23.呼吸




 分かってはいたけど、全集中の呼吸を四六時中やるのは心身共にしんどかった。基本は肺だから、とにかく走り込みをして、息止めをして、改めて庭で呼吸をしてみるものの長く保とうとすればする程肺が痛くなって鼓膜が破裂しそうになる。
 そんな私達になほちゃん、きよちゃん、すみちゃんが用意してくれたのは”瓢箪”だった。

「カナヲさんに稽古をつける時しのぶ様はよくこの瓢箪を吹かせていました」

「へぇー面白い訓練だね。音がなったりするのかな?」

「いいえ。吹いて瓢箪を破裂させていました」

 破裂…?ポロリとおにぎりが手から零れ落ちそうになるのを慌てて押さえる。岩を斬ったり、瓢箪を破裂させたり、訓練というのは常識を覆す内容が多いから恐ろしい。しかし、そんな非常識な訓練でも実際に人間は行うことができるのだから本当に不思議だと思う。
 通常よりも硬いらしい瓢箪を破裂させ、徐々に大きな瓢箪へと移行していくらしく、三人が「今カナヲさんが破裂させているのはこの瓢箪です」と取り出したのは子供と同じくらいの背丈を持つ巨大な瓢箪だった。「でっっっか」と自然と口から漏れた言葉は、偶然にも隣で顎が外れるくらい驚いていた炭治郎と重なった。
 どこか不思議な雰囲気を漂わせるカナヲがこの瓢箪を吹いている所は中々想像し難いが、あの素早さの秘密はこれだったのか。「それでは私達は行きますね。頑張ってくださぃ〜」と去っていった三人を見送り、小さくなったおにぎりを口に放り込む。

「何だか、狭霧山での鍛錬を思い出すね」

「そうだなぁ。あの頃から随分遠くに来たと思ってたけど、全然そんなことなかった。まだまだなんだなって実感したよ」

 本当に、そう思う。善逸に出会って、伊之助に出会って、まともに刀を振ってると思ってたけど実は全然そんなことなかった。基礎の基礎すらできていなかった私は側から見たらちっぽけな存在で、鬼舞辻になんて程遠い。もっと努力しないと。
 試しに渡された小型の瓢箪を思いっきり吹いてみる。吐き出した空気が底で行き場を失い、頭にカッと血が上っていく。後もうちょっと、もうちょっと勢いをつけられれば―――

「ぶはっっ!無理だ…」

「でも惜しかった!もっと肺活量を鍛えていけば絶対割れる!」

「地道にやっていくしかないね。そういえば、伊之助と善逸はもう戻ってこないのかな」

「……どうだろう」

 コツコツが一番嫌いな二人だ。善逸は早々に諦めてしまう性格だし、伊之助なんて大きな壁にぶち当たると折れてしまう性格だ。どこで何をしているかは分からないが、早く戻って来て欲しいなぁ。そんなことを思いながら、その日は肺を鍛える基礎訓練をして終わった。


***



 それから何日か機能回復訓練を続けたが、やっぱりカナヲには勝つことはできなかった。でも、瓢箪の訓練を始めてから確実に疲れなくなってきているのを感じる。息が上がらなくなったのと、柔軟のおかげて身体が瞬発力に耐えられるようになってきたからだ。でもやっぱり、少し呼吸を集中しただけで疲労が酷かった。
 何かをやりながら肺に意識をやる。これが意外と難しい。慣れる為に誰か組手の相手になってくれたらいいけど、炭治郎は炭治郎で独自の訓練をしているから邪魔をするのも悪いし、そんな都合良く相手が現れる訳でもなかった。
 今日も早朝の走り込みを終えて、アオイに許可を得てから庭で水の入った桶を用意した。息止め訓練用だ。肺いっぱいに酸素を取り込んでから勢いよく頭を突っ込んで、目を瞑る。間抜けな絵面なのであまり見られたくはないけど、これが肺活量の成長を感じられるので仕方ない。
 一分、二分、頭の中で数えていく。段々と心臓が速くなっていくのを感じる。あ、限界だ。

「はぁ…はぁ…新記録…」

 バタンとそのまま仰向けに倒れて、懐中時計を目然に翳す。日に日に記録は伸びていっている。大丈夫、私は成長している。そう言い聞かせるようにして大の字に寝転がった。水に濡れた髪に砂が混じったけど、不思議と気持ち悪くはない。今日は天気が良いからだろうか。
 蝶々が二頭、ひらひらと頭上を過ぎていく。荒い呼吸を整えながらそれを目で追っていると、突然ぬっと逆さまの猪頭が覗き込んできて、顔に影がかかった。

「いやぁあああ!」

「いってぇ!」

 吃驚して跳ね起きると、狙ったように額が猪頭に直撃した。い、痛い。ヒリヒリする頭を蹲って抑えていると、背後から「何すんだよ!」と随分久しぶりな太い声が怒鳴ってきた。

「ご、ごめん伊之助。急に出てくるからつい…」

 この前の光景が頭に浮かんで、せっかく押さえた心臓がまたうるさくなる。しかし、当の本人はというと至って普通に「別に良いけど」ど呟くと、不思議そうに私と桶を交互に見ていた。
 何だそれ。意識しているのは私だけなのか。誰のせいでこんな気まずくなっていると思ってるんだこの猪。どうしようもないモヤモヤが次第に苛つきに変わってくる。一つ問い詰めてやろうかと一歩踏み出すが、そこでふと立ち止まった。
 何も反応を示さないってことは、やっぱりあれは伊之助にとって何でもないもので、何かの気まぐれだったんじゃないか?そういう態度でくるなら私だって何事もなかったように接すれば良い。―――別に 、私達は恋人でも何でもないんだから。
 どうしてそんな簡単なことが思い付かなかったのだろうか。何だか途端に心が晴れやかになってくる。そうだ、愛を語り合った訳でもないんだから気にする必要ない。私達は普通の仲間で、これからもきっとそうだ。そう思い直して、暇そうにしている伊之助を見る。

「…丁度良かった!伊之助、組手に付き合ってよ」

「はぁ?いきなり何でだよ。お前、まだ身体良くなってねーんじゃねぇのかよ」

「もう平気だよ!今は全集中の呼吸の会得に炭治郎と苦労してて、だから慣れる為に相手になって欲しいんだよね」

「全集中の呼吸?」

 何だそれと怪訝そうにする伊之助に一から説明してやると、「ふーん」と微妙な返事が返ってくる。伊之助のことだから、先に自分の知らないことをできるようになるの悔しがりそうだと思ったんだけど、思いの外静かだ。猪頭でよく見えないが、それから何か考え込むように押し黙ったかと思うと、私の頭の砂を乱暴に払い出した。

「毎日デコ助と訓練してんのか?」

「そうだけど…だって二人共どっか行っちゃうし」

「…明日から俺と戦え。良いな」

「え、は!?」

「おら、早く構えろよ。勝負するんだろ」

 訳が分からず固まっていたが、間隔を空けて立った伊之助にハッと我に帰る。もうこの謎の猪に翻弄されないぞ。せっかく組手に付き合ってくれると言うなら存分に相手になってもらおう。
 深く息を吸って、吐いて、全身の血液の流れを感じる。呼吸と身体を一つに合わせて、肺が大きくなるのを感じる。伊之助が先に突きを繰り出してきたのを、掌で弾いて避けた。拳と、蹴りと、何がこようとも呼吸を乱さないように、集中していく。態勢を低くすると風の唸りと共に蹴りが頭上を過ぎていく。瞬時に間合いに入って拳を繰り出すが、伊之助の更に柔軟になった身体が滑らかにそれを避けていく。その一つ一つの動きを見落とさないように、目で追っていく。
 心臓がどくどくとうるさい。心拍数に合わせて動きを早くするとすぐに呼吸器に負荷がかかるのを感じる。こんな動きじゃまだまだカナヲには叶わない。片足を軸に一歩下がって腕を振り上げた時、目然で伊之助の拳が止まった。

「お前、動き早くなってるが頭ん中で色々考えすぎだろ。逆にとろいぞ」

「うッ…」

 負けてしまった。おまけに図星を突かれてしまった。自然に同時に二つのことをやるのがこんなに難しいなんて。けれど進歩しているのも実感できる。呼吸が乱れないように一定の間隔で刻んでいかないと。
 手を引っ張って起き上がらせてくれる伊之助にお礼を言う。あんなに濡れていた頭はもうほとんど乾いてしまっていた。

「伊之助も訓練に戻ろうよ。伊之助ならできるよ」

「……自分より身体小さい奴に負けると心折れんだよ」

「だから一緒に強くなろう!伊之助は凄いからきっと全集中もすぐできるよ!」

 何やら俯きがちな猪頭からホワホワなんか漏れているけど、すぐに勢いよく顔をあげたかと思いきや「そこまで言うんなら瓢箪でも何でも吹き壊してやるわ!明日からまたここに来い馬鹿女!」と叫んで塀の上を走って行ってしまった。私、一度でもまともに名前呼ばれたことあるのかな。
 ともかく、多分やる気になってくれたようだし、そうなれば仲間外れ的なのを嫌う善逸も一緒に頑張ってくれるようになるだろう。「おいていくなよぉ〜」と泣き叫ぶ黄色がポンと脳裏に浮かぶ。コツコツとやるのは確かに大変だけど、この道を選んだのは自分自身だから、諦めずに続けていこう。幸い伊之助も擬似反射訓練に明日から付き合ってくれるらしいし。
 
 それから伊之助は相変わらず機能回復訓練には来なかったが、毎日同じ時間に庭で待っていてくれるようになった。勝負はいつも五分五分の結果だったが、全集中の呼吸を鍛えた私に目に見えて負けるようになると絶叫し、ヘソを曲げそうになっていたが何とかそれを阻止。
 それから密かに一人で訓練を始めたらしく、藤の家紋の屋敷の時のようにどこからともなく現れては奇襲攻撃を仕掛けてくるようになった。善逸はのんびりと饅頭を盗んでは縁側で食っていたが、ただならぬ形相で訓練する私達を見ては焦ったように逃げていた。
 
 十日程経った頃、きよちゃん達に見守られながら巨大な瓢箪と対峙した。
 スゥと息を沢山吸い込む。瓢箪の口をしっかり持って、炭治郎と同時に勢いよく吹いた。吐いた息で満たされた瓢箪がブォと音を鳴らす。「頑張れ!」と応援してくれる三人を横に、肺を限界まで絞って全てを吐ききる。すると、瓢箪に罅が入り、衝撃音と共に破片となって飛び散った。

「きゃー割れましたぁ!」

「割れた!」

「やったぁ!」

 粉々になった瓢箪を足元に「やったぁやったぁ!」と五人で抱き合う。血の滲むような努力は決して私達を裏切らなかった。その後、訓練場に移動してカナヲに訓練をお願いした。まずは炭治郎の番だったが、試合は思ったよりも早く決着が付いていた。
 鬼ごっこでは見違えるよにカナヲの速さについていっていたし、湯呑みかけでは目に止まらぬ速さで攻防を繰り返し、カナヲを抜いた湯呑みは彼の優しさによって頭に乗せられていたけど、かけるも載せるもどちらも同じだと言うことで炭次郎の勝ちとなった。

「次は私です。よろしくお願いします」

「…」

 カナヲはやっぱり何も喋らなかったけれど、ニコニコと嬉しそうに微笑んでくれた。お互いに挨拶をして、合図と共に地を蹴った。大丈夫、私ならできる。伊之助と走り回った日々で足腰は前より格段に強くなった。呼吸も一定に刻むことができるようになり、長くなればなる程基礎体力が上がる。
 蝶のように身軽に避けていくカナヲに合わせるように足を交互に使って追いかけていく。伍ノ型は両足の筋肉を酷使する。それと同じように、息を吸って下半身が脈動するのを感じる。踏みしめるように飛んだ時、一瞬カナヲと目があった気がした。そのままパシリと細い腕を掴む。

「掴んだ!」

「全身訓練は成功です!」

 どっと汗が吹き出てくる。捕まえることができた。髪一本すら触れられなかったカナヲに。だけどまだ終わっていない。ニコニコと微笑むカナヲが机の前に移動したのを見て、私もすぐに向かい側に座る。唾を飲み込む私に対してカナヲはどこまでも顔色を変えない。

「はじめ!」

 どこからともなく伸びてきた四つの手が湯呑みを抑えようと重なってどれが誰の手か分からなくなる。高速の移動により、湯飲みを机に叩きつける音が訓練場に響く。
 そういえば昔、お祖母様に稽古をつけてもらっていた時”見えないものは目で見るんじゃなくて肌で感じろ”と言っていた。まさしく今のこの状況は目に見えるものじゃない。手元に集中すれば、四方八方から風を感じる。けれど、不思議とそれが腕が飛んでくる方向の合図だと分かる。
 右。左。斜め。単純だけれど乱雑な動き。何となく、次は左からきそうな気がして咄嗟に近くの湯呑みを強く抑えると、持ち上げられた湯呑みの口が掌に当たるのを感じた。カナヲが驚いたように私を見る。次の瞬間、勝負は決まっていた。

「か、勝ちました!名無しさんの勝ちです!」

「やったぁ!凄いぞ!」

 ワーワーと飛び上がって喜ぶ四人。聞こえてきた結果に、急に全身から汗が吹き出してきた。湯呑みはカナヲの頭に置かれている。荒い呼吸を繰り返す私に、カナヲが不思議そうに固まったまま、微妙に口を開いたり閉じたりしていた。何か、言おうとしているのだろうか。そう思って、抱き合っている四人を横目に黙って彼女に耳を済ませてみる。

「…何で、分かったの」

 耳を澄まさないと聞こえないくらいの小さな声だった。でも確かにそう聞こえて、私はうーんと唸る。多分、最後の先回りのことを言っているのだろう。どう答えようか迷ったが、満面の笑顔で正直に口を開いた。

「何となく!次ここにくるかなって思ったから、押さえた」

「…」

 目を点にさせてポカンとするカナヲが面白い。意味わからんと思われても仕方ないが、事実なのだから他に説明しようがない。私は昔から、嫌な予感と勘だけは期待を裏切らないのだ。




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