35.林檎と接吻




「お前に渡すものがある」

 そう言われてピンときたのはやはりこれだった。

「…あ、もしかして新作のどんぐりでしょ!良いの見付かった?」

「……」

「え、違うの」

 私の発言にムスッとしだす伊之助。どんぐりでなければ何だろう。考えても答えは一向に出てこなくて、一目瞭然に慌てだした私に伊之助が「手、出せ」とぶっきらぼうに言った。
 何だかいつもと違う雰囲気に余計にどぎまぎしながら、私はおずおずと片手を差し出してみる。すると、いつもの伊之助だと思えないくらい優しい手付きで手首を掴まれた。
 沢山鍛えられて節くれだった掌。伏し目がちに揺れる長い睫毛。そのどれもが蝋燭の淡い色に照らされて、一直線に私に飛び込んでくる。
 
「やる」
 
 見とれている間にいつの間にか掌に感じた小さな感触に視線を下に向けると、そこにはお猪口のような形をした白い入れ物。使ったことはなくとも、何となく知っているそれは、大正時代を生きる普通の女性からしたら必需品とも言える品物だった。

「もしかしてこれ……口紅?私にくれるの?」

「そうだって言ってんだろ。でも池に落としたことは謝んねぇからな!」

「…うん、うん、それは良いの、全然」

「ふにゃふにゃすんな」

「イダダダッご、ごめ、だって嬉しくて」

 伊之助がこうやって私に会いに来てくれたことが、らしくもない贈り物をくれたことが堪らなく嬉しい。凄く、嬉しい。

「ありがとう伊之助!大事にする!」

 勝手に上がっていく口角。素直になれない私は、その気持ちを込めて、精一杯の笑顔を向けた。伊之助が両頬を引っ張っていた手を止めて私を見る。そして驚いたように目を見開いたかと思うと、突然此方にくるりと背中を向けてきた。
 謎の行動にはて、と首を傾げる。「伊之助?」と膝立ちで近寄れば、長い髪からはみ出た両耳がほんのりと赤く染まっていた。
 ……嘘、でしょ。見てはいけないものを見てしまったかのようだ。

「ちょっと、こっち向いて」

「!?やめろ、引っ張んじゃねぇ!」

「ちょっとだけだからッ!」

「見んじゃねぇええッ」

 私が伊之助の肩を引っ張り、伊之助が全力でそれに抵抗しようと私の顔面に手を押し付けてくる。今「怪力女がぁあ」って聞こえたぞ。
 お互い過酷な鍛錬に身を投じてきたのだ。当然、力だってあるに決まっている。だが所詮は男と女。本気をだした伊之助にあっさりと跳ね除けられてしまった私は、全力で不満の意を目の前の背中に示した。

「…塗らないのかよ。口に付けるんだろそれ」

「!うん、今塗ってみる」

 尚も此方を見ない伊之助に促されて早速蓋を開けてみると、艶々と光る美しい真紅が除いた。沢山あった色の中で、どうしてこの色を選んだのか気になったが何だか聞くのは野暮な気がしてやめる。どんな色であろうと嬉しいのには変わりないのだ。
 胡蝶さんが与えてくれたこの部屋に唯一あった鏡台を覗き込んで、薬指に紅をとった。しっとりと油のようにつくそれはまるで血のようにも見える。
 化粧という初めての行為に、やはり女を捨て切れていなかったらしい私は緊張と感動を織り交ぜながら、自身の唇をそっとなぞった。

「うわぁ」

 たった一色、唇に乗せただけで華やいだ表情に感嘆の息が漏れた。
 蝋燭の頼りない灯りしかないこの部屋でも主張する色。雪すら溶かしてしまいそうな、燃えるような紅。私には派手すぎやしないだろうか。変に思われたりしないだろうか。私に、似合っているだろうか。
 浮き足だったまま「どう?変じゃないかな」といつの間にか此方の様子をジッと伺っていた伊之助に近寄れば、まるで私の言葉など聞こえていないかのように無言で唇に視線を向けた。中々返ってこない返事に、やっぱり変だっただろうかと不安になってくる。


「林檎みたいだ」

「え、」

 今度は強く掴まれた手首。次に言葉ごと飲み込むように触れた熱。至近距離に、開いたまま揺れる翡翠が見えた。

 真っ白な頭で、ただ一身に熱を受け止める体が伊之助の重みで簡単に布団の上に転がる。そのままもう一度口吸いをして、味わうように最後、紅をひと舐めした目の前の男は上半身を持ち上げると「まじぃ」と言って舌を出した。
 そりゃそうだ、口紅は食い物じゃない。意外にも冷静に頭の中でそう思った自分に驚く。まるで、他人事のように目の前の出来事を見ているような気分だった。

「同じ味だったら良かったのにな。よし、全部俺が取ったからもう付いてねぇ」

「な、にを」

「もっかい、して良いか」

 そんなこと、聞かないで欲しい。子供みたいな顔で見下ろされて、心臓が鷲掴みされたような感覚に陥る。無言を肯定と受け取ったのか、伊之助は両手を私の顔の横につくと、ゆっくりと体を下ろしてきた。
 何度も何度も拙く、本能で触れるように合わさる唇に心臓が弾けてしまいそうだった。目が合った瞬間思わず押し飛ばそうとした腕がいとも簡単に捕まえられて、床に縫い付けられる。
 
 あの時のように、この行動に「何で」はもう言わなかった。溶け合う熱が、優しく触れる薄い唇が、全てを物語っていたから。

「んッ…はぁ」

「名無し」

「名前、今呼ぶの狡いよ…」

 本当に狡い。いつもは馬鹿女だの怪力女だの好き勝手呼ぶ癖に、肝心な時で名前を間違えないのだからこの男は本当は確信犯なんじゃないかと思う。
 顔が沸騰するように熱い。浅くなった呼吸で生理的に浮かんだ涙に、目の前の白い喉が上下したのが見えた。今まで見たことのない熱に帯びた”男”の表情に自分の中の期待が膨らんでいって、そうさせているのが自分なのだと思うと、とんでもなく背筋がむず痒くなった。

「お前が欲しい。嫌とは言わせねぇ、お前が煽ったのが悪いんだからな」

「私のせいなの?」

「お前のせいだ」

 もう何も言わせないとでも言うように、また唇が降ってくる。額、頬、首筋、その全てを堪能するように触れられて、二の句が継げなくなってしまう。
 私からも言わないといけないのに、言わせてくれない。その行動が少し伊之助が怖がっているようにも見えたが、流石に自惚れかもしれない。

 慣れない手付きで抱きしめられて、本物の伊之助はこんなにもあたたかったんだと思った。ふと上を盗み見れば、伊之助の長い睫毛に縁取られた目尻が赤く染まっていて、またキュと胸が鳴った。

「だから見んなって。これ以上ホワホワさすんじゃねぇ」

 今更そっぽ向いたって遅いと言うのに。余裕そうなのか、そうじゃないのか、相変わらず無茶苦茶なこの男に何も言えないのは惚れた弱みだ。
 
 出逢った頃と同じような体勢で、あの頃とは真逆の台詞。今この瞬間が夢じゃありませんようにと強く願った。




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