40.美女と醜女
分裂を吸収して本来の姿に戻った堕鬼は禍々しい空気を放っていた。屋根から睨めつけてくる圧迫感に一歩後ずさる。 すると、騒ぎを聞きつけたであろう男が大股で歩いてくるのが見えた。
「おい!何をしてるんだお前達!」
「しまったッ、来ないでください!」
「はぁ!?人の店の前で揉め事起こすんじゃねぇぞ!」
周囲を見渡せば、いつの間にか多くの住人が不安の色を滲ませながら此方を見下ろしていた。鬼殺隊にとっては殺し合いの場でも、この人達からすればいつも通りの日常を乱されているだけなのだ。巻き込むわけにはいかない。
「うるさいわね」
「下がって!建物から出ないで!」
花の街に斬撃の雨が降る。瞬きの一瞬の出来事だった。
肩口から血が吹き出て、地面に散っては色付いていく。辛うじて日輪刀で急所を免れたが、斬撃を受けた建物はたったの一線で真っ二つに半壊していた。建物だけならまだ良かったのかもしれない。中には人間が住んでいた。その人間ごとこの鬼は斬り捨ててしまったのだ。 砕け散った壁の奥から切り刻まれた人間の死体が幾つも転げ落ちてくると同時に、原型を留めていない亡骸を揺さぶる女房や、泣き叫ぶ子供の悲鳴が暗い街に響き渡る。せめてもと庇った男性も、片腕がなくなってしまっていた。
「落ち着いて。あ、貴方は助かります。腕を、紐で縛って」
目の前の惨劇から目を離さず、炭治郎は荒い呼吸を繰り返しながら背後の男性に逃げるよう促す。欠損はない。しかし、地面に溜まる血痕が重症であることを何よりも表していた。 痛い。足先が冷たい。でもそれよりも、身体の奥から沸騰するような感覚が強かった。――― 鬼が憎い。どんなに自分を偽っても、憎しみは奥底に根付いて消えていなかった。 堕鬼は満足気に微笑むと、踵を返した。絶対に逃さない。
「待て。許さ、ないぞ…こんなことをしておいて」
「何?まだ何か言ってるの?もういいわよ不細工。醜い人間に生きてる価値ないんだから仲良く皆で死に腐れろ」
愛する人の名前を叫ぶ声が聞こえる。上下左右前後、あらゆる方面から哀しみの音が絶えない。
「…価値がない人間なんていない。アナタにとってはそうでも、必ず誰かがその人を必要としてる。生きてる価値がないなんて、アナタが決めるな」
「興味ないわね」
そう吐き捨てて去っていく後ろ姿を、飛び上がった炭治郎が足を掴んで止めた。驚きに振り返った隙に、すかさず斬撃を繰り出す。既の所で身を翻した堕鬼に間合いをとられたが、尻餅をついたのを見て不思議に思う。片足がない。
「失われた命は回帰しない。二度と戻らない」
まさか。一つの予想が浮かんで隣を見る。炭治郎の左手には、千切られた堕鬼の足が握り締められていた。鬼の四肢を、人間の腕力で。 姿形は何も変わっていない。しかし、纏う空気が、目が、言葉が、炭治郎本人ではないように見えた。じゃあ貴方は、
「人間だったろうお前もかつては。痛みや苦しみにもがいて涙を流していた筈だ」
あなたは一体誰?
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ五月蝿いわね。昔のことなんか覚えちゃいないわ」
堕鬼が拳で瓦を叩き割り、炭治郎の言葉を遮る。
「アタシは今鬼なんだから関係ないわよ。鬼は老いない!食う為に金も必要ない!病気にならない!死なない!何も失わない!そして美しく強い鬼は何をしてもいいのよ」
「分かった。もういい」
炭治郎の両目から血の涙が一筋流れて落ちる。その瞬間、目にも留まらぬ速さで屋根の上を駆け抜けていった。堕鬼の無数の帯が交差して、突っ込んでいく炭治郎を包み込む。 冷静なのか、怒りで我を忘れているのか判断がつかない。
「炭治郎!」
止まらない両足に堕鬼が余裕そうに微笑んだのも束の間、円形に燃え盛る紅が全ての帯を切り落としていった。 技の鋭さがまるで別人。ヒノカミ神楽を完全に自分のものにしている人の動きだ。さっきの炭治郎は数回で呼吸が乱れてしまっていたのに、それこそ息を吸うように舞っている。 不思議なことに堕鬼の再生能力も落ちているようだった。技のせいなのか、身体的なものかは私には分からない。しかし、確実に堕鬼に致命傷を与えている。
何が起きているのかさっぱり分からないけど、今が正しく好機だということは分かる。
追い詰められた堕鬼の頸を炭治郎の日輪刀が捉える。しかし、どうやらこの鬼は身体自体が帯でできているらしく、頸を緩やかにしならせて威力を殺してしまった。 ならばもう一撃与えれば! 堕鬼が炭治郎しか見えていないのを良いことに、背後からも日輪刀を叩き付ける。予期せぬ攻撃に、帯の端がみちりと悲鳴をあげた。いける。斬れる!
「アンタ達みたいなクソ餓鬼に、アタシの頸が斬れるわけないでしょ…ッ!」
身体から更に増やされた帯、合計十三本が蛇のように唸って襲いかかってくる。 「あともう少しだったのにッ」
「斬らせないから今度はッ!さっきアタシの頸に触れたのは偶然よ!」
荒々しい乱撃を二人掛かりで薙ぎ払いながら確実に距離を詰めていく。攻撃を弾きながら、炭治郎が私に目配せをしたような気がして視線をずらすと、顔色一つ変えずに、更には私に見えるような距離感で炭治郎は帯を一箇所に受け流していた。 動体視力も上がってるの?もう何が何だか。 とにかく、何か考えがあるらしい炭治郎に合わせて同じく帯を一箇所に集まるよう受け流していく。二つの束が一つになった時、日輪刀を帯ごと瓦に突き立て、張るように引っ張った。 しなやかな帯も、張ってしまえば斬るのは一瞬。戦法を察した私は、身動きが取れない炭治郎の代わりに地を蹴った。
「氷の呼吸。参ノ型――――”柳の雪折れ”!」
「え」
頸目掛けて横に一閃。形の良い唇から音が漏れて、堕鬼の目が丸くなる。
斬れる。斬れ!
「――――ゲホッ」
届いた刃がぐにゃりと帯に包まれ、今度は私が目を丸くする番だった。 視界に広がる堕鬼の美しい顔は何が起こった分からず硬直したまま。だけど肝心の頸は斬れていない。張った筈の帯は緩まり、激しい咳の音色が背中を打つ。
「たんじッ…!?」
我に返り、咄嗟に攻撃を避けようと身体を捻った刹那、帯が脇腹を掠っていった。 勢いが止まらず屋根の上を転がっていく身体。じくじくと抉られた部分が熱い。今頃真っ二つになっていたであろう胴体を想像して、少しでも避けるのが遅かったと思うと全身から嫌な汗が吹き出た。 何とか屋根から投げ出されずに踏みとどまるも、先程の肩の怪我と今の一撃が想像以上効いてしまって膝を着いてしまう。 視線だけで炭治郎の姿を探すと、興奮状態が途切れたのか、そこにはいつも通りの目の色をした炭治郎が張り詰めた糸を切ったかのように崩れ落ちたままだった。激しく咳込む度に吐血をしている。
「…惨めよね。人間っていうのは本当に。どれだけ必死でも所詮この程度だもの気の毒になってくる」
形勢は完全に逆転。
「そうよね、傷も簡単には治らないしそうなるわよね。お返しにアンタ達も頸を…」
「それ以上、近寄らないで」
「…アンタ、まだ生きてたの。随分頑丈な女ね」
蹲る炭治郎に伸びていた帯を突いて、動きを止める。 正直、これが無意味な抵抗だって分かってる。こんなへなちょこな一撃鬼からしてみれば悪足掻きでしかないだろう。だけど、こんな無意味な抵抗でも積み重なれば意味が生まれるものだ。堕鬼の意識を奪っている間に炭治郎は回復の呼吸をする。いつだって私達はこうして助け合って戦い抜いてきた。 緩やかな帯が私の身体に巻き付き、宙に持ち上げられる。任務中散々味わってきた値踏みするような視線にそろそろ嫌気がさしてくる。
「興味がなかったから気付かなかったけど、アンタよく見たら綺麗な顔してるのね。と言ってもそこら辺にいそうな程度だけど。まぁ、食べてやっても良いかな」
「貴女は鬼でも…羨ましくなっちゃうくらい、美しいね」
「何当たり前のこと言ってるの?当然でしょ」
「でも中身がとんでもなくブスだ」
「ブス…?」と怪訝そうにする堕鬼に、思わず口角が上がってしまった。
「不細工って意味よ。分かったならとっとと離してよブス」
「こんの、糞餓鬼がァッ!!」
視界が反転した。突き抜けるような風と共に景色が次々と変わって、自分が投げ飛ばされたと理解したのは建物に衝突してから数秒後だった。
背中を強打したせいで息ができない。少しでも肺を動かせば砂塵を吸い込んで窒息してしまいそうだった。いや、最早あんな所から飛ばされて生きているだけでも奇跡だ。容赦無く頭上に降ってくる瓦礫が嫌でもこれが現実だと言っている。 少しでも気を緩めれば飛んでしまいそうな意識。身体はもう動かなくて、繋ぎ止めるだけで精一杯だ。
「気絶…するな、起きろ私ッ」
炭治郎を、助けに行かなきゃ。寝てる場合じゃないのに。お願い、もう少しだけ頑張って。
――――もう誰も、失いたくなんてない。
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