26.5 己




 ―――― 眠り鬼”魘夢”の作った縄は、繋げた者の夢の中に侵入できる特別な能力を持つ。

 少女は、魘夢に幸せな夢を見せてもらう為に、騙されているなんて露知らぬまま名無しに縄を繋げた。夢に侵入し、更に奥の無意識の領域へ進み、そこに存在する精神の核を破壊することが彼女に与えられた使命だった。

 本人が祖母と思わしき人物と会話している間に、少女は夢の境目を錐で破いて名無しの無意識の領域へ足を踏み入れる。そして目の前の光景を見た瞬間、少女は絶望した。

「ちょっと…何なのよ此処はッ」

 ただただ永遠と広がる雪原がそこにはあった。風はあたたかいのに、酷く底冷えがする。地面に積もった雪以外何もなくて、空にはどんよりと心まで暗くさせるような曇天が広がった、虚空の世界だった。
 精神の核を破壊することで人間は廃人となる。廃人となった人間は人形のように動かなくなり、殺されるその瞬間でさえ抵抗をしない。それこそが魘夢の狙いだ。それを達成せねば、自身は幸せな夢など一生見させてもらえない。
 しかし、こんな右も左もない虚空の世界の一体どこに精神の核があるというのか。少女は身を震わせる。恐怖なのか、寒さなのか、それすら此処では判断ができなかった。

「お嬢さん、こんな所で何してるのかな?」

「なッ!?」

 少女が振り返る。そこには、自身が縄を繋げた標的である名無しがいた。静かに佇んで、不思議そうに少女を見ている。無意識の領域に本人がいるのは稀なことだった。その為、少女は咄嗟の判断に困り、ただ焦りながら狼狽する。

「あんた、早く私を精神の核がある場所に連れて行きなさいよ!さもなくば魘夢様からもらった錐で刺すからね!」

「そんなこと言われても、ねぇ?」

 鋭い先端を見せても名無しは動じない。それが余計に少女の焦燥感を募らせる。相手は剣士だ。こんな脅しをしなくても、勝てないなんてのは少女でも理解していた。それでも、自分は幸せな夢を見たい。ただそれだけの想いで動いた。
 名無しは睨めつけてくる少女を見つめ、「うーん」と顎に手を当てて唸った。本来、他人が踏み入れるべきではない領域に侵入されているというのに、どこまでも冷静である。どちらかというと、事の重大さを理解していないようにも見えた。

「困ってる人を助けたいのは山々だけど、私にも分からないんだよね。私の精神の核の場所」

「は…?何なのよそれ…」

「ご覧の通り、私には何もない。自分がどこにいるのか、そもそも私は北に向かってるのか南に向かってるのか、分からないんだよ」

「そんなのッ…ただの迷子じゃない!私みたいな子供だって自分の進む道くらい決められるわ!自分を一番よく知っているのは自分自身だけなんだから!」

 憤慨し、怒鳴ったせいで少女の肩が上下する。そんな様子を見ても、名無しは眉を八の字にして困ったように佇んだ。何も反応しない相手に、遂に我慢ならなかった少女が手元の錐を投げ付けた。しかしそれも虚しく、細い腕にそんな腕力がある筈もなくて、錐は二人の丁度真ん中の雪の上を転がった。
 名無しがそれをゆっくり拾い上げた所で、少女はしまったと我に返る。あれがなければ、精神の核を壊すことができない。「返せ!」と怒鳴る少女に、名無しは今にも泣きそうな笑顔を彼女に向けた。同時に、生温い風が対照的な漆黒の髪を掬い上げる。

「私が一番、わたしを分からないよ」

 無意識の領域が崩れていく。それは、本体の目覚めを意味していた。少女は為す術もなく現実世界に引き戻されそうになるのを必死で抵抗したが、意味がない。

 他人の夢に入るのは非常に危険な行為であった。持ち主の意識が強い為に、共鳴してしまう場合があるからだ。少女はどうしようもない虚無にただ涙を流した。彼女の迷いがより深くなったからだ。
 自身の願望を叶えたい欲求と、それに相反する罪悪感。どちらかを捨てなければいけない状況は、幼い少女には荷が重すぎた。しかし、迷いがより明確になったことにより、彼女は欲望を捨てる道を決断することができた。

 少女は、本心はどこまでも純粋でいたかったのだと気付いた。自分が本当に求めているものが何か、自分が一番知っているようで、何も知らなかったのだ。




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