12


「おい。もう充分やったろ?今日の分は終わりだ」
「お願いします真希さん!あともう一回だけ!」

 またやってるなという視線が二人に集まる。もう何度目だろうか、この流れを見るのもすっかり慣れてしまった。
 交流会に向けてのしごきはいつも決まった時間に終わる。居残りをする時もあるが、決まって名字はギリギリまで練習を行っていた。誰かが帰るよう促しても一度こうなると名字はしつこく食い下がるから、大体真希さんかパンダ先輩が根負けして居残り練習に付き合ってやっているのだ。だから今回もそうなるだろうと誰もが思っていたのだが、今日の流れはいつもと違っていた。

「いい加減にしろ。お前自分の顔鏡で見てみたか?そんな隈ぶら下げた奴と手合わせなんかしても身に付つかねぇよ」
「これ化粧ですから!アヴリルラヴィーンになりたくて!」
「嘘つけ!!なら尚更出直してこいアイシャドウ足りてねーんだよ!おい野薔薇、こいつ引き摺ってけ」
「了解です」

 「ほら、行くわよ」と呆れた様子の釘崎に腕を引かれ、名字が至極残念そうにしながらグラウンドを後にする。その後ろ姿を二年生と見送っていると、突然電池の切れた人形のように名字がその場にぶっ倒れた。
 重さで膝をついた釘崎が叫び、慌ててパンダ先輩と狗巻先輩が二人に走り寄る。俺の隣で、真希さんが特大の溜息を吐いて額を押さえた。

「ほら言わんこっちゃねぇ!…ったく。恵、名無し部屋まで運んでやってくれ」
「そのつもりです」

 毎日の時間外演習と、夜遅くまで課題に明け暮れていればぶっ倒れるのも当然と言えば当然だった。それを知っていて俺も止めなかったのだから、尚更放っておけない気がした。
 真希さんに軽く頭を下げてから、脈を測ったり大騒ぎしている三人の元に走り寄って「部屋に運びます」とぐったりしている名字を抱え上げる。間近に見た名字の顔は死人かってくらい青ざめていて、初めて会った時より少し痩せたように見えた。


***



「あれ、いたの」

 名字の部屋から出てきた釘崎が目の前の俺を見て扉を閉めるのをやめた。

「名無しなら起きたわよ。ほんッとあの子って見かけによらず猪突猛進よね。説教でもしてやりたいとこだけど、何だか落ち込んでるみたいだからアンタも励ましてやってよ」
「落ち込んでる?なんでだ?」
「さぁ…。詳しくは分かんないけどまぁ、なんとなく予想はつく」

 俺が首を捻っていると、釘崎が「早く行け」と背中を押したのでとりあえずお見舞いも兼ねて部屋に入ることにした。

「お邪魔します」

 最初はてっきり医務室に連れて行くものだと思っていたが、高専医師である家入先生の「ただの立ち眩みだから寝ていれば大丈夫」というお達しで本人の自室で寝かせておくことになったのだ。以前に来たことがあるとはいえ、やはり女子の部屋に入るのは少し躊躇するし、慣れない。
 そろりと靴を脱いで上がれば、名字が奥のベッドで不貞腐れたようにタオルケットに埋もれているのが見えた。

「体調はもう平気なのか」
「…絶好調だよ」
「どこがだよ」

 名字は唇を尖らせるとぷいっとそっぽを向いてしまった。釘崎は落ち込んでるって言っていたが、俺にはどう見ても不機嫌にしか見えない。
 どうしたものかと後ろ髪を掻く。とりあえず座ろうと思い立った俺は、デスク用の椅子を引っ張ってきて枕元に腰掛けた。

「暫く居残り練習はやめて休めよ。課題も、五条先生に事情話せば考慮してくれるだろ」
「いいよ。今日寝たら治るから、また明日からやる」
「はぁ?それでまた倒れんのかよ」
「なら倒れない程度にやるから」
「お前なぁ…」
「時間が、全然足りないの!今寝てる時間すら惜しくて、何もできないのが悔しいくらい!」

 鬼気迫る様子で声を荒げる名字に俺は思わず面食らうのと同時に、その異常な焦りの理由が分からなかった。
 新人扱いを気にしているのか、ただ単に向上心が高いだけなのか。何となくそのどちらでもないような気がして、気付けば頭に浮かんだ疑問を口に出してしまっていた。

「なんでそんなに焦ってる?近々交流会があるとはいえ、所詮は交流会だ。お前が身を滅ぼしてまで貢献するようなもんじゃねぇぞ」

 その言葉に、名字がきつく俺を睨み付けた。怒らせてしまったのだろうか。悪気があった訳ではないことを伝えようと口を開くも、「だって」と名字が発した言葉によって遮られた。

「安心できないでしょ」
「は、」
「皆優しいから、慣れない私を心配して気を遣うでしょ。伏黒君だって……また私の手を引っぱるでしょ」

 一瞬、何のことを言っているのか分からなくて、俺は目を丸くして名字を見つめ返す。唇を噛み締める表情が今にも泣き出しそうに見えて、俺は急いで頭の中をひっくり返して該当する記憶を必死に探した。

「まさか……少年院でのこと言ってるのか?」
「それ以外にいつ手繋いだのよ」

 眉間に更に皺を寄せて、地味な嫌味を飛ばされれば口を噤むしかない。
 確かにあの時、俺はこいつに「走れるか?」と聞いておいて肯定が返ってきたのにも関わらずつい出口まで引き摺ってしまった。正直に言ってしまえば、それは名字を頼りないと思ったからの行動だった。呪術師になってからまだ日が浅かったあの時は、振り返ればあいつの姿が見えなくなるような危うさがあって、異常事態が重なった状況でまたバラバラになるのだけは避けたかったのだ。
 
「悪かった。でも、決してお前のことを軽んじてた訳じゃない」
「分かってる。別に責めてるんじゃないの。私の置かれている立場を改めて理解できたし、だからこそ、名無しなら一人でも平気って一日でも早く思ってもらえるようにならなきゃいけない」

 逸らすことのできない視線から固い覚悟や決意が伝わってくるようだった。ふと、強く握られていた両手から力が抜けたのが見えて視線を名字の手元に落とす。
 少年院で名字の手に触れた時、その滑らかさに物騒な武器なんて握ったこともないんだろうなと思ったのを覚えている。今までただの女子高生だったんだから当然なのだが、自分のとは似ても似つかない真っ新で小さな手に、俺は少し驚いたのだ。
 けれど、今の名字の手は毎日の訓練で皮が厚くなったように見えるし所々マメだってできてしまっている。絆創膏だらけのその両手は、別人のものに見えた。

「どうしたの?」

 無意識に片手に触れていて、名字が不思議そうに俺を見た。傷だらけの掌を親指でなぞってみる。やっぱり、俺のそれとは随分違っていた。

 「くすぐったいよ」と向けられた笑みを直視することができなかった。
 些細な行動だった。でもその判断が、間違いなく彼女を焚き付けた。例えるなら、真っ白いキャンパスにドス黒い絵の具を一滴零してしまったかのような――――― 。そう、胸中を埋めるこの感情は罪悪感に近かった。

「…頼むから、無理はすんな。心配なんだよ」
「…うん」
「釘崎も気にかけてた。後で連絡してやれ」

 それじゃ、とだけ告げて逃げるように部屋を後にする。バタンと扉を閉めて、ずるずるともたれ掛かかると肺に溜まった苦い空気を吐き出した。
 心臓が重い。頭痛もする。どうしてこんなに気に病んでしまうのか分からない。自分自身のことでこんなに翻弄されるのは初めてのことだった。

「何やってんだ、俺…」

 ぽつりと零れた呟きが静かに溶けて消えていった。




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