18.氷




 強烈な勢いで後ろに引っ張られて、過っていく木の枝葉が身体に無数の傷を作っていく。大木に激突しそうになったところで反射的に背後の空間を日輪刀で斬り裂くと、何も見えないのに、すぱっと弾力のある手応えを感じた。何かが切れて力を失った身体が地面を転がる。すぐに態勢を整えて膝をつき、身体に纏わりつく何かを掬い上げると、掌には蜘蛛の糸が広がった。

「あーあ、僕の糸斬られちゃった」

 顔を上げる。暗い森の中で張り巡らされた蜘蛛の糸の上に立つ小さな身体が、白い月と重なって影となり、揺れた。小さい男の子だった。白い肌に白い髪。赤い斑点模様に縁取られた浅葱色の両目が、月明かりに照らされて妖しく光る。こんな小さな子供が、”蜘蛛の鬼”。元々は人間だった、誰かの子供だった男の子。
 唇が不気味に弧を描く。瞬きをするその一瞬、糸の上から姿が消えて瞬く間に眼前に迫られた。―――速い。日輪刀を翳し、人型には程遠い蜘蛛の爪を受け止める。ガチガチと音が鳴って男の子が楽しそうに笑った。

「ねぇねぇ!お姉ちゃんはちゃんと僕と遊んでくれるよね?」

「……今まで何人と遊んだのか教えてくれたらね」

「んー分かんない!いっぱい遊んでくれたよ!でも皆弱いからすぐ死んじゃった。本当につまんなかったなぁ」

「へぇ」

 蜘蛛の爪を薙ぎ払う。男の子が後ろに飛んだのを見計らって、深く呼吸をする。地を蹴って、水の流れに任せる。身体を思い切り回転させる。

「水の呼吸。弐ノ型―――横水車」

 胴体を真っ二つにしようと飛んだ切先が男の子の身体を通過した。確実に入ったのに、手応えがない。怪訝な表情をする私に、男の子が「怒ってる怒ってる!」と挑発的に笑った。
 胴体は切り離されていた。しかしそれは私の刀のせいではなく、自ら切り離しているものだった。糸の束のようになっている断面を見て、内心厄介だなと舌打ちをする。男の子がまだ人の形を保っている片腕をあげ、器用に一本一本の指を見せつけるように動かした。指先から糸が張り巡らされているようだ。

「僕はね、自由に身体を切り離せるんだ。凄いでしょ?だからお姉ちゃんに斬られることはないんだよね」

「この山には君みたいな鬼が他にもいるのかな」

「そうだよ!僕にはお兄ちゃんもいて、お姉ちゃんもいて、お父さんもお母さんもいる!幸せな家族なんだ、だから―――邪魔しないでよね」

「ッ!?」

 鈴のような声色は変わらないのに、低く、這うようなおぞましさが背中を駆け抜けた。圧迫感だ。一歩後ろに下がると、糸の上で跳ねていた男の子が片腕を引いた。それを皮切りに大量の糸が覆いかぶさってくる。ここに来る道中で、糸に触れただけで切れたのを思い出す。こんなのまともに受けたら粉々だ。
 打ち潮の流れるような足運びで舞うように糸を切り落としていく。無数の糸が地面に散らばっては男の子がまた腕を引いて、波と一緒に踊っていく。後ろから糸の束が意思を持つ生き物のように突っ込んできて、すかさず水面斬りで斬り落とした。重い音を立てて落ちた束に、そこから糸の乱撃がピタリと止まった。

 おかしい。こんなに簡単に斬れる筈がない。嫌な予感がして、すぐに男の子が立っていた空間を振り返る。しかし、男の子の姿が見当たらない。どこだ、どこに消えた。

「こーこだよ」

 一瞬、世界から音が消えたような錯覚に陥った。足元からはっきりと聞こえる声。無意識に視線が下を向くと、小さく屈んでいる男の子が、唯一露出している膝付近の肉にその真っ白な鋭い牙を突き立てる瞬間だった。
 鋭い痛みが走る。刹那、声にならない激痛が全身を駆け巡り、口の端から悲鳴が零れそうになった。無理やり刀を足元に振ったが、するりと避けて男の子は楽しそうに笑うと、空間に飛び上がった。

「ーーーッ何をした!」

「僕はね、とーっても強い毒を持ってるんだ、凄いでしょ!この毒に耐えられなかった人はね。色んな所から血がでて、血がなくなって、肉が腐っていって壊死して、ボロボロに溶けていきながら最後は骨になるの!綺麗な骨にね」

 骨。道中の、私が踏んでしまった骨が頭を過ぎった。隊服だけ身に纏って、惨い姿で残されていた人間の骨。あれは、もしかして。

「お前がやったのか。そこら中に転がっていた人間の、鬼殺隊の骨は、お前の毒にやられたのか」

「アハハハ!そうそう!皆僕と遊んでくれた優しい人達だったけど、お姉さん程長くは持ってくれなかったなぁ」

 カタカタと刀が震えて金属の音が鳴る。右足がじくじくと痛んで血が流れていたが、毒は既に回り始めているだろう。呼吸でできるだけ早さを抑えなければ身体が侵食されて負ける。
 怒りに翻弄されるな。吸って、吐いて、肺いっぱいに冷たい空気で満たして、正しい呼吸で心をも落ち着かせていく。月光に照らされて、不気味な笑みを浮かべる男の子を睨み付けた。  

―――鬼よ。お前を斬るよ」

「…やってみなよ」

 いつの間にか周りの茂みから、木の根っこから、小型の蜘蛛が溢れて飛びかかって来た。身体に触れる前にねじれ渦で弾き飛ばしていく。ぼとぼとと散っていく蜘蛛に、男の子が「あーあ、お兄ちゃんから貰ったのに」と全く残念そうにしないで言った。
 これはただの足止めだ。たっぷり時間を稼いで、毒を回して殺していく。そういう作戦だろう。
 最後の一匹を薙ぎ払い、飛び上がって糸の上の男の子に刀を振り上げる。しかし、横から伸びてきた無数の糸の束に邪魔をされて一向に届かない。纏わりついてきそうな糸を次々に斬り払っていく。呼吸を乱さないように、頭で考えながら、目で追って、頭が破裂しそうだった。
 張り詰められた糸を土台にして高く宙を舞う。更にもう一本の糸を踏みつけ、バネのように勢いをつけて男の子の頸目掛けて飛び、一閃。確実に頸に入った。すぱんと小さな頭が空中に浮く。

「…ねぇ、僕自分で切れるんだって言ったよね?」

「な…」

 斬れて、ない。上半身に糸が繋がったまま、ぶらぶらと逆さまに揺れる頸がニヤニヤと笑っている。手応えはあったのに。私が斬るよりも先に自分で切り落として回避したのだ。こんなのでは永遠に斬り落とすことなんてできない。
 外れた頸をそのままに、男の子が私を指差す。なにを、と言いかけたところで、ポタリと水滴が落ちる音がした。

「ほら、もう回ってるよぉ」

 地面を見ると、そこには赤い水玉模様が何個も弾けて広がっていた。どこから?刀を握っていた手をほどいて、掌を見てみる。分厚くなった皮の上に、ぼたぼたと真っ赤な雫が滴り落ちて、白の羽織を汚していった。瞬間、生暖かい何かが喉元をせり上がってきて、口の端から溢れた。鼻から、目から、涙のように真っ赤な鮮血が溢れて滴り落ちていく。全部、全部、私の血だった。
 猛烈な吐き気に襲われて思わず膝から崩れ落ちる。堪らず地面に手をついて吐き出すと、吐瀉物に混じって赤黒い血が地面に広がった。全身がビリビリと痺れて、まるで私自身が心臓になったかのように鼓動がうるさい。目から出る血が視界を赤く染めてよく見えない。動揺するな、臆するな、呼吸でもっと遅らせて、毒を止めないと。
 男の子が鈴のような声で楽しそうに笑った。皆、こうやって毒に侵されて苦しみながら死んでいった。身体中の血が抜けて、骨になって、悲惨な最期を遂げた。無念を晴らすなんて大口叩いてたのに、悲しみを背負った気でいて。私はあの行動に嘘なんてつきたくない。気持ち悪いものを全部吐き出して、深呼吸を繰り返す私に、月を背負った男の子が瞬く間に眼前に迫る。
 なんだか突然、世界がゆっくりに見えて、浅葱色の瞳が綺麗だなぁなんて霞む視界で思った。

――――人は死の間際に走馬灯を見るという。一説によると、今までの経験や記憶の中から、迫り来る”死”を回避する方法を探しているのだとか。

 雪山にいた猛獣の姿。背中を抉られ、血を流す子供の頃の自分。雪に溶けて、きらきら光る純白の日輪刀。お祖母様の形見。――― お祖母様、私には何が足りない?何がいけなかった?どこで道を間違えた?ぐるぐると巡る記憶の中で、お祖母様の姿だけが鮮明に見える。鬼の姿ではなく、いつもの優しい優しい笑顔だった。

「うわぁ、湖に氷が浮いてる!蓮の葉みたい!」 
「目敏いねぇ。あれは蓮葉氷って言うんだ」
「ふぅん…あ、そうだ!ねぇねぇおばあちゃん。あの時の凄いのやってよ!氷がブワァってなってギュオってなるやつ!」
「…意味分かんないこと言うんじゃないよ。人間が氷を生やせる訳がないだろう?そんなに見たければ、あんたが自分でなりきることだね。自分で使って見せな、―――”氷の呼吸”を」

 「あんたにも、使えるんだからさ」そう言って、お祖母様の黄金色の瞳と目が合った気がした。その瞬間、記憶のかけらが粉々に割れて、消えていく。私の思い出、私の経験、大事なものはいつだって手の中にあったのに、どうして人は気付けないんだろう。どうして忘れていたのか。
 私は水の呼吸を扱う。鱗滝さんが与えてくれた大事な力だ。でも本質は違った。私は私だ。いろんな色の光を吸収する、色の究極の集合体。誰にも染められることのない”白”だ。

―――氷の呼吸」

 目を瞑る。深く息を吸って、細く長く吐く。肺いっぱいに酸素を取り込んで、噛み締めた口の端から冬のような白い息が溢れた。周辺の体感温度がぐんと下がる。芯から冷えるような悪寒に、男の子が間合いをとって、「何で急に、凍えるッ」と焦ったように狼狽した。
 思い出せ、あの時の足運びを。思い出せ、あの時の呼吸の仕方を。頭に一連を思い浮かべて、月光を浴びて冷たく光る日輪刀をまっすぐ向けてから、右下に構えた。

「伍ノ型―――氷華」

 地面を蹴って、右下に構えていた日輪刀で地を切り裂いていくように飛んだ。巨大な霜柱が線をなぞるように伸びて、男の子の体目掛けて下から上へ刀を振り上げる。一瞬のことだった。
 刀の軌跡をなぞるように、まるで身体中を氷で囚われたかのように固まった男の子が視線を動かした。
 
 伍ノ型、”氷華”は、著しく増強させた両足の筋肉で瞬時に間合いに入り、悪寒と殺気で恰も自身が凍らされたかのように錯覚して身動きが取れなくなった相手の頸を斬り落とす。

 夢の中で見た羆は凍って何かいやしなかった。お祖母様の剣技がそう錯覚させていただけだった。随分と困らせたんだろうなぁと子供の頃の自分に思いを馳せる。

「さよなら」

 硬直したままの男の子の頸が、遅れてストンと地面を転がった。もうピクリとも動くことがなく、恐怖の色に染まっている。この子は、人を殺しすぎた。同情なんてかけるべきではない。分かっている。
 勿論、これからも迷いなく頸を斬るつもりだ。それでもこの子の生前の人間だった姿が脳裏に浮かぶようで、哀れみの気持ちだけがいつまでも心を支配する。

 立ったままの男の子の身体が砂となって空気に溶けていく。満月に照らされて、日輪刀だけがいつまでも白く光っていた。




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