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何も知らないただの女子高生だった。いや、正しくは”何も知らないふり”をしていた女子高生だった。
「はぁッ…はぁッ、なん…で」
後ろからの咆哮に後頭部がピリつく。俵担ぎをしながら走っているからなのか、それとも同じ心境からなのか、私の首元に縋り付く男の子も一際強く泣き叫んで今にも発狂しそうだった。
「オイテ…行カナィ、デェッ!」
人には視えない”ナニか”が視えた。いつからかは覚えていない。赤子が立ち上がるように、自然と言葉を話すように、当たり前のように私の日常に存在していたことだった。 その当たり前が他の人にとっては異常なことなのだということも子供ながらに理解していた。唯一、理解してくれた祖母は「見てはいけない」。「関わってはいけない」。そう口を酸っぱくして私に言い聞かせてきた。 およそ言われた通りにしていればナニかが私に危害を加えることはなかった。筈だったのだ。
「何ッッで追いかけてくるわけェ!?」
背後には四足歩行で追いかけてくる化け物。その姿は蜘蛛のようにも見えるし、人間のようにも見える。形容しがたい異形の姿だ。
「置イテ、イカナイ…デヨォォオ!」
こんな状況下でこそ火事場の馬鹿力とやらは発揮されるのであろう。子供一人担いで階段を全力で下っている私と化け物の距離は今の所一定に保たれているが、少しでも気を抜いたり階段から落ちたりなんかしたら、間違いなく私達を待ち受けているのは死だ。 この十六年間一度も襲われたことなんてなかったのに。どうして突然こんなことになってしまったのか分からない。変わったことがあったとすれば、いつも味方でいてくれた祖母が最近亡くなったことくらいだ。 今日だってそのお墓詣りにやってきただけだ。化け物がよく墓地をウロついていたのも知っている。でも、殺されそうになるのは初めてだった。
「嫌だぁああ!怖い、怖いよ!お母さんに会いたいよォッ!」 「大丈夫!大丈夫だから!お姉さんこう見えて運動神経抜群だし、絶対どうにかするから!」
どの口が言ってんだ。今だけはこの良く回る口を引っ叩きたい。どうにかするってなんだよ。どうすんだよ私。 また化け物の絶叫がガラ空きの背中に押し当たる。この無駄に長い階段には辟易していたけど、人気が少ないところは感謝しかない。こんな全身の毛穴から冷や汗が噴き出て謎に子供を担いでる絵面なんて側から見たら恐怖の対象でしかないだろう。勿論、それは助けてくれる人もいないっていう意味でもあるのだけど。 先のことなんて何も考えず、ただただ必死に階段を駆け下りる。もしかしたらいつか諦めて消えてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら最後の段差を目指す。 そんな期待も空しく、次の瞬間ぐきりと嫌な音が足元から聞こえた気がした。
「あ、」
足首に感じる微かな鈍痛と不快な浮遊感。足を踏み外したのだと気付いた頃には、私は階段の終着点で全身を叩き付けていた。 擡げた頭からぬるりと生暖かいものが地面に滴って染み込んでいく。まるで他人事のようにその光景を眺めてから、ゆっくりと視線を巡らせる。少し離れた所で男の子が投げ出されたまま気を失っていた。
「オイテ、行クノ…?」 「何よ、泣きたいのはこっちだよ…」
チカチカする視界の先には、大きな目玉から涙を流した化け物が佇んでいる。悲しんでいるかのように見えたが、ピクリとも動かなくなった男の子を見て一変、その大きな口が嬉々として弧を描いた。 底冷えするような恐怖。指先までもが金縛りにあったかのようにピクリとも動かない。
―――― 死ぬ
全身の細胞がそう言っている。私はこの化け物に殺されるのだ。
「うッ…おか、さん」
呆然とした意識の中、微かに男の子の呻きが聞こえた。 なんの繋がりもないただその場に居合わせただけの男の子。例えあの子が化け物の姿を視えていたのだとしても、私のせいで巻き込まれたことに変わりはない。私のせいだったのだ。
「せめて…」
せめて死ぬならなんの罪もないあの子だけは助けたい。なんて、酷い自己満に内心吐き気を催した。綺麗なこと言って、本当はこの罪悪感から逃れたいだけだ。名前も知らない誰かを守ろうとする程、私はできた人間じゃない。 痛む身体を叱咤し、這いずってでも男の子の側にいく。ずっと昔にお婆ちゃんからもらった数珠を手首から外し、強く両手で握り込んだ。
「お婆ちゃん、助けて…」
人間というのは死に際で最早祈ることしかできないらしい。強く強く額に押し付けても、化け物が止まったり消えたりする気配はない。着実に此方に距離を詰めていて、前足を振りかぶらんと楽しげに揺らしている。
「(ああお母様、親孝行できなくてごめんなさい。先に逝きます。)」
化け物の鎌のような前足が振り下ろされる。顔面に風圧を感じて、より一層強く目を閉じた時、ふと手首に燃えるような熱を感じた。そして次に何かが弾かれるような乾いた音。 想像していた痛みがこない。恐る恐る目を開け視界に広がる光景に、私は情けなく口を開くことしかできなかった。 ―――― 結界、のようなものだった。
私の数珠によく似た形の輪が肥大化し、その中を埋めるように紫電の渦が揺れている。その面積に触れたのであろう化け物の腕は電撃に当てられたかのように焦げていた。 気付けば、私の手の中にあった筈の数珠がどこにもない。まさか、今目の前にあるものがそうだとでも言うのか。 言葉を失っていると、目の前の結界は役目を果たしたかのように消え、数珠は弾けるように形を変形させながらやがてあるべき手首に何事もなかったかのように戻ってきた。
その慣れた重さと感触が全て現実であることを突き付けてくる。助かったのも幸か不幸か、化け物は前足を負傷したものの変わらずそこに立っているし、何なら激昂して今にも私達を嬲り殺しにしそうな勢いだ。 怒りを発露した雄叫びを全身に浴び、今度こそ死を覚悟する他なかった。
「はい!そこまで〜」
今度は一体どんな奇跡だっていうんだ。もう死ぬなら死ぬで苦しくないようにちゃちゃっとやってしまってください。もう怒鳴られたくありません。 新たに聞こえた第三者の声。この緊迫した場に似合わず現れた男は、目元から爪先まで黒尽くめで眩しい銀髪をしていた。これが噂の天使ってやつなのだろうか。私を迎えにきてくれたのね。
「君、いつまでボケっとしてるつもり?立てる?」 「は、?」
化け物の姿は跡形もなく消えていた。もしかして私が現実逃避している間にこの天使がやっつけてしまったのだろうか。 どちらにせよ、ずっと掛かっていた圧がふっと軽くなって安堵が押し寄せてくる。興奮状態だったせいか今になって痛みも強くなり、更に私を襲ったのは恐ろしい程の睡魔。
「おーい?」
遠くから私を呼ぶ声がする。霞む視界の先で、目元を黒い布で覆った男性が私の顔を覗きこんだのが最後に見た景色だった。
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