16
「―――――」 「しゃけ。いくら。明太子」
狗巻先輩が私を背に庇うようにして立った。 何してるの先輩。立ち位置が逆だって。こんな時にせっかくの盾を背中にしまう人間がどこにいるんですか。 この人は一体どこまで優しいのだと絶望にも似た感情が身体を支配した。叫びたいのに声が出ない。喉に石でも詰め込まれたみたいだった。
「―――――」
まただ。何を言っているのか理解できない。私達とは別の言語。 この世には私の知らない言語が多く存在するが、その呪霊の言葉は、人間のそれとは根本的に違っていた。
特級呪霊が腕を振るう。私達を中心に、不自然なスピードで一面に花が咲き誇った。思わず一歩下がる。けれど攻撃されるどころか、私自身どこか穏やかな気持ちになった。 どうしてだろう。此方に背を向ける先輩の顔を覗き込む。狗巻先輩は、ぼうっと呪霊を眺めていた。
「…!…先輩ッ、危ない!」
二人の間に割って入り片腕を突き出せば、結界を展開したのと同時にバチッと何かが弾かれるようにして地面を転がった。 木でできた鞠のような塊。それが特級呪霊によるものだと理解するのにそう時間は掛からなかった。
「―――――」
あの花畑はきっと戦意を喪失させるものなのだろう。けれど花だからか、悪魔的な見た目に反してあまりにも怨嗟の念を感じない。呪いなのに、宿儺のような悪意がまるでないのだ。どちらかといえばそれは深い悲しみのようで、怒りでもある。ただの特級呪霊とは明らかに一線を超えていた。 呪霊が地面に手を付けると、どこからともなく広範囲の樹木が襲いかかってくる。常軌を逸した成長スピードに両足が逃げるタイミングを見失った。
「"動くな"!」
樹木が眼前で凍てついたように静止した。根の先端が刃にすら見えて、瞬きも許されない程の緊張感が襲いかかってくる。 背後から狗巻先輩がぐいっと私の袖を引っ張った。その意味を瞬時に理解して、一気に走り出す。
異常事態だ。交流会に特級呪霊が放たれるなどあり得ない。走りながら空に目を向ければ、予定にない帳までもが区画内を覆い尽くそうとしていた。 また仕組まれた?いや、ならば呪霊を無作為に狙わせるような真似もこんな目立つ帳もデメリットでしかない。消去法で考えれば、残るは第三の勢力の襲撃だ。 そういえば、以前に五条先生が未登録の特級呪霊に襲われたという話を聞いたことがある。あの時はまぁなんと下手な似顔絵かと思ったけど、こうして見れば本人らしき呪霊と特徴が合致しているしよく似ていた。
「先輩!高専に向かいましょう!森の中じゃ不利です!」 「しゃけ!」
首だけ後ろに向ければ、呪霊が猛スピードで追いかけて来ているのが目に入った。当然、私達の何倍もある巨体の呪霊を撒けるとは思っていなかったが、流石の迫力に喉から小さく悲鳴が漏れる。 背後から呪霊がいくつもの木の鞠を飛ばし、私達を囲んだ。滞空したまま追いかけてくるそれは衝突してくる気配はない。しかし、先程の樹木とは比べ物にならない程鋭利な針を中から覗かせると、一斉に放出した。
「"止まれ"!」
狗巻先輩が前方を、私が後方を結界で守備する。背後で結界に触れた木が高圧電流に焼かれて、焦げ臭い匂いを発して塵になったのが感覚で分かる。
「―――――」
何か言っている。意味は分からないけど、今ので機嫌を損ねたような気がするのは考えすぎだろうか。心無しか攻撃も荒くなっている。 攻撃を交わしながら森を抜けると、高専は目と鼻の先だ。
「いくら!ツナ!」
高専は高い外郭に囲まれている。中に入るのに周り道をしている暇はない。 覚悟を決めて両足に呪力を溜め込むと、バネのように利用して外郭を攀じ登っていく。SASUKEかよと突っ込みたくなったが今はそれどころではない。狗巻先輩が腕を引っ張り上げてくれて屋根に登り切ると、ふと、辺りが暗くなって夜になった。――――― いや、正解には私達の周囲にだけ影が掛かった。 見上げるまでもなかった。遥か上空一面を覆う程の樹木の束。根の奥底まで広がる深い闇。それはまるで津波の如く私達を呑み込まんとしていた。
「"逃げろ"!」
狗巻先輩が私以外の誰に叫んだのかは分からなかった。確認する前に、樹木の波が高専内に一気になだれ込んで、私は呆気なく宙に投げ出された。 身体が石畳の地面に容赦なく叩き付けられる。受け身をとったが勢いまでは殺しきれなくて、何度か地面を転がると私の身体は漸く止まった。
「ウッ…げほ!うぇ…」
咄嗟に呪力を纏ったからそこまで重傷ではない。けれど視界がぐるぐると回って、耳鳴りが止まない。鈍痛と冷たさを感じて頭に触れてみれば、案の定掌にはぬるりと赤いものが付いていた。 …中身が飛び出ていないだけ上出来だ。砂埃に咽せながら掌を睨み付け、何とか四つん這いにまで体勢を持ち上げる。すると、誰かが私の背中を支えた。
「おい、意識ははっきりしてるな!どこも折ってねぇか!?」 「いくら!!」 「あれ…?」
狗巻先輩は私の目の前で膝を付いている。顔を横に向ければ、伏黒君が血相を変えて私の身体を支えてくれていた。 少し離れたところには京都校の加茂さんもいる。二人は先に高専内にいたのだろうか。痛む頭で必死に状況を整理して、まずはとにかく無事を伝えようと口を開くも伏黒君の怒声によって遮られてしまった。
「名字!聞こえてんなら返事しろ!」 「聞こえてます、聞こえてますって…。ちょっと頭痛いからそんな揺らさないで」 「揺らしてねぇ!」
まさかの揺れているのは私自身だった。そんなバカな。 どうやら吹き飛んだ時に回り過ぎて平衡感覚がおかしくなってるらしい。伏黒君に支えられて漸く立ち上がると、大きく息を吸って呼吸を整えていく。呪霊の気配はまだ消えていないのだからしっかりしないと。
「…何故高専に呪霊がいる。帳も誰のものだ?」 「多分、その呪霊と組んでる呪詛師のです」 「ねぇ、あの呪霊五条先生が見せてくれた似顔絵の奴だと思わない?」 「あぁ、確かに。あの人の絵でも分かるもんだな」 「あれについて何か知っているのか?」 「以前に五条先生を襲った特級呪霊だと思います」 「ツナマヨ」
狗巻先輩が咳払いをしてから電話を掛ける仕草をすると、伏黒君が「そうですね」とスマホを取り出した。確かに今は先生に連絡するのが得策だ。流れに身を任せていると、加茂さんが動揺しながら「ちょっと待て」と間に入る。
「君達は彼が何を言っているのか分かるのか?」 「今そんなことどうでもいいでしょ。相手は領域を使うかもしれません。距離を取って五条先生の所まで後退――――― 」
音もなく背後を取られた。その場にいる全員が息を呑む。呪霊の放つ木の芽が伏黒君のスマホを貫いた瞬間、狗巻先輩が静止の声を上げた。 呪霊の動きが止まると同時に加茂さんが血の刃で切り付け、鵺が帯電する翼で体当たりをする。すかさず伏黒君が呪具で足元を斬りつけるが、衣服が無造作に破けるだけで本体には一切傷が付いていない。
「"やめなさい。愚かな児等よ"」
言葉が頭に流れ込んで木霊する。呪霊が何かを言っている。意味が分からない筈なのに、何故か今は理解できていた。 二律背反の現象は頗る気持ちが悪いが、どうやら他の三人も同じ現象が起きているようだった。呪霊の言葉は続く。
「"私はただこの星を守りたいだけだ"」 「何を、言ってるの?」 「呪いの戯言だ。耳を貸すな」 「低級呪霊のそれとはレベルが違いますよ」 「"森も海も空ももう我慢ならぬとないています。これ以上人間との共存は不可能です。星に優しい人間がいることは彼らも知っています。しかし、その慈愛がどれだけの足しになろうか"」
高尚な佇まいで呪霊は言葉を紡いでいく。やはり、ただの特級呪霊ではなかった。独自の言語も性格も自論も持っている。あれは呪霊という枠に象られた一つの生命体だ。そして地球というものを愛し、憎んでいる。 呪霊からは最早悲しみの感情は感じられなかった。今あれを支配しているのは、拭い去ることのできない人間への憎悪。
「"彼らはただ時間を欲している。時間さえあれば星はまた青く輝く"」 「…狗巻を下がらせろ」 「"人間のいない時間。――――― 死して賢者となりなさい」 「ッ防ぎます!私の後ろから一歩も動かないでください!」
高専に纏わり付いていた太い樹木が蛇のように唸り束となって突っ込んでくる。 相手に独自の言語がある以上、狗巻先輩の呪言がどこまで通用するか分からない。私は三人の前に立つと、パンッと強く両手を叩いた。練り出した液体状の呪力がドーム型の結界となって私達を包み、間一髪で衝突した樹木の束が恐ろしく火花を上げて燃えていく。
「貫通しないだと…?まさか、君は結界師なのか!?」 「呪術師ですッ!」 「いや、そうではなくて…」 「後にしてください!校舎内に逃げます!」
空間が広ければ広い程攻撃範囲が増えて厄介だ。校舎の中ならば障害物も多く、狙い辛い。 燃えていた樹木が不自然に消えたタイミングで校舎に向かって走り出す。しかし、すぐに何事もなかったかのような姿で樹木は再生すると物凄いスピードで追いかけてきた。
「あの根っこ、本物じゃない!」 「クソッ。実物操ってんじゃねぇのかよ!」
恐らくあれは具現化したもの。本物ならば跡形もなく消したり出したり出来ない筈だ。限界まで樹木を燃やす方法を思案していたけど、無限に再生できるなら意味がない。 押し寄せる樹木で校舎は次々と半壊していく。呪霊は木の鞠を無数に投げ飛ばすと、四方八方に鋭利な刃を放出した。これでは全員分防ぎきれない!
「"止まれ"!」
攻撃が静止するのと同時に狗巻先輩が大きく咽せ返った。森の中から連続で呪言を使っているから、負担も大きい、これ以上続ければ喉も潰れてしまう。
「狗巻先輩大丈夫ですか!?薬をッ」 「しゃけ」
先輩が懐からノドナオールを取り出して飲み干す。けれど、顔には脂汗が滲んでいて辛そうなままだ。
「"百戀――――― 穿血"!」
あれだけ攻撃を受けても傷一つできなかった呪霊の頭部に亀裂が入る。その巨体が衝撃で仰反るが、すぐに態勢を立て直して攻撃を再開した。
「急げ。どうせすぐ治る」 「ゴホッ」
流石特級としか言いようがなかった。呪術師が四人で掛かっても連絡を取る隙はおろか、攻撃すらまともに食らっていない。私と狗巻先輩で妨害して時間を稼いでも、少しでも均衡が崩れれば一気に片付けられてしまう。すぐにでも帳を抜けて教員と合流しなければ終わりだ。 校舎の階段を駆け抜けて窓から屋根上に飛び出す。すぐに伏黒君が鵺を召喚すると、呪霊に体当たりするよう指示を出した。加茂さんが間合いを詰めて攻撃の体勢をとる。
「" "」
しかし、言霊はなかった。鵺の黒い体液が飛び散って地面を濡らし、狗巻先輩はその場に崩れ落ちるとボタボタと血反吐を吐き出す。 先に限界がきたのは此方だった。間合いを詰めていた加茂さんは顔から瓦屋根に叩き付けられ、力無く転がり落ちていく。私は追撃する木の鞠を破壊し、咄嗟に落ちていくその手を掴んだ。
「加茂さん!生きてますか!?」
成人男性の身体を必死に引っ張り上げて仰向けに寝かせる。顔は血みどろだったが、心臓はしっかり動いていた。狗巻先輩は強い言葉を選んでいないのに喉を潰している。それだけ、この呪霊が格上だということを意味していた。 伏黒君が呪霊の前に立ちはだかる。そして両手で何かの印を結ぼうとすると、それを遮るように狗巻先輩が肩に手を置いた。
「高菜」
あれだけ血を流して苦しそうにしているのに、これ以上何をするつもりなのか。伏黒君の制止の声すら無視し、先輩はどんどん呪霊との間合いを詰めていく。
「"ぶっ飛べ"」
世界が無音になった直後、遠くでドォンという大きな音が響いた。 狗巻先輩が血を吹き出して倒れ込む。視線を巡らせれば、向かい側の校舎の屋根に呪霊が叩き付けられ、駆け付けた真希さんが応戦しているのが見える。
「行って!二人は私が見ておく!」 「悪い、頼んだ!」
鵺で飛び去って行った伏黒君を見送った後、加茂さんと狗巻先輩を一箇所に運ぶ。見ておくとは言ったけど、流石に男性二人を運びながら移動できる自信はない。 加茂さんはとにかく外傷が酷い。せめてと顔にハンカチを当てて止血していると、突如強い風が吹いて髪が攫われた。
「加茂君!と、狗巻君とえっーーと一年生の子!」 「名字です西宮さん」 「あわわわごめん!名字ちゃんね!」
京都校の西宮さんが宅急便よろしく箒に乗って空を飛んでいた。そして私達の元に降り立つと、辛そうに顔を歪めて二人を見下ろしている。
「今両校の二、三年が応援と怪我人回収に向かってるの。私の箒じゃ二人乗せるのが限界なんだけど、あなたは一人で大丈夫そう?」
西宮さんが先輩達を箒に引っ掛けながら申し訳なさそうに私を見上げた。一年生を一人置いていくことに罪悪感があるのだろう。けれど、この中じゃ私が一番軽症だ。彼女の判断は何も間違っていない。 私は西宮さんを安心させるように笑みを向けると、加茂さん乗せて「早く治療してあげてください」と背中を押した。
「で、でも」 「大丈夫ですよ。これから私も下に降りますし、先輩達もそこにいるので」 「…分かった。気を付けて」
そう言って、西宮さんはフワリと空に浮かんでいく。男性二人を乗せてかなり不安定だが、ゆっくり飛んでいれば心配ないだろう。
「…さて」
校舎の最上階から辺り一面を俯瞰する。呪霊は真希さんの呪具によって随分遠くまで弾き飛ばされていた。 位置を確認してから大きく息を吸い込んで吐く。両足に呪力を溜めて滑るように建物を降っていき、木々の中を駆け抜けた。距離が近付くにつれて破壊音も大きくなっていく。
飛び出した先は広い河原だった。視線を巡らせれば、離れた所に伏黒君が蹲っている。よく見れば身体に呪いの苗のようなものを植え付けられていて、術式はもう殆ど使えないようだった。
「真希さん!」 「ッ…名無し!蹴り飛ばせ!」
呪霊の根に腕を貫かれて身動きの取れない真希さんが私に向かって叫んだ。
――――― 私にできる?
頭で考えるよりも先に身体が動いていた。強く叩いた両手を合図に液体状の呪力が手足を纏い、固めていく。重心は全て下半身に。走り出した私を止める者は誰もいない。―――――私の成長は、誰にも止められない。
術式を纏った蹴りが呪霊の顔を撃った。焦げ臭い匂いとめき、と亀裂が入る感覚が細胞を伝って流れてくる。 重い。けれど呪霊の態勢を崩すには充分。 焼けた顔を押さえた呪霊が一歩後退る。拘束を抜け出した真希さんが特級呪具遊雲を振るった。
「"…貴女のその術式は少々厄介ですね"」
この二ヶ月間、死に物狂いで導き出した私の結論。―――――"相転移呪法"。 高濃度に練り出した呪力を数珠の力を用いて空間に創造し、固める。私がこれまで無意識に創り出していた結界というものは、原子レベルで操る呪力の凝固、圧縮された熱運動エネルギーの塊だ。故に、簡単には触れられない。 呪いが矛ならば私が持つのは自由自在の盾。攻撃は最大の防御だと言うが、最大の防御は攻撃にも成り得る。
「"どうやら私達は相性が悪いようです。貴女に触れられないのならば、私の術式は意味を成さない"」 「分かってるなら帰ってくれませんか!」 「"…でも、慣れれば遅い"」
背後から伸びた根が私の腹部を貫いた。燃えるような痛みに思わず身体が竦む。両足を叱咤させ、真希さんが遊雲を叩き込んでいる内に根を掴んで塵にする。
「名無し!」 「はいッ!」
真希さんが攻撃を躱す瞬間に遊雲を投げ渡してくる。飛び上がって既での所を掴み取り、そのまま顔面目掛けてスイングすると真っ向から受けた呪霊が破裂音を轟かせて横に吹き飛んだ。 川の水が勢いで吹き上がって水飛沫を上げる。正直あんな飛ぶとは思っていなかったので恐るべし特級呪具だ。手元の三節棍にビクビクしながら持ち主に返せば、真希さんは良くやったと言わんばかりに私の頭を撫でて呪霊に舌を向けた。
「こいつに死ぬ程叩き込んだ私との連携舐めんじゃねーよ」
非常にきゅんである。……じゃなくて。 真希さんと私で少しでも時間を稼がなければならない。こんな所で女性にときめいている場合ではないのだ。
「真希さん!このままじゃあいつすぐ起き上がってきます。正直、腹が痛くてあんまり頑張れそうにないんですけど」 「心配すんな。私らの仕事は終わった。…選手交代だ」
え、と口から零れた瞬間、突然空から勢いよく何かが降ってきた。着水したであろう場所から川の水が勢いよく水飛沫を上げる。先程のこともあって私の全身はもうずぶ濡れだ。
「いけるかマイフレンド」 「応!!」
現れたのは東堂と虎杖君だった。どこか親友のように仲睦まじい姿に、二度目の「え」が口から零れた。
Anti everything.
戻る |