22


 案の定、夜になっても伏黒君がホテルに帰ってくることはなかった。
 「やっぱりそうなるわよね…」と野薔薇が溜息を吐く。伏黒君のあからさまな嘘に気付きながらも彼を信用して先に戻ってきたのだが、流石にここまで遅いと彼の思惑を確信せずにはいられない。

「行くよね。迎えに」
「当然」

 三人共考えていることは同じだ。こっそりホテルのロビーに集まり、新田さんの監視の目を抜けてタクシーに乗り込む。目的地は勿論、八十八橋だ。
 昼間に藤沼さんの話を聞いて判明したことがあるが、肝試しは上からではなく橋の下で行われていたらしい。バンジージャンプをしても何も起こらないのであれば、次に考えられる条件は橋の下からの移動だ。伏黒君もその話を聞いていたから、今頃その条件を一人で試しているとしか考えられない。
 タクシーを降りて、橋の下に向かって暗くなった道を三人で並んで歩く。ふと、野薔薇が呆れた表情で口を開いた。

「名無しと伏黒ってなんとなく似てるわよね」
「あ、それ思った」
「ええ?どこが」
「保護者みたいに輪を遠目で見守ってるところとか、一人で何でもやろうとするところとか、自分の話あんまりしないところとか」

 虎杖君までうんうんと頷いていて思わず顔を顰める。側から見たらそうなのかもしれないけど、私自身はそんなつもりはなかったので複雑な気持ちだ。

「だとしても伏黒君の方が酷い自信ある」
「それは同感」
「だな」

 虎杖君がポンっと、と目の前の無防備な肩に手を置いた。そこで漸く噂の彼は足を止めると、肩越しに振り返って諦めたように唇をへの字に結んだ。
 どんな事情があるのかは不明だが、三人でこれだけ近付いても全然気が付く様子がなかった辺り、相当焦っているのだろう。ここまできても終始無言を決め込もうとする伏黒君に、ついに堪え兼ねた虎杖君が眉を八の字にして「別に何でも話してくれとは言わねェけどさ」と切り出した。

「せめて頼れよ。友達だろ」
「……」

 鋭かった両目がゆるゆると細められる。伏黒君は一度ぐっと口を噤んだ後、津美紀さんが既に呪われていることや寝たきりであること、いつ呪い殺されるか分からない以上今すぐに祓いたいのだということを教えてくれた。
 話している最中伏黒君の瞳はずっと不安に揺れていて、本当にお姉さんのことが心配で、大切に思っているのが伝わってくる。

「でも任務の危険が上がったのは本当…」
「はいはい。もう分かったわよ」
「危険だったのは前回も一緒だしね」
「おう!はじめっからそういえよな!」

 野薔薇と虎杖君がずんずんと進んで行く姿に伏黒君は観念したように小さく笑みを浮かべた。その横顔をじっと眺めていれば、視線に気付いた伏黒君が気恥ずかしそうに顔を逸らす。

「大丈夫だよ。四人もいればずっと早く津美紀さんを助けられるでしょ?」
「…ああ。そうだな」
「伏黒君がこっそり笑ってたことは二人に内緒にしといてあげるから安心して」
「うるせ」

 少しでも彼の不安を和らげたくて笑みを向ければ片手で強めに顔を押さえられてしまった。痛いと騒げば離してくれたけど、既にその背中は早足で川に向かっていて置いてかれまいと慌てて追いかける。

 ――― 川や境界を跨ぐ彼岸へ渡る行為は呪術的に大きな意味を持つっス。
 上からでないなら、考えられるのは橋の下。そして川があれば恐らく事件の答えへと導いてくれる。新田さんの言葉を思い出しながら川の向こう側へ踏み込む。その瞬間、今まで見えていた桁下空間が全く別の光景に切り替わった。
 そこは呪霊と怪奇な植物に囲まれた不気味な森。少年院の時のような呪いの領域が目の前に広がる。

「出たな」
「祓い甲斐がありそうね」

 蕾からモグラのように生えた呪いに一斉が構える。きっとあの呪いが今回の事件の原因だ。するりと手首の数珠を撫でて三人に続こうと一歩踏み出せば、突然背後から何者かに羽交締めをされた。

「ッ!?」

 どこからともなく伸びてきた筋肉質な腕に口を塞がれ、呼吸ごと叫び声が封じられる。為す術も無く真っ黒い闇に引き摺り込まれて、三人の背中がどんどん遠ざかっていく。
 深い沼に沈んでいくような感覚についに視界が黒く染まった時、とぷんと光が閉ざされる音が静かに響いた。




 
――― こちらの女性で間違いありませんね?」
「うん。ご苦労様。もう指の回収に向かっていいよ」

 気が付けば私は領域の外に逆戻りしていた。状況を確認する間も無く私を羽交締めしていた腕が離れ、支えを失った体が容赦無く地面に放り出される。一瞬すぎて何が起きたのか理解ができない。ただ、呪霊と人間の混ざり合った気配が複数そこに立っている。私の勘が、早く離れろと叫んでいる。

「ほんとにこんな女が力になんの?秒で殺せそう」

 耳元で聞こえた声に慌てて上半身を起こせば、いつからそこにいたのか、ツギハギだらけの人間―――いや、呪霊が物珍しそうに屈んで私を覗き込んでいた。
 子供みたいに無邪気な両目。それなのに本能的に感じる恐怖に思わず悲鳴が喉から零れると、その呪霊は「酷いなぁ」なんて言いながら大して傷付いた様子もなく肩を竦めた。視線だけで呪霊の背後を確認すれば、恐らく私を引っ張ってきたであろう露出の激しい男が先程のように闇の中に戻っていくのが見える。その後ろ姿をもう一人の男が見送ると、「さて」と笑みを浮かべながら私の元に歩み寄ってきた。

「…人間、ですよね?」
「私かい?ふふ…どうだろうね」

 恐らく二人は気配からして呪霊であるのは間違いない。けれど、今私のことを見下ろしている僧衣の男はどこからどう見ても人間だ。それも、見える側の人間。以前、悪徳な呪術師である呪詛師の存在を聞かされたことがあるけど、この人もその一種なのだろうか。

「そんなに怖がらないでおくれよ。私は夏油傑。君と有益な取引をしたいだけだ」

 それは酷く表面的な笑顔だった。笑顔であって笑顔でない、薄気味悪い表情。それが余計に恐怖を煽って、私はもう両足に力を入れることができなくなっていた。
 とんだ笑い話だ。どれだけこの界隈に慣れようが、醜悪な呪いと対峙しようが、結局のところ私は骨の髄まで呪術師になり切れていなかった。脅威はどこからともなくやってくるなんて分かりきっていたのに、いざ一人でその状況に追い込まれると私は立ち上がることすらできないのだ。

「おーい聞こえてんの?」
「…それ以上近寄らないで」
「嫌われちゃったね真人」
「えー俺まだ何もしてないんだけどなぁ」
「さぁ、君もそんなところに座り込んでないで話をしよう。それとも手を貸してあげようか」
「さ、触らないで!」

 するりと伸びてきた手に咄嗟に術式を発動させると、結界に触れた夏油の片手が焼け焦げた。張り付けたような笑みが消えて黒くなった指先を鋭く細められた両目が捉える。その緩慢とした動作に冷たい汗が頬を伝うと、次の瞬間には満足そうな薄笑いに戻っていた。一部始終を興味深そうに眺めていた真人と呼ばれた呪霊は、「それが噂の結界かぁ」とまじまじと夏油の焼けた手を眺めている。
 さっきから相手の意図が読めない。敵意があるのかすら不明だ。ただ私のことはいつでも殺せるけど、敢えてそうしない事情があるように感じられた。

「…思った通り、名字家の結界術は簡易領域と領域展延を織り交ぜた効力で成り立っているものだ」
「うん?どういうこと?」
「領域展延は、自身に膜のような薄い領域を展開することで触れた相手の術式を中和できる術。簡易領域との違いはその発動範囲と条件だ。しかし彼女の術式はそれぞれのデメリットを全て排除し、メリットだけを取り込んだ上で自由自在にコントロールすることができる。故に、呪力を持つ者は名字名無しに指一本触れられない。それはあの五条悟も例外ではない」

 私の術式だ。それなのに、夏油はまるで自分のものかのように滔々と解説をしている。私が何も言えずに放心していると、夏油は小首を傾げて「君の先祖は素敵なものを受け継いでくれたよ」とまるで子供に言い聞かせるように笑った。

「一体、何が目的なんですか。取引って言っていたけど、多分私は貴方達の要求に応えられない」
「簡単なことさ。私達に協力してほしいんだよ」
「協力…?」
「名字名無し。君は、君が思っている程高専という組織を、呪術師を、五条悟を信用していない」

 何を、言っているのだろう。私は高専に属する身であって五条先生の生徒でもあり、呪術師だ。当然信用も信頼もしているから私はここに立っている。言い返す代わりに怒りを込めて睨み付ければ、夏油はやれやれと肩を竦めた。まるで、哀れだと言わんばかりに。

「でも、何も知らないだろう?五条悟が何者であるかも、自分がどういう思惑で勧誘されたのかも」
「それは…無知だった私の身を案じてのもので」
「違うよ。君が呪術師になったのは確か両面宿儺の受肉後だったね?宿儺は呪術師の最大の敵。高専が最も恐れている存在だ。君は、自分が虎杖悠仁が暴走した時の切り札であると考えたことはないのかい」

 違う。五条先生は、五条さんは、私に誰かの犠牲になるような真似はさせないと言ってくれた。その言葉に嘘はなかった。

「呪術師最強である五条悟にとって、彼に触れることができる唯一無二の術式を持つ君は害悪な存在だったに違いない」

「私欲で肥え太った呪術師共に利用するだけ利用されて、何れ塵のように捨てられるんだ」

「君の友達も、君のことを役立たずの都合のいい盾だとしか思っていないよ」

「それならば、誰の味方にもつかなければいい」

―――― そうは思わないかい?

 頭が真っ白で、目の前が真っ暗で、深い深い底なしの絶望に突き落とされる。夏油の酷く優しい声色が私の心に爪を立てて、何かが音を立てて崩れていく感覚がした。何も言い返せない代わりに、壊れたみたいに流れる涙が震える唇を撫でていく。「あーあ。夏油が泣かせた」という呆れた真人の声を、どこか他人事のように聞いていた。
 悔しい。悔しい。こんな見ず知らずの相手に呆気なく揺さぶられる自分も、実は涙腺が人一倍弱いことも、全部情けなくて一層の事消えてしまいたかった。利便性のある術式。都合のいい存在。本当は―――のその先を考えたことがない訳がない。あまりにも、偶然にしては話が出来すぎていたから。けれどそれも全部引っ括めて私はこの道を選んだ。誰かに強制されたんじゃなく自分で選んで、人を背に庇うことを選んだ。誰かの為でも、自己満なんかでもない。私が私である為に、そうして生きてきたんだ。五条先生にとって害悪?上等だ。丁度、あの人を超えてやるって息巻いてたところだから真意なんてこの際どうだっていい。後悔だってしない。

「…例え塵みたいに捨てられようと、きっと大切な誰かを守れた私を誇りに思えるから」
「…交渉決裂ってことかな。残念だ」

 今までお預けを食らっていた犬が自由になったかのように、真人はニタァと口角を歪ませると一瞬にして間合いを詰めてきた。間一髪で両手を顔の前で交差し、術式を発動させる。眩しいくらいに火花が散って真人は焦げた腕を引っ込めると、唇を尖らせて私を睨んだ。

「ちぇッ。相性最悪じゃんか」
「知ってる。私と相性が良かった呪霊なんていないから」
「ふーん?ま、すぐに治せるからどうってことないけどさ」

 焼け爛れていた腕があっという間に再生されていく。どんな術式なのかは不明だが、恐らく再生、変化の類だろう。何にせよ私一人でこの二人を相手にするのは無理があるし、最悪の場合待ち受けるのは死だ。私は震える両足に鞭を打って這いずりながら何とか立ち上がると、八十八橋下の領域に向かって全力で走った。  

「殺すつもりはなかったんだけどね。此方側につかないならば後々が面倒だ」

 夏油が右腕を振るうと大量の呪霊がどこからともなく出現し、行く手を妨害せんと束となって襲いかかってくる。すぐに液体状にした結界を手足に纏って無我夢中に呪霊を振り祓っていくが、如何せん数が多い。蛇のような呪霊の触手が足首に絡みつきバランスを崩すと、私は勢いよく地面を転がった。触れた瞬間祓われるのは覚悟の上なのかそれともそういう命令で動いているのか。術式のおかげで体勢を立て直すのは容易だが細かい妨害がかなりしつこい。
 血みどろの両膝など形振り構わず立ち上がる。呪霊の襲撃を延々と受け流しながら背後を盗み見れば、どうやら真人が追いかけてくる様子はない。あの人達の目的は恐らく五条先生の排除だ。試したことはないけど、夏油の見解が正しければ私の術式は五条先生に通用する、それならば、私を引き入れようとする理由にも納得がいく。今回は失敗でも、今後再び私の前に現れる可能性は十二分に有り得るだろう。
 不意に、お腹に響くような咆哮が背後から発せられた。それは、私など簡単に飲み込んでしまいそうな程巨大な龍。瞬く間に距離を詰めてくる呪霊に目を見開くのも束の間、纏っていた結界を瞬時に凝固して壁を作る。しかし、呪霊は勢いを殺すことなく頭から結界に突っ込んでくると、激しく渦巻く紫電と圧倒的な力が反発し合って私の体はいとも簡単に吹き飛んだ。

「う、わッ!?」

 殺しきれなかった風圧に片足がずるりと足場から滑り落ちていく。――― 最悪なことに、背後は崖だった。
 重力に従って真っ逆さまに落ちていく体。目の前には龍の呪霊が容赦無く追撃してきている。結界に真っ向から突っ込んでおいて大したダメージを受けていないのを見る限り、相手は相当な硬度の持ち主だ。

「"相転移――― 第四”!」

 眼前に展開した結界が転移熱を凝縮し、金属を擦り合わせたような甲高い音を響かせる。物質の三態は個体、液体、気体。――― 更に気体から第四の状態であるプラズマ、”放出する力”へと変化する。
 パチンと指を鳴らした瞬間、一筋の稲妻が空を切り裂いた。激しい稲光に思わず目を閉じる。次の瞬間、頭上で雷鳴が轟き渡った。

 自分自身でも状況が確認できないまま崖下の地面に体を打ち付け、激痛にその場に蹲る。交流会の時といい、私は一体どれだけ高い所から落下すれば気が済むのか。今度こそはっきりと折れた感覚のある左腕に私は内心でのたうち回る。辛うじて体を捻って崖上を見上げて見れば呪霊の姿はすっかり消え失せていて、夏油と真人が追撃してくる気配もなかった。
 一先ず難を逃れた事実に私は全身を使って息を吐き出すと、覚束ない足取りで川の向こう側を目指して歩く。いきなり消えてしまったから三人がどうしているのか全く分からないけど、私を攫った呪霊の存在もあるしきっと無事とは言えないだろう。相変わらず把握できない状況を不安に思いながら、私は痛みに悲鳴をあげる全身を引き摺った。

 暫くして八十八橋が見えてくると、既にそこには領域の空間も、呪いの気配も綺麗さっぱり無くなっていた。どうやら任務は無事達成されたらしい。私は完全に別件に巻き込まれていたから少し申し訳なく思いながら三人を探すが、一向に姿が見えない。まさかもう帰ってしまった?車がないと私は重傷のままさいたまに取り残されることになってしまう。それだけは勘弁だ。

「…名字か?」

 最悪な想像に打ち震えていると、どこからかか細い声が私の名を呼んだ。何だか少し懐かしくすらあるその声色に慌てて周りを見渡せば、少し離れたところの川辺で血で汚れた伏黒君が倒れていた。

「伏黒君!?」

 急いで傍に寄ろうとするも、刺すような痛みが突き抜けて走ることができない。それでも何とか伏黒君の元まで辿り着くと、彼の頭の横で限界を迎えた両足が力なく折れた。骨折しているであろう自身の左腕を強く抑える。ぐったりと倒れたままの伏黒君もかなりボロボロで消耗しきっていて、ここで壮絶な戦いがあったことを示していた。
 伏黒君は少し怒ったように眉間に皺を寄せて私を見上げた。心配を掛けたのは事実なので、目を逸らしたりはしない。

「お前が…急にいなくなるから、マジで焦ったんだぞ」
「ごめん」
「何だよ、その大怪我」
「伏黒君だって相当やばいよ」
「…泣いたのか?」

 起き上がるのもしんどい癖に、伏黒君が腕を持ち上げて私の目元に触れてくる。その手付きがあまりにも優しくて、心臓が酷く痛んだ。

「どうした、何かされたのか?」

 自分より私なんかを心配しないで。でなければ、私は先刻の自分を許せなくなる。我が身可愛さに一瞬でも皆を疑った恥ずかしい私が、「お前にそんな資格はない」と嘲笑っている。怪我より何より、心臓の方がずっとずっと痛かった。
 呼吸が上手くできない。不自然に力が入った唇が震えて、無理だと思った時にはまた涙がボロボロと溢れていた。もう絶対泣かないなんて密かに誓っていたのに、これじゃあ何の意味もない。

「…お前が意外とよく泣くってのはアイツらには内緒にしといてやる」

 袖で拭こうとしてくる伏黒君の腕をそっと掴み、もう動かせないように額を押し付けた。ただひたすら「ごめんね」と謝る私に、彼は何も言わずに手を握った。




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