13.殴る




 
「名無しさんッ!起きてください!善逸さんが…善逸さんがぁッ…」

「……あ、れ…?正一くん?」

 正一の泣き叫ぶ声で名無しは目を覚ました。今日はいい天気だなぁなんて心ここに在らずで目の前に広がる空を見ていると、ゆさゆさと揺さ振られる身体に徐々に意識が覚醒していく。何だか酷く全身が痛い。特に左腕は痺れて全く持ち上がらなくて、そこで初めて名無しは屋敷の二階から放り出されたことを思い出した。着地した拍子に変についたせいで左腕は骨折をしてしまっていたのだ。
 もう一度正一が「善逸さんを助けて!」と叫んだ。名無しの顔に涙が落ちて地面に滑っていく。

「さっさと刀を抜いて戦え弱味噌がァ!」

「嫌だ!この箱には指一本触れさせない!」

 善逸は禰豆子の入っている箱に覆い被さると、鬼を滅殺しようと突進してくる猪男から身を呈して守っていた。鬼殺隊は鬼を殺すのを目的とした剣士の集団。その箱の中にいるのは紛れもなく鬼なのだから、猪男の行動は側から見れば正しい行動だと言える。
 しかし、善逸は確かに聞いたのだ。泣きそうなくらい優しい音色を持つ炭治郎が、あの箱は自身の命より大切なものだと。それに、ずっと一緒にいるという名無しですら当たり前のようにその箱の隣に立っているのだ。二人からは何一つ怪訝な音がしなかった。ただ揺れる波のように静かで、春の太陽のようにあたたかい。時には燃え盛る炎のように激しい、そんな音がした。
 鬼は怖くて恐ろしくて大嫌いだけど、名無しの大切な人の、炭治郎の大切な宝物だと言うならば、例え中にいるのが鬼だと分かっていても善逸は守りたかった。どんなに殴られ、蹴られ、血を流してでも、決して善逸はその箱から手を外すことはなかった。

「威勢のいいこと言ったくせに、刀も抜かねぇこの愚図が!お前ごと箱を串刺しにしてやる!」

 蹴り飛ばされた善逸が箱ごと地面を転がった。何度も殴られたせいで顔は血に塗れ、腫れてしまっている。名無しは一瞬で身体が熱くなるのを感じると、軋む手足に鞭を打って立ち上がった。

 拳を固く握りしめる。前髪が顔に影を作ってその表情は伺えないが、ただならぬ雰囲気に正一は心配そうにその横顔を見上げた。迷いなく名無しが走り出す。

「…猪は山に帰れェエエッ!!」

 振り返った猪男の顔面を、助走をつけた名無しが渾身の一撃で殴り飛ばした。凄まじい音が森の中に響く。「ちょッ、力強…」と足元で善逸が呟いたが、その言葉が名無しの耳に届くことはなかった。
 全身から捻り出した腕力を一身に受けた猪は螺旋を描いて宙を飛んだかと思いきや、力なくその場に崩れ落ちる。女の拳から繰り出されたとは到底思えないその馬鹿力に「どちらが猪か分からなかった」と善逸が語るのはまだ先の話だ。

「ガフッ、ゴホ…テメェ何しやがる…」

「隊員同士が刀を抜くのはご法度だって言ったでしょ!善逸が刀を抜かないのを良いことに、それを一方的に痛めつけて…こんなに怪我させて!許さない!」

「そうかいそうかい、そりゃ悪かったな。じゃあ素手でならいいってことだな?」

「は!?」

 猪男が飛び上がって名無しに襲いかかる。その柔軟な身体であらぬ方向から蹴りを繰り出し、名無しも負けじと対抗した。
 名無しは祖母の過酷な訓練で体術には自身があった。男に比べると身軽だったおかげで素早い動きが可能だったし、ひたすら羆と組手をさせられていたこともあって実戦にも慣れている。相手は並外れた動物的な動きをするとは言え、刀を使わなければただの人間だ。
 顔目掛けて飛んできた左足に名無しは右腕で弾いて凌ぐと、そのまま足首を掴んで猪男を投げ飛ばした。鬼殺隊にいるだけで普通の女の子とは並外れているのは善逸でも理解していたが、ここまで怪力を見せ付けられるとただでさえ無いに等しい自信を更に無くしてしまいそうだ、と目の前で繰り広げられる攻防線に善逸はドン引きしながら正一に顔を拭かれる。
 
 すると、屋敷の主を倒し、てる子と正一の兄を助け出した炭治郎が血の匂いを嗅ぎ付けて一目散に飛び込んできた。大事な妹が入った箱を抱え、ボロボロになっている善逸と、ただならぬ剣幕で猪男と殴り合いをする名無しの姿。屋敷内で猪男と遭遇した時の記憶が蘇り、心当たりしかないこの場の状況を一瞬で察すると、いつもの朗らかな表情に似合わず青筋が浮かんだ。

「あっ炭治郎!無事だったんだな!」

「……」

「た、炭治郎…?」

 善逸の声を無視してズカズカと二人に歩み寄る。「何なのもう皆怖いッッ!」と善逸が叫んだ。炭治郎は尚も格闘を止めない二人に近付くと、奥歯を噛み締めて拳を振りかぶった。

「ちょっと落ち着けェ!!」

「ゴハァッ!」

「骨折ったァアア!!絶対折れた今!凄い音したもん!絶対折ったもん今!」

 鳩尾に炭治郎の拳がめり込み、猪男が腹を押さえてよろけた。突然の乱入に名無しは驚いて固まる。猪男は覚束ない足取りで二、三歩後ずさると、よろけた拍子に頭から猪の皮が転げ落ちた。

 ボトリと音を立てて転がっていく被り物。露わになったその素顔に、その場にいた一同が石のように固まった。

「…え、女?…え!?顔ッ…!?」

「…何だコラ。俺の顔に文句でもあんのか!?」

 艶のある絹糸のような深い藍色の髪と、長い睫毛に縁取られた大きい翡翠の瞳。まさしく美少年と呼ぶに相応しい顔付きを猪男はしていた。一見女にも見えるが、整った目鼻立ちに似合わず惜しげもなく晒された肉体美が彼が男であることを何よりも証明している。
 唖然と固まる一同を他所にすかさず炭治郎が「君の顔に文句はない!」と叫んだ。善逸が兄妹三人の背中に隠れる。

「こぢんまりしていて色白でいいんじゃないかと思う!」

「炭治郎、そういう話じゃないんじゃないかな」

「殺すぞテメェ二人まとめてかかってこい!」

「ダメだ!かかっていかない!」

「おいクソ女!もう一発殴ってみろ!」

「雌だのクソ女だの好き勝手呼ぶんじゃないわァアア!」

「君達はちょっと一回座れ!大丈夫か!」

 肩に乗せようとした炭治郎の手を猪男が払うと、怒りにワナワナと震えながら「俺の名を教えてやる!」叫んだ。

――― 嘴平伊之助。男がそう名乗ると、炭治郎は間を開けることなくどういう字を書くのかと尋ねた。伊之助は山育ちの為読み書きができない。辛うじて褌に自身の名前が刻まれているものの、それを直接書いたり説明したりは彼にとって至難の業だった。
 「じッ、字!?」そう焦ったように伊之助は口を紡ぐと、突然、壊れた玩具の如く不自然に硬直した。正一くんが呆然と「止まった…」と呟くと、それを合図に伊之助の両目がぐるりと白目を向き、そのまま泡を吹いて倒れてしまった。死んだのかと勘違いした善逸が悲鳴をあげててる子の小さな背中に隠れている。兄二人の視線が痛い。

「もしかして、私が殴っちゃったからかな…結構頭の方に当たっちゃったし、脳震盪起こしちゃったのかも…」

「いやどんだけなの!?」

 善逸の突っ込みを無視して、名無しは失神した伊之助に歩み寄ると申し訳なさそうに自身の羽織を頭の下に置いてやる。勢いに任せて吹っ飛ばしたのは事実だが、まさかこんなことになるなんて微塵も思っていなかった。元々どこか怪我でもしていたのだろうかと名無しは思ったが、間違いなく名無しのせいであることは兄妹と善逸のみが知っている。

「…とにかく。伊之助も一旦大人しくなった訳だし屋敷の遺体を運び出そう。手伝ってくれ」

 屋敷の中では何人もの人が鬼共によって殺されている。無残に喰い散らかされた死体が幾つも部屋に転がっていたのを炭治郎は決して忘れていなかった。何の罪もなかった人達。鬼の都合で攫われて、助かることなく命を落としていった。せめてもの償いとして炭治郎達は一人残すことなく遺体を屋敷の外へ運び出していく。
 
 間に合わなくてごめんなさいと名無しは何度も心の中で謝りながら温もりを失った身体に土をかけていく。兄との再会に泣いて喜んだ正一とてる子も三人で手分けしながら花を添えていった。

 空は既に朱色に染まりかけている頃だった。だが、まだまだ埋葬は終わっていない。一人づつ丁寧に埋葬していくには三人では時間が足りなかった。顔についた泥を拭う。すると、今まで静かに眠っていた伊之助が呻いているのが聞こえて名無しは視線を横にずらした。
 何か悪い夢でも見ているのだろうか。ウンウン唸る伊之助にどうにも責任を感じた彼女は立ち上がると、その端正な顔を覗き込んだ。殴られた頬がより赤く腫れ上がってしまっている。

「伊之助?大丈夫?」

「…う………ん!?」

「わ、吃驚した」

 勢いよく開いた両目と目が合う。突然のことに尻込みしそうになるのを我慢すると、名無しはできるだけ伊之助を刺激しないよう「おはよう」と微笑んだ。――― 自身に向けられるその表情にまたしても伊之助は思考が停止すると、仰向けのまま硬直する。

「…伊之助?おーい」

「…」

「…本当に大丈夫?」

 屋敷の中で初めて会った時も名無しの顔を見て伊之助は同じ反応をしていた。猪の被り物で顔は見えなかったが、今のような表情だったのだろうかと頭の片隅で思う。それにしてもこうも人の顔を見て妙な反応を示す男に、流石の名無しも居心地の悪さを感じてくる。もう一度「おーい」と伊之助の顔の前で手を振ってみたがやはり反応はなく、どうしたものかと首を傾げた。
 もしかしてよっぽど打ち所が悪かったのだろうか。悪い気はするが、善逸に怪我をさせたのが許せなかったのだから仕方ない。ただ箱のことを説明しなかった自分達にも非はある為、一概にも伊之助が悪いとも言えなかった。
 
 そう思い直して改めて謝ろうと名無しが手を伸ばすと、それよりも先に我に返った伊之助がガバリと飛び上がった。前傾姿勢になっていた為に名無しの身体が勢いで後ろに転がる。伊之助は尻餅をつく名無しを信じられないものでも見るかのような顔で見ると、言葉にならない叫びをあげた。

「〜〜〜ッッ!!馬鹿女がそんな顔で俺を見てくんじゃねェエエッ!そんなに勝負してぇなら相手になってやらァ!」

「勝負したくないしそんな顔ってなに!?ちょっ…ぎゃッー!やだこっち来ないで!」

「二人共やめないか!伊之助、まだ屋敷の中に殺された人がいるんだ、手伝ってくれ」

「はぁ!?生き物の死骸なんて埋めて何の意味がある!やらねぇぜ手伝わねぇぜそんなことより俺と戦え!」

 てる子の後ろにいた善逸が心底引いたような顔で伊之助を見た。何の為に埋めるのかと言われても当然それは弔いの為であるが、生憎と野生児に近い伊之助にはその感覚は持ち合わせていない。
 死骸は埋めずとも自然と土に還ってその一部となるのに、何故わざわざそんな面倒なことをするんだと伊之助が埋葬を断固として拒否すると、炭治郎は困ったように「そうか」と呟いた。

「傷が痛むからできないんだな?」

「……は?」

「いやいいんだ、痛みを我慢できる度合いは人それぞれだ。亡くなっている人を屋敷の外まで運んで土を掘って埋葬するのは本当に大変だし、善逸と名無しとこの子達で頑張るから大丈夫だよ」

 「伊之助は休んでいるといい」と満面の笑顔で締めくくった炭治郎に、全員が一斉にずれてると心の中で叫んだ。そんな挑発なのか無意識なのかすら曖昧な言葉に流石の伊之助も引っかからないだろうと皆が向かい合う二人を見守っていると、俯いていた伊之助が顔中に青筋を浮かべて絶叫した。やっぱりかと遠い目をする。

「はぁーーん!?舐めるんじゃねぇぞ百人でも二百人でも埋めてやるよ!俺が誰よりも埋めてやるわ!」

「そうか!ありがとう!」

 完全に挑発?に乗った伊之助が目にも留まらぬ速さで次々と屋敷の中から遺体を運び出してくると、鬼の形相のまま土をぶっかけていった。キレながらの埋葬ではあったが、伊之助のおかげで無事に日が暮れる前に全てを終わらせることができたので良しとした。

 それから兄妹に別れを告げようとしたが、「正一くんに俺を守ってもらうんだ!」と善逸が断固として正一を連れて行くとごねるので炭治郎と名無しで必死に引き剥がし、ついて来いとの鎹鴉の指示で下山した。
 傷だらけの善逸は炭治郎が背負って、禰豆子の入った箱は名無しが背負いながら伊之助もそこに並んで五人で山道を歩いて行く。 

「そうか、伊之助も山育ちなんだな」

「お前と一緒にすんなよ、俺には親も兄弟もいねぇぜ。他の生き物との力比べだけが俺の唯一の楽しみだ!」

 伊之助が育ってきた壮絶な環境に、三人は「そうか…」とホロリと目を潤ませる。伊之助は鬼殺隊員から力比べをして日輪刀を奪い、最終選別や鬼のことを聞き出した後、育手を介さずに最終選別に参加して鬼殺隊に入った。つまり誰からも教えを乞うことなく、山育ちで得た感覚の鋭さと戦い方だけで最終選別を潜り抜けてきたのだ。
 彼には才能があったのだろうと名無しは素直に感心していると、元の位置に戻った猪の頭がぐるんとこちらを向いた。

「よく聞きやがれ馬鹿女とでこっぱち野郎!俺は必ず隙を見てお前等に勝ってやる!」

「私は馬鹿女じゃなくて名無しだってば」

「うるせぇ馬鹿女!」

「俺は竈門炭治郎だ!」

「うるせぇかまぼこ権八郎!」

「誰なんだそれは!」

「お前だ!」

「うるさいわぁッ!」


 憔悴して黙りきっていた善逸が般若のような顔で叫んだのを皮切りに、三人は大人しくなったのであった。




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