29.煉獄




 次元が違う。ただその事実だけが身体中に重石のように纏わりついて私を動けなくさせた。

 伊之助に抱えられ走り着いた先には、煉獄さんと突如現れた”上弦の参”がいた。どうしてここに、早く加勢しなきゃ、そんな考えさえ掻き消してしまう程の力のぶつけ合い。頬を撫でつける熱さが、先程の衝撃音の正体だったのだと今理解する。
 傍らには炭治郎がなすすべも無く座り込んでいた。仕方がなかった。目の前の圧倒的な速さに、隙のなさに、その異次元の空間に立入れる者などこの中に誰もいない。煉獄さん、その人以外誰もいないのだ。一歩踏み込んだだけで強まる死への予感に、どうしようもなく両足が震えた。

「生身を削る思いで戦ったとしても無駄なんだよ杏寿朗。お前が俺に喰らわせた素晴らしい斬撃も既に完治してしまった。だがお前はどうだ?」

 潰れた左目。折れた肋骨。傷付いた内臓。煉獄さんの身体は、もう取り返しが付かない程ボロボロだった。それに比べ、上弦の鬼は涼しい顔をしていた。
 頭の奥で警報が鳴り響いて、思わず動いた足が砂利を踏んだ。その音に気付いた鬼が此方を一瞥する。その鬼は遠くにいたけど、確実に視線が混じり合い、たったそれだけの事に心拍数が跳ね上がって恐怖に埋め尽くされた。
 鬼はすぐに興味なさそうに視線を逸らし、「どう足掻いても人間では鬼に勝てない」とまるで嘲笑うように、諭すように言葉を紡いだ。

「俺は俺の責務を全うする!ここにいる者は誰も死なせない!」

「素晴らしい闘気だ…それ程の傷を負いながらその気迫、その精神力、一部の隙も無い構え!やはりお前は鬼になれ杏寿朗!俺と永遠に戦い続けよう!」

 二者が同時に地を蹴った。燃え盛る炎と腕力がぶつかり合い、轟音が響きわたる。目の前が衝撃で白く光ったと思うと、強烈な波が風圧として襲いかかってきて堪らず手を顔の前で交差した。どうにかそれに耐えていると、途端に静まり返った空間に呆然と顔を上げる。
 土煙でよく見えない。目を凝らして、凝らして、微かに晴れてきた見えた光景に、隣で炭治郎が声を洩らした。ひゅっと喉が鳴る。

「死ぬ!死んでしまうぞ杏寿朗!鬼になれ、鬼になると言え!」

 鬼の右腕は確かに煉獄さんの腹部の深くまで貫通していた。一目で分かる程の致命傷。立っていられるのが不思議なくらいだった。それでも煉獄さんは力強い眸のままで、日輪刀を鬼の頸に叩き付けた。硬い鬼の頸を押し切るように力が込められる。振り解かんと突き出された鬼の左腕を掴み、逃がさないように繋ぎ止める。瀕死の人間とは到底思えない力だ。
 ―――― ふと、東側の空が白んだ。夜明けが近い。弱点をいち早く察した鬼は、先程とは打って変わって焦ったように暴れ出した。それでも腕を離さない煉獄さんに、炭治郎が突如走り出す。

「伊之助!名無し!動けーッ!煉獄さんの為に動けーッ!」

 空気を裂くような炭治郎の叫び声に我に帰ると、縫い付けられたように動かなかった両足を必死に奮い立たせて走った。日輪刀を抜き、呼吸もままならない太刀筋で振り上げた。頸を斬る。それだけで頭がいっぱいだった。
 頸が目前まで迫る。あとほんの少しの瞬間で、鬼は力強く飛び上がった。地面を蹴り飛ばした衝撃波で身体が倒れる。唖然と見上げた先には、両腕を自ら切断して逃れた鬼がいた。徐々に強くなっていく陽の光に、焦りの色を滲ませて逃げ出す。その後ろ姿を、気付けば私は追いかけていた。

「逃げるな卑怯者!逃げるなァ!」

 叫んだ炭治郎が投げた日輪刀が鬼の身体に突き刺さった。目を見開いて止まったその一瞬の隙に、水の呼吸を繰り出す。

「水の呼吸ッ……!!」

「このッ…ガキがァ!」

 振りかざされた拳の衝撃波だけで私の身体は呆気なく吹き飛ばされた。情けなく転がる自身を責めるように、叫び声をあげてもう一度立ち上がる。
 それなのに、私の刃は届かない。踏み出した途端に崩れ落ちた膝に抗う術がない。どんどん、鬼の背中が小さくなってく。

「いつだって鬼殺隊はお前らに有利な夜の闇の中で戦ってるんだ!生身の人間がだ!傷だって簡単に塞がらない、失った手足が戻ることもない!逃げるな馬鹿野郎、馬鹿野郎!卑怯者!」

 鬼がもう振り返ることはない。陽光から身を隠す為に、暗い木々の中へ溶けていく。

「お前なんかより煉獄さんの方がずっと凄いんだ!強いんだ!煉獄さんは負けてない。誰も死なせなかった!戦い抜いた、守り抜いた、お前の負けだ!煉獄さんの勝ちだ!」

 炭治郎は息が切れるまで叫んだ。もう誰もそこにはいなかった。悔しくて、悲しくて、分かっていても追いかけたかった。こんな終わり方があって良いのだろうか。覚束ない足取りで後を追う。もうとっくにその先にいないことなんて分かっているのに、私の中の鬼への執念が歩みを止めてくれない。
 パシリと誰かが私の腕を掴んだ。けど、それすら煩わしくて振り払う。目の前しか見えなくても、何となくそれが伊之助だと分かった。振り払われても引き摺るように逆方向に引っ張る伊之助に、苛立ち気味に腕を振り払う。

「離してよ」

「……」

「離してよ!こんなのやだよ!離して、離してッ!」

 乾ききった喉は声を発しただけでも苦しい。掠れた声で感情を言葉にした途端、連動するように涙までもが溢れて止まらなかった。こんなの、殆ど八つ当たりだ。自分が弱いくせに、柱の期待を裏切りたくないなんて言ってたくせに、何もできなかった。近付くことすらできなかったのに、行ってどうするというのか。
 ぼかぼか殴られても伊之助は何も言わなかった。堪えるように押し黙った肩は震えている。とうとう炭治郎と揃って泣き喚き出した私達に、煉獄さんは「もうそんなに叫ぶんじゃない」とふっと微笑んだ。

「君達が死んでしまったら俺の負けになってしまうぞ。こっちにおいで。最後に少し話をしよう」

 最後なんて、そんなことを言わないで欲しい。足が竦んで動けない私を、伊之助は無理やり手を引いて煉獄さんの元へ連れていってくれた。煉獄さんの腹に刺さったままだった鬼の腕が陽光を浴びて灰となり散ってゆく。塞ぐものがなくなった今、溢れ出した中身が地面を赤く染め上げていった。
 それでも尚、炭治郎に”ヒノカミ神楽”についての手掛かりを伝える姿に、炭治郎が堪らず止めようとする。それでも煉獄さんは話すのをやめなかった。もうすぐ自分は死ぬのだからと。

「弟の千寿朗には自分の心のまま正しいと思う道を進むよう伝えてほしい。父には、体を大切にして欲しいと。それから、竈門少年。俺は君の妹を信じる。鬼殺隊の一員として信じる」

 どうしていつもこうなるのか。いつだって正しい人が先にいってしまう。どんなに引き留めたって、関係なくこの世を去っていってしまうのだ。この人は――― 柱は、私よりも遥か先の所で戦っているというのに。どうして私はこんなにも、弱い。
 弱い。全てが。心も、身体も。あんなに憎しみに突き動かされてやってきたのに、結局私は何一つ成し遂げられてはいない。無様に這い蹲って唇を噛み締めているだけだ。この人は世界でたった一人しかいないのに、誰にも代わることなんてできないのに。胸に空いた穴から全身が冷え切るようだった。

「竈門少年、猪頭少年、黄色い少年、名字隊員、もっともっと成長しろ。そして、今度は君達が鬼殺隊を支える柱となるのだ。俺は信じる―――君達を信じる」

 「名字隊員、そんなに泣くな」と煉獄さんが苦笑した。こんな時でも、この人はどこまでも優しく笑う。それが今は何より心臓を抉るようで苦しい。

「継子にしてくれるって、言ったじゃないですかッ…」

「そうだな…すまないが、叶いそうにない。だが、君なら俺がいなくても大丈夫だ。胸を張って生きろ」

 己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ。歯を食いしばって前を向け。足を止めて蹲っても時間の流れは止まってくれない。共に寄り添って悲しんではくれない。

 最後に見た煉獄さんの表情は、何よりも安らかで、優しい微笑みだった。



***



 もうすっかり日が登った頃、禰豆子ちゃんが入った箱を背負って善逸は現れた。目の前の惨事に、愕然と立ち竦んでいる。

「死んじゃうなんて、そんな…本当に上弦の鬼来たのか?」

「うん」

「なんで来んだよ上弦なんか…そんな強いの?そんなさぁ…」

「うん…」

「悔しいなぁ。何か一つできるようになっても、またすぐ目の前に分厚い壁があるんだ。凄い人はもっとずっと先の所で戦ってるのに、俺はまだそこにいけない。こんな所で躓いてる俺は…俺は、煉獄さんみたいになれるのかなぁ」

「弱気なこと言ってんじゃねぇッ!」

 涙を零す二人の隣で、今まで震えていた伊之助が悲惨な空気を振り払うかのように叫んだ。俯いていた炭治郎が顔を上げる。

「なれるかなれねぇかなんてくだらねぇこと言うんじゃねぇ!信じると言われたなら、それに応えること以外考えんじゃねぇ!死んだ生き物は土に還るだけなんだよ、べそべそしたって戻って来やしねぇんだよ悔しくても泣くんじゃねぇ!どんなに惨めでも恥ずかしくても生きてかなきゃならねぇんだぞ!」

 そう言って泣き叫ぶ伊之助にすかさず善逸が「お前も泣いてるじゃん…」と呟くと、「俺は泣いてねぇ!」と遮るように頭突きをした。
 そのまま泣き崩れる面々の羽織を引っ張って引き摺り、伊之助は泣きながらポカポカと殴ってきた。痛くはなかった。それよりも、いつまでも冷たいままの心が酷く痛んで仕方なかった。呼吸すら上手くできなくて、息を飲むたびに変な音が鳴る。それを聞いた伊之助がまたしても「泣くんじゃねぇって言ってんだろーが!」と顔面を押さえつけてくるから、息ができなくなる。
 
 もう滅茶苦茶な絵面に、迎えに来た隠達は酷く驚いていたのを私達はいつまでも気付くことはなかった。




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