01.青に変わる桃
小学生の頃、父に連れられて初めて裁判の傍聴をした。
「ちいちゃんは…ちいちゃんは、そんな酷いことしないんだぁあぁ!」
大人の事情が渦巻くこの場は本当に退屈だった。そんな場所に半ば無理やり連れてこられた私は当然難しい単語が羅列する会話など聞いている筈もなかったが、幼いながらに情けなく大泣きする目の前の男から目が離せなかったのを覚えている。
「それでは被告人に判決を言い渡します」
無罪。その言葉と共に、法廷内に木槌を叩く音と拍手が鳴り響いた。
またしても意味なんて分かりっこなかった。喜ばしい雰囲気だからきっと良いことなのだろう。だけれど、ピンクの男が更に泣き崩れたから、私は混乱した。 方々から集まる彼への憐れみの視線を子供ながらに敏感に感じ取った。そんな一日だった。
それから私は何となくあの場が苦手になった。父の強引な誘いも年相応に不貞腐れることで回避した。そうすれば無理強いしてこないことを知っていたからだ。 あの場は、法廷は、悲しい場所。怖い場所。小学生の私は読書感想文みたいな簡単な言葉で裁きの庭を印象付けたのである。たった一度の、偶然巡り合っただけの傍聴は幼心にはあまりにも強烈すぎた。 そんな思い出程頭にはよく残るものだが、中学校、高校、大学と大人の階段を登って行くにつれ、ピンクの記憶は次第にただの記憶となっていった。 なんてことはない。子供の頃苦手だったものが大人になってちょっと平気になった。それだけだ。
いつも通り七時ぴったりに起床する。何となく癖で目の前テレビをつけると、最近話題だった殺人事件の判決を知らせるニュースが流れた。少し苦い思い出がふと脳裏に浮かんで肺が燻る。その合図のようなものに、足は自然とベランダに向かっていた。煙草である。 全く減る気配のないボックスから一本取り出して火を付ける。バニラの甘い香りが鼻腔を掠めて、少し心が落ち着いた。 昔友人が部屋に置いていったものを試しに吸ってみた瞬間から見事にこのザマだ。敢えて言い訳をするとしたら、一ヶ月に一、二本程度だということだ。愛煙家には程遠い。これでも私も嫁に行きたいのでね。
「さて、今日も頑張りますかぁ」
静かな部屋に流れるテレビの音を背に、私は最後の一口を空に向かって吐き出した。
***
身支度と朝食を終えた後、一階に降りた。広がるのは最早見慣れたアンティークな店内、”Horoscope”。父から譲り受けたカフェバーだ。 昼間は普通のカフェ、夜からはちょっとしたバーなんかをやっている。私はその店長というわけだが、店名が店名なだけに星占いと勘違いした来客が少なくなかったりする。正直、納得できない。どう頑張ったって占いの館に見えないだろう。 そんなお店でもありがたいことに近所では愛されている。今日も朝の一杯のコーヒーをお客様に届けよう、そう意気込んでいたのだが、どこからどう見ても怪しい雲行きに打ち砕かれるのだった。
「…十二時、お客様無しっと」
ノートに来店記録を付けて小さく溜息を吐く。窓の外を見れば、雨は徐々に強くなっている。雨天時の来客数が少ないのは今に始まったことではないが、いつになってもこの状況は虚しいものだ。何しろ私の生活がかかっているのだから。 どうしたものかと外を眺めていると、女の子が傘も持たずに走ってくるのが見えた。お店の軒の下に入るなり肩を上下させている。かなり必死に走ってきたのだろう、制服がぐっしょりと深い色になってしまっていた。無理もない。お天気のお姉さんは雨が降るなんて一言も言っていなかった。 暫くは止まなそうだ。流石にそのままにしておくのは気が引けて、私は入口を出ると女の子の元へ向かった。ドアを開ける際にチリンと鳴ったベルの音で気付いたのか女の子は顔を上げると、驚いたように私を見た。中学生くらいだろうか。可愛らしい女の子だった。
「あっ…ごめんなさい!雨宿りで勝手に入っちゃって」 「いいのいいの。それより寒いでしょ?風邪引くし、良かったら止むまで中で待っててもいいよ」 「でも…」 「子供が遠慮なんてしないの!あ、ちなみに私は不審者じゃないから安心して」
態とらしく踏ん反り返って見せれば女の子はぽかんとした後、可笑しそうに笑った。その様子に一安心し、案内するようにドアを開けてあげれば女の子は「お邪魔します」と少し遠慮がちに足を踏み入れる。 二人用テーブルを何席かすり抜けメインのカウンターに女の子を座らせる。ハンドタオルを取り出して渡せば、ありがたく受け取ってくれた。女の子が顔や鞄を拭いている間にミルクとココアパウダーを鍋に入れじっくりと沸かしていく。
「私みぬきって言います!タオルありがとうございました」 「どういたしまして。みぬきちゃんのお家はここから近いの?」 「みぬきのお家はね、ここから歩いて三十分くらいかなぁ」 「そりゃ絶妙に遠いね」
雨の中三十分は中々にしんどい。丁度良い所にうちのお店があって良かった。 鍋の中を一混ぜし、マグカップに注ぐ。湯気と甘い香りを漂わせるそれをみぬきちゃんに差し出せば、またしても彼女は驚いたように私を見た。言いたいことを察した私はみぬきちゃんが口を開くよりも先に先手を打つことにした。
「ダイジョーブ!このココアはお姉さんの奢りね。勿論お金とか気にしなくて良いから」 「ありがとうございます…。あの、お姉さんのお名前は?」 「私は、名無しっていうの」 「名無しさん!ココアすっごく美味しいです、ありがとうございます!今度パパも連れてきますね」
そう言ってみぬきちゃんは可愛らしく笑った。雨が止むまで、小さなお客様と他愛も無い話をする。今日は少し珍しい日だなんて思った この時はまだ、こんなにも人生がガラリと変わるなんて私は少しも思わなかったのである。
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