44.打ち靡くわが黒髪の霜の置くまでに
一週間の入院を経て無事退院した私は、暫くの間蝶屋敷での機能回復訓練に専念することになった。 内容は前回と変わりないが、基本的に凝り固まった体を解す柔軟が主な訓練だ。任務にはまだ参加できないから、地道に全快していくしかない。朝から女の子三人に組み敷かれ苦しんだ後、夜は一人ひっそりとご飯を食べて就寝するのがこの頃の習慣となっていた。 と言うのも、すっかり復帰した善逸と伊之助は只管任務の毎日で中々夕餉を共にできないし、唯一一緒だった炭治郎も鋼鐵塚さんから怨念の篭った文が届くなり、決然たる足取りで刀鍛冶の里へ出かけて行ってしまったのだ。 有難いことに私達四人は蝶屋敷の部屋を貸して貰っているので一生のお別れなんて大層な話ではないが、問題はそこではない。
二ヶ月ぶりに目が覚めた時を最後に、伊之助に一度も会っていないのである。 ミツアナグマよろしく暴れていたのが最後の姿だなんて…。 アオイちゃん曰く、私が寝ている間に屡部屋を覗きに来ていたらしいが、私としてはちゃんと目を合わせて話をしたいし伝えたいことだってある。けど、いつ帰還するかも分からないのにその為に延々と部屋で待ったり任務に付いて行くのは違う気がする。伊之助もそれを喜ぶとは到底思えないし、何より自身の復帰がまずは先決だ。
思考の海に溺れながら黙々と夕餉を進めていると、不意に廊下に繋がる障子が開かれた。一体誰だろう。そう思って視線を向ければ、そこには御膳を持った善逸が部屋に入ってくる所だった。
「……今伊之助じゃなくてがっかりしただろ」
「まッッ!まさか!おかえり善逸!」
「相変わらず誤魔化し方へったくそだよね?とりあえず、ただいま」
「あー疲れたぁ…」とげっそりしながら向かい側に座る善逸。嫌々向かった任務は余程骨が折れたのか、疲労が滲み出ていた。
「何、伊之助とはまだ会ってないの?」
「うん…やっと退院できたと思ったら次は擦れ違いの連鎖」
「ふーん。流されちゃったから確認できなかったけど、結局お前らはそういう関係ってことで把握して良いわけ?」
花街に出向く前に善逸が気絶したのを思い出す。代わりに炭治郎が聞くっていう流れになってしまったせいで善逸としては何が何だかな状態なのだろう。 炭治郎には曖昧に答えてしまったけど、今となっては私の気持ちは一つに固まった。肯定を表してぎこちなく頷けば、善逸があからさまに大きな溜息を零した。
「まさか伊之助の奴に先越されちゃうなんてなぁあ。まぁ、俺には禰豆子ちゃんっていう可愛い妻がいるから問題ないけど!」
「炭治郎に許可とったの?その発言」
あんなに自信満々だったのに想い人の兄の名を聞くなり目を泳がせる善逸。 といっても私も伊之助に何も伝えられてないんだけど。 独り言のつもりだったが耳が良い善逸にははっきりと聞こえていたらしい。口元まで運んだ鮭の切り身がポロリと箸から落ちていくのを目で追った後、前に向き直ればこれでもかと口を空けた善逸が唖然と此方を見ていた。
「え、何?どういうこと?あんなにイチャコラしといて?伊之助の片想いってこと?」
「イチャコラ…。何ていうか、私で良いのかなとか思っちゃうじゃない?恥ずかしくてつい流してしまったというか…ほら、伊之助綺麗な顔してるから直視できないし」
「……」
「何で引くのよ」
「いや…俺は今惚気でも聞かされてるのかなって」
「違うよ」
ドン引きの眼差しで見つめてくる善逸はもう一度溜息を吐くなり「アイツせっかちだからあんまり待たせると癇癪起こすぞ」と再び自身の食事を再開した。 その言葉に一理も二理もあるような気がして、私は何だか歯痒い気持ちのまま残りの味噌汁を流し込んだ。
***
夕餉も湯浴みも終えて後は部屋に戻るだけだったが、中々眠気が襲ってこない私は少し風に当たろうかと何時ぞやの屋根の上に来ていた。 蝶屋敷の屋根からは何時だって綺麗な月が見えるからお気に入りだった。炭治郎も時に瞑想しにここに来るらしく、目の前の星空は見るものを落ち着かせる力があるのだと改めて実感したものだ。
伊之助と仲があまりよろしくなかった時(一方的にだが)も一度ここで月見をしたなぁ何て頭の片隅で思いながら満月を見上げる。ひんやりした風が火照った身体を撫でて気持ちが良い。 あの頃とは何もかもが違って見える。否、事実違うのだろう。あの頃に当たり前のようにいた人間はもうこの世界のどこを探してもいないし、当たり前のように季節は移ろう。昨日敵だと思っていた相手が途端に想いを寄せる相手にだって成り得るのだ。
―――― 今、この場にいてくれたらなぁ。
「こんな所にいやがったのか馬鹿女!俺は親分だぞ、何時まで探させる気だ!」
「へ?」
思わず変な声が漏れた。風に髪が攫われて、鼻腔に石鹸の香りが広がる。幻じゃない。
「おい、聴いてるのか?」
満月を背負って、どこまでも美しい彼が顔を覗き込んでくる。思わずズポリと猪頭を引っこ抜けば、今度は伊之助が目を丸くさせた。
「いきなり何すんだよ」
「顔が、見たいなと思って」
「返せ」
「あ」
手中から猪頭が奪われ、再び元の場所に帰っていく。ケチだ。 それなのに、伊之助が腰に手を当てながらズイっと顔を近付けてくるので、隙ありと頭ごと抱きしめれば珍しく筋肉質な身体が跳ねた。抵抗されるかなと思ったけど意外にも大人しい。私に正面から抱きしめられたまま遂に腰を降ろしたので、どうやら嫌ではないのだと確信する。
「今丁度伊之助に会いたいなって思ってたの。だから探してくれて嬉しい」
「…」
「うん?」
「…お前、いつもと違くないか」
そうだろうか。いつもと変わらない気がするけど、少し大胆過ぎただろうか。だけど、こうして無事にまた会えたのだ。高揚するなという方が無理だ。 ぎゅうぎゅうと体温を感じるように身を擦り寄せれば、伊之助もぎこちなく腰に手を回してくれた。彼なりの愛情表現なのだと思うと胸が痺れるように痛む。心地いい熱に、せっかく冷めた身体も逆戻りだ。
「私、伊之助が好き。大好き」
あれだけ躊躇していた言葉が思いの外するりと口から出て自分でも驚いた。伊之助の反応を伺えば、私の顔を見つめたまま硬直している。え、何で? はて、と首を傾げるが、一つの予想が思い付くと私はもう一度猪頭を奪ってみた。
「…真っ赤だね?」
「ハッ……おい!今すぐ返せ!あと見んな!」
猪の下には珍しく耳まで赤くなった伊之助の顔があって思わず目を丸くする。二度目の稀な光景に悪戯心が湧き、猪頭を背後に隠してみる。案の定奪い返さんと襲いかかってきたのを「落ちちゃうよ」と制すれば、悔し気に座り直した伊之助が目を逸らした。 今にも暴れ出しそうだが何も私も悪戯心だけでこんなことをしているのではない。こうでもしなきゃ伊之助は絶対顔を見せてくれなさそうだし、それに私だけ顔色が丸見えなのは不公平だ。
「これで平等でしょ?だめ?」
「それ、分かっててやってるだろ」
「えー何のことー」
「とぼけんな!」
手首を掴まれて覆い被さられる。いつの間にか猪頭も奪われていて、目の前にはしてやったりと言わんばかりの伊之助が私を見下ろしていた。 心臓が煩いくらいに高鳴る。夜空に瞬く星々より、伊之助の宝石のような翡翠の方が何倍も綺麗だと思ってしまう私は等々気でも触れたのかもしれない。これじゃ善逸に呆れられても仕方ないな。
「もう一度言え」
翡翠が大きな海みたいに揺れる。いっそ、溺れてしまえたらいいのに何て思った。
いつだって私は間に合わなかった。大切なものも、幾つも掌から落としていった。そんな私が、人一人望むなんて大層な欲を抱いて良いのかと思う。 それでも、やはり人間ていうのは慾深なものだ。憂いを抱いても尚、愛を欲してしまうのだから。
「ずっと、私だけを見て」
―――― 弱くて脆い、白の私を
「白のセンチメンタル」 2020/4/30 終
戻る |