用事があって王泥喜くんしか行けないと早口に捲し立てられてしまったのだ。王泥喜くんには何かとお世話になっているし、それならばと了承したものの、やたら緊張してしまってこうして誤魔化す為に私は忙しなく視線を泳がせていた。 それもこれも己の大胆すぎる行動が故の自業自得なのだが、今思い返してみると去り際の王泥喜くんは心ここに在らずな状態で、もしかしたら不快だったかもしれないと思うと尚更謝らなければと焦燥に駆られた。 いくら焦っていたとはいえ、突拍子もなく他人に顔を近付けられたら良い気はしないだろう。口パクで謝ったつもりではあるが、正確に伝わったとは限らない。 何だかここ最近、王泥喜くんには何かと不甲斐ない一面を見られているような気がして私は堪らず重い息を吐き出した。
「名無しさん!すみません、待たせちゃいましたか?」
飛んできた声に顔を上げると、オドロキくんが小走りで駆け寄って来るところだった。心成しか表情が硬い。
「ううん。大丈夫。それよりお誘いして平気だった?今日のことで疲れてるかなって」 「いや、そんな…寧ろ名無しさんの方が疲れてるんじゃないかって心配で…」
気まずい沈黙が流れる。居た堪れなくなって「行こっか」と話を誤魔化すと、オドロキくんは見るからに緊張した様子で大声で返事をした。相変わらずな様子に思わず笑うと、オドロキくんはホッとしたように肩の力を抜いたのが横目に見えた。
お店は近場の手軽な居酒屋だ。当初はみぬきちゃんとナルホドさんもいると思っていたから個室を予約していたのだが、まさか二人だとは思わず、しまったとお店に着いてから思った。 人数変更を伝えると、私達を見て気遣ってくれたらしい店員が案内してくれた部屋を見て案の定オドロキくんも口を一文字に引き結んでしまった。個室なので当然一面が壁で、つまり視線の逃げ場がないのだ。 これがデートであったならば良い雰囲気だと思えたのかもしれないが、今の私達は正にリングに上がる前のボクサー。謝罪の右ストレートをくらわすまで帰れないのだ。
注文を取りに来た店員さんに生ビールを二つと、適当な料理をいくつか頼む。メニューを一緒に覗き込むまではどうにか繋いだものの、それが終えた今二度目の沈黙が流れようとしていた。 痛い。あまりにも痛すぎる。一層のこと此方から切り出してしまおうと口を開いた時、私の声を遮るように大音声が個室に響いた。
「すみませんでした!」 「へ?」 「オレ、頭真っ白になっちゃって何も返事できなくて、嫌な態度とっちゃいましたよね…」
まさかの言葉に呆気にとられるが、何だか自分と食い違っているような証言に慌てて訂正する。
「だってそれは私があんな行動とっちゃったからで…相手を納得させる為とはいえオドロキくんを利用したことには変わりないんだから不快に思って当然だよ。だから、私こそごめんなさい」 「不快って」
鸚鵡返しに言葉を反芻してオドロキくんは首を傾げる。その行動の意図が読めなくて言葉に詰まると、扉が開いて飲み物が運ばれて来た。 絶妙なタイミングにオドロキくんはしどろもどろになりながら「今日はお疲れ様でした」とグラスを突き出す。私も再度お礼を告げてグラスをぶつけると、カチンといい音が部屋に響いた。そのままぐっと喉にビールを流し込む姿を見てグラスに口を付けると冷たい刺激が喉に降りて、気持ちがいい。 オドロキくんはお酒の力でも借りるかのような飲みっぷりで、中身はあっという間に減っていた。すぐに店員さんにもう一杯を頼む。
「オレは不快だとは少しも思いませんでした」
二杯目を受け取ると、気を取り直したように真剣な面持ちでオドロキくんは言い切る。珍しく憤りを感じる口調に驚いて彼の目を見ると、慌てて後ろ髪をかきながら苦笑を溢した。
「吃驚したのは事実ですけど、本当にそれだけで、嫌だったからとかではないんです」 「そ、そうなの…?」 「はい!それよりも、名無しさんがオレと付き合ってるなんて誤解をされてしまったのが申し訳なくて、そのことはオレからちゃんとみぬきちゃんに説明しておきますから」 「いやちょっとそんな飲んで平気!?」
がぶ飲みという言葉がぴったりなくらい凄い勢いでお酒を消費していく様子に慌てて止めに入るが、オドロキくんは「大丈夫です!!」と訳の分からないことを叫ぶだけで止まる気配がない。 失敗したと思ったけど、案外個室で正解だったのかも知れない。勢いのせいで頬も血色が良く、ほろ酔い状態なのだと分かる。お酒はあまり強くないとは言っていたけど、この飲み方は強いとか弱いとかいう問題じゃない気がする。
私が謝罪する予定だったのに、いつの間にか立場がすっかり逆転してしまっている。お酒が入ったおかげで言いたいことを言えたらしいオドロキくんは一息つくとグラスを持つ手を止め、私の反応を伺っているようだった。 一気に捲し立てられてしまったけれど、要はオドロキくんは「オレなんかの恋人のフリをさせてすみません」と言いたいらしかった。確かにキスのフリさえバレていなければみぬきちゃんにはとんでもない勘違いをさせてしまったことになる。私のことより、同じ職場で揶揄われていそうな姿が浮かぶオドロキくんの方がこの事実はかなり問題がありそうな気もするが、彼は頑なに謝罪を拒むのだ。 ん?と違和感に襲われる。そもそも、私はオドロキくんに対して申し訳なさを感じていても嫌悪感は抱いていない。では一体何に対しての謝罪なんだろう。
「解釈違いだったら申し訳ないんだけど…私はオドロキくんとの関係を勘違いされること、嫌とは思ってないよ?」 「…え?」
今度はオドロキくんが目を見開いて私を見る。何でその反応?と思ったのも束の間、またしても私は一歩間違えれば大胆すぎる発言をしてしまったことに気付いた。 そのまんま聞けば「恋人って思われていても良い」って受け取れるような発言だ。慌てて取り繕うけど、考えれば考える程ダメな理由が浮かばなくて、両手が意味もなく宙を彷徨う。
「その、なんていうか!オドロキくんは誠実だし優しいし素敵な男性だと思うからそんな自分を卑下しなくて良いって言いたくて、あの、オドロキくんと付き合える女性は幸せ者だと思うし!」
今だけは自分自身を殴りたい所だが、実際本音でもあるから尚の事口が滑って次々失言が飛び出てくる。固まっていたオドロキくんもついに俯いてしまったのを見て恐る恐る名前を呼ぶと、お酒のせいなのか果たして別の理由なのか。真っ赤な顔が「褒めすぎです…」と咎めるように私を見た。 あまりの表情に言葉を失ってしまう。ようやく自分が何を言っていたのか理解して、顔が勝手に赤面していった。見られないようにグラスで顔を隠しながらお酒を飲んでいると、オドロキくんも何も言わずにひたすら飲み物を嚥下していた。
今まで何かと誤魔化して気付かないようにしていたけど。感情を言葉にしてから漸く現実味が帯びてきた。
「(これは、私)」
押し込めるようにすっかりぬるくなってしまったビールを流し込む。オドロキくんは酔ってしまったみたいで口数も少なく、ウトウトしていた。 少しだけその顔を眺めた後、ゆっくり肩を揺すってみる。思いの外がっしりとした男性らしい筋肉が掌に触れて、私はまた勝手に一人で恥ずかしくなってしまうのだ。
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