26.いのち




 炭治郎と話す煉獄さんの声だけが静かな車内でよく響く。同じ空間にいるのに、沈黙が流れる私達の席ではその話し声すらも背景音楽のようだった。

 俯きながらちらりと右手を見てみる。そこには、離さんとばかりに上から被せられた伊之助の左手がある。うるさいくらいに波打つ動悸は緊張のせいか不安のせいか。恐らくどっちもだろう。善逸が何も話さない。ただそれだけが余計に不安と羞恥心を煽った。
 善意で席を譲り、深い意味もなく私の隣に座っただけなのに、まるでそれを拒むかのような伊之助の行動は正しく謎であった。今まで皆の前でこんな行動に出ることもなかったのに、きっと善逸は愕然としていることだろう。微動だにしない善逸の手元から、勇気を振り絞って視線を上げて見る。
 
「…」

「…」

 そこには、驚く訳でも叫ぶ訳でもなく、ただ呆れたように私達を見る善逸がいた。予想だにしなかった光景に思わず目を瞬かせる。まるで、「あーはいはいごめんなさいね」と空耳が聞こえてきそうな表情だ。困惑した私は、終始無言の猪頭と目で語り合う二人を交互に見つめた。

 すると、タイミングを見計らったかのように汽車が動き出した。ガタンと揺れた車内に、「あ、動き出したね!」と気まずい空気を破ろうと隣の窓を開け放ち、顔を覗かせる。
 徐々に速くなっていく汽車。再び興奮を取り戻したらしい伊之助が、後ろから私に乗っかるようにして窓から顔を出した。あっという間に景色が変わって、目の前には広大な緑が広がり、青い香りが鼻を掠めていく。風に揺れた猪毛が額に当たって擽ったかった。

「うおぉおおお!すげぇすげぇ速ぇええ!」

「馬鹿、二人共危ないぞ!」

「待って!あともうちょっとだけぇえええ!」

「俺外に出て走るから!どっちが早いか競争する!」

「馬鹿にも程があるだろ!」

 きゃっきゃと子供のようにはしゃぐ私達に後ろから善逸が目を吊り上げて怒る。そんな私達を見て、話が終わったらしい煉獄さんが「危険だぞ!いつ鬼が出てくるか分からないんだ!」と凛々しい顔で告げた。その言葉に、みるみる善逸の顔色が悪くなっていく。

「嘘でしょ!?鬼出るんですかこの汽車!?」

「出る!」

「出んのかい嫌ァアアアッ!鬼の所に移動してるんじゃなくここに出るの嫌ァアアアア!俺降りる!」

「もう無理だよ」

「短期間の内にこの汽車で四十人以上の人が行方不明となっている!数名の剣士を送り込んだが、全員消息を経った。だから柱である俺が来た!」

 衝撃の事実に善逸が絶望の表情で滝のような涙を流し、降りる降りるといって聞かない。名残惜しいが仕方なく窓を閉め(伊之助は不服そうだったけど)、煉獄さんの言葉通り気を引き締め直す。少しはしゃぎすぎてしまったのを内心反省しつつ、善逸の顔を手拭いで拭いていった。
 そういえば、車内がやけに静かな気がする。私達がうるさいのではなく、不自然な静かさだ。一番先頭の席にいたので自然と後ろの空間を見てみると、乗客の殆どは寝てしまっていた。あれ?と思っていると、その通路の真ん中を、やけに暗い車掌さんがゆっくりと此方に向かって歩いてくるのが見えた。

―――― 切符、拝見致します」

 妙に窶れた車掌さんだった。虚ろな目で、切符を差し出すよう促してくる。「何ですか?」と不思議そうにする炭治郎に、煉獄さんは切符を確認して切り込みを入れてくれるのだと説明した。その会話を横目に、私に向かって手を差し出してきた車掌さんを見つめ返す。

「お嬢さん、切符を…」

「あ、はい」

 催促され、慌てて切符を取り出して差し出した。煉獄さんが普通にしているのだから何も変なことはない筈だ。きっと私の考えすぎだろう。―――― でも、何だろう。この拭いきれない嫌な感じは。
 後数ミリで切り込みを入れられそうになった瞬間、私は反射的に身を引いてしまっていた。不思議そうな皆の視線が一身に刺さる。何も言わない私に、車掌さんは「…お嬢さん、困ります」と言って苛立ち気味に私の手首を強く掴んだ。

「なッ、テメェ何しやがる!」

「あ、あの車掌さん?名無しもどうしたんだよ」

 慌てる両端の二人など無視し、車掌さんは無理矢理私の手の中から切符を奪うとパチンと先に切り込みを入れてしまった。あ、と思った頃には遅く、どこか焦った様子で次々に皆の切符を奪うと切り込みを入れていった。

「拝見致しました」




***







 昔住んでいた小屋が目の前にあった。思わず一歩踏み出すと、ザクと足元から軽い音がした。視線を下に向けると、懐かしい雪景色が広がっていた。ずっしりと積もった雪が一面に広がる。どこまでも白銀に煌めくそれに、溜息が漏れそうになって思わず空を見上げた。鼠色だった。
 ずっとここで生きてきた筈なのに、刺すような冷たさも頬に当たるぬるい風も口から漏れる白い息も、忘れていたようだった。そういえば私は今まで、どこで何をしていたんだったか?どうして、今も住む我が家を”昔住んでいた”なんて思ったのだろうか。

「ただいま」

「あら、おかえり。遅かったじゃないか」

 お祖母様が、囲炉裏の火を火掻きで突きながら私を見た。膝立ちから正面を向いて正座に戻り、微笑む。病気なんて感じさせない健康的な身体だった。
 その姿が目に入った途端、強烈に目の奥が熱くなって、気付けば、私は無意識にお祖母様の膝元に縋り付いていた。みっともなくボロボロと溢れた涙が黄土色の着物に染みを作っていく。

「おばあちゃんッ!おばあちゃぁんッ!」

「おやおや、どうしたんだいいきなり。泣き虫が治ったのかと思ってたのに、やっぱり相変わらずだねぇ」

 お祖母様が私の頭を優しく撫でてくれる。そのあたたかい手に一層泣き喚いていると、私の髪を一房摘んで不思議そうに「随分と髪が短くなったんだね?綺麗な長い黒髪だったのに」と悲しそうに呟いた。

「わた、私の髪はッ、狭霧山で…」

 しゃくりあげながら必死で紡いだ言葉は、最後まで音になることなく消えた。―――― 私の髪は狭霧山でどうしたしたんだっけ?何で切れたんだっけ?狭霧山って、何のことだっけ。どうしてこんなにも腑に落ちないんだろう。悪い夢でも見ていたようだ。
 突然泣き出した私をお祖母様は何も言わずにただ背中を撫でてくれた。きっと私は長い夢を見ていたんだ、そうに違いない。今この瞬間が何よりも幸せで、大切なのだから、迷うことなんてないんだ。

「ごめんなさい、急に取り乱しちゃって…。私、まだまだ修行が足りないってことですね!」

「その通りさね。さぁ、落ち着いたなら湖が凍る前に水を汲んできてくれないかしら」

「分かりました!」

「そろそろ日が暮れる、早く戻ってきなさいね」

「鬼には気を付けろ、ですよね?平気ですよすぐ戻ってきますから」

 眉がピクリと動いたら合図。お祖母様は怒ると誰よりも怖いのだ。ゴシゴシと目元を拭いて、急いで立ち上がる。私は壁に立てかけておいた桶を拾い上げると、お祖母様に一礼をして急いで外に飛び出した。

 温まっていた身体が再び冷えて思わず身震いをする。―――― 何だか、ずっとずっと昔に同じことを言って家を飛び出した気がする。確か、今日みたいに一段と冷える日だった。
 本当に私はどうしてしまったのだろうか。お医者さんを呼んで見てもらった方がいいだろうか。そんなことを考えながら、私はいつもの湖までの道なりを小走りで進んだ。
 暫く歩いた時、湖の近くで見慣れた藍色の髪が見えて立ち止まる。藍鼠色の着物を纏った、端正な顔立ちの少年が私の足音に気付いて振り返った。彼の持つ翡翠色の瞳は、どんな宝石よりも美しいと思う。

「伊之助!?どうしてここに…」

「名無しに会いに来た」

「私に?」

 私はこの少年をよく知っていた。いつも一緒にいたのだ。雪景色に浮かぶ伊之助はやっぱり儚くて美しかったけど、でも、何だか不釣り合いにも見えて、戸惑う。
 一歩、二歩と近付いてくる伊之助に思わず一歩と同じように後ろに下がる。けど、御構い無しに突き進んでくる彼はあっという間に爪先が触れる位置に立つと、力強く私の両肩を掴んだ。

「俺はお前が好きだ」

「は、」

「ずっと好きだったんだ」

 揺れる翡翠が私を見下ろす。愛おしそうに、壊れ物でも扱うように、伊之助は私をその硬い胸板に押し付けた。トクントクンと規則正しい鼓動が聞こえてくる。壊れそうなくらいに胸が高鳴って、回された腕が熱い。寒さなんて簡単に吹き飛んでしまった。

 ずっと聞きたかった言葉だった。私はきっと、誰かにとんでもなく必要とされたかったのかもしれない。天涯孤独だろうが関係ないくらい大事にされて、普通の女の子として、愛しい人の腕に抱かれたかったんだ。――――私はずっと、寂しかったんだと思う。
 ふと、あたたかい胸板に身を預けながら湖に反射する私達の影を見た。伊之助は、変わらず私を優しく抱きしめている。なのにその隣で、黒い隊服を纏った私そっくりの女の子が、まるで鏡の中に閉じ込められているかのように水面を叩いていた。何か叫んでいる。片手には、お祖母様が大事にしていた純白の日輪刀が握られていた。

「伊之助」

「どうした?どっか痛いのか?」

「ううん、そうじゃないの。私ね、気付いちゃったんだ」

私の知ってる伊之助は、そんな甘い言葉を吐いたりなんかしない。

―――― 貴方の美辞麗句には、反吐が出るわ」

 纏わりつく腕を振り解いて、これでもかと固い身体を押し飛ばした。不意を突かれた伊之助が呆気なく尻餅をつく。美しい顔が酷く傷付いた表情で私を見上げた。
 違う、違う、全てが間違っている。伊之助はこんなこと言わない。お祖母様は私の側にはいない。もう二度と、その微笑みを私に向けてくれることなんてないんだ。私は鬼殺隊の一員であり、刀を振るう者。灰色の闇になんて呑み込まれない。

「名無し!待ちやがれ!俺の話を聞いてくれ!」

 伸ばされた手を振り切って私はひたすら走った。お祖母様の待つ家へ、無我夢中で走った。途中何度も転んで、凍傷が酷くなっていったけどそんなのどうでもよかった。ただ一刻も早く安堵したかった。
 ようやく家が見えてきて、足を止める。中の明かりが消えている事以外何も違いはない。物音一つしない不気味さが余計に焦燥感を募らせて、戸を叩きつけるように開けた。

「ガァッ…アァグッググ」

「お祖母様」

 ―――― ああ、まただ。この鬼は何て残酷なことをしてくれるのだろうか。
 最早慣れたとばかりに、私は布団の上でのたうち回る鬼に近付いた。私と同じ黄金色だった瞳が真っ赤に変色していて、人間にはない鋭い爪と牙が生えている。
 こんなに鮮明に見せなくったって、私は一度だってこの景色を忘れたことはない。忘れられる筈がなかった。それを汚い方法で見せつけてくるなんて、”無限列車の鬼”は意地が悪いと思う。

「お祖母様、起きてください。鬼になってはいけません」

 ゆっくりと聴かせるように話しかけた。すると、真っ赤な双眼と目が合う。涎を垂らし、胸を掻き抱くお祖母様は酷く苦しそうで、まるで鬼になっていく自身に耐えているように見える。

「そうやってお前は、唯一の親である私を殺したんだ。お前は残酷な人間だ。お前のせいで、私は死んだのだからな」

 あの時とは違って、随分と流暢な言葉が私の心を切り刻んでいく。こんな台詞まで言わせて、よっぽど私の心を壊したいらしい。生憎と私は精神面が強くない。今も冷静を繕っているが、少しでも気を緩めれば泣いてしまいそうだった。でも、それを許したら、私はお祖母様が言ったのだと認めてしまうことになる。これは幻なんだ。お祖母様はもういないんだから。
 いつの間にか、私の右手には日輪刀が握られていた。ご丁寧な演出だと、心の中で私が笑った。
  
「二度、私の頸を斬るのだな。お前は二回も祖母を殺したのだ。お前は鬼と何も変わらない、ただの人殺しだ」

「殺さないよ。もう二度と、貴方の頸は斬らせない」

「戯言をッ!」

 その場に膝をつき、月明かりで淡く光る刀身を自身の首に添えた。ひんやりと冷たい。見兼ねた鬼が今にも飛びかからんばかりの剣幕で這いずってくる。その僅かの間に、私は精一杯の笑顔を最愛の家族に向けた。

「助けられなくてごめんなさい。さようなら」


 この日、私は生まれて初めて自身の頸を斬った。




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