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 虎杖悠仁は死んだ。どれだけ噛み砕いて自分自身に言い聞かせようと、受け入れ難い事実は一向に私の中に落ちてこない。ひどくぼうっとする頭の中では、最期に見た困ったような笑顔だけがぐるぐるといつまでも巡っている。
 落ち着かない。気分が悪い。眠れない。初めての任務から帰ってきて凄く疲れている筈なのに、目は冴えに冴えていた。住み始めたばかりの簡素な部屋に、時計の針が進む音がやけに大きく聞こえる。ちらりと目を向ければ、丁度二十三時半を超えた頃だった。

 このままでは眠れそうにない。夜更かしは苦手だし、冷たい夜風にでも当たれば胸に溜まったこの苦い空気も吐き出せるだろうか。
 部屋を出て一階に降りる。寮を出てすぐ目の前にある境内に続く石段に座ってみて、あんまり部屋と変わんないなぁなんて頭の片隅で思った。あれだけ降っていた雨はいつの間にやら止んでいた。
 ふと、あることを思い付いてジーパンのポケットからスマホを取り出す。電源を押せば暗がりの中で眩い光源が私の顔を下から照らした。側から見ればひどいホラーだろう。トークアプリを開いて履歴を遡れば、目当ての人は先頭の野薔薇に続いて二番目に表示されていた。ちなみに三番目は五条先生。伏黒君の名は、まだない。
 目当ての人。虎杖君のトーク履歴を開いてタッタッと文字を打ち込んでいく。

今どこにいる?

 送信を押して、じっと待つ。既読はつかない。次に通話ボタンを押して、じっと待つ。暫く無機質なコール音に耳を傾けていたが、自動的に切れてしまった。
 返事なんてある筈がなかった。分かっている。理解している。けれど、どれだけ死というものを論理的に理解していても、結局のところ、私はちっとも現実的に捉えていなかったのだ。

「私、何してるんだろう」

 喉に石でも詰め込まれたかのように苦しい。咽頭に何かがつっかえて上手く呼吸ができない。苦しい。苦しい。けれどそれよりもずっと、悲しかった。
 鼻先がツンとして、やばいと思った頃には堰を切ったように涙が零れて太腿を濡らした。誰が見ている訳でもないのに、勝手に歪んでいく口元が嫌で爪先を見る。今度は鼻水すら垂れ下がってきそうで慌てて拭こうとすると、突如目の前にミルクティーと印字されたペットボトルがぬっと生えた。
 ぱちりと瞬きをして、顔を上げる。そこにはダル着を着た伏黒君が、見事に口をへの字に曲げながら立っていた。
 コンビニにでも行っていたのだろうか。片手のレジ袋を眺めていると、早く受け取れと言わんばかりにペットボトルを揺らされたので、慌ててそれを受け取る。

「あ、ありがとう」
「…別に。たまたま見えたから」

 それだけで、わざわざ買ってきてくれたのだろうか。いつもは無愛想な癖にこんな時だけ優しさが狭間見えて、それが余計に私の涙腺を刺激してくる。
 また勝手に涙がボタボタ溢れてきたのを見て、伏黒君がギョッと目を瞠った。気を遣わせたくなくて必死に袖で拭ってみるけど、余計に汚くなるだけで全然意味がない。

「擦ったら腫れるからやめろ。何にも見てないから」

 私の腕を顔からやんわりと解いて、伏黒君はそのまま隣に座った。てっきり部屋に戻るのかと思っていたから、彼の行動は少し意外だった。
 自分のことに精一杯で会話の糸口が見つからない。鼻を情けなく啜っていると、隣の伏黒君が前を向いたまま話しかけてきた。

「呪術師になったこと後悔してるか」
「…」
「前の生活に戻りたいって、思うか」

 呪いだとか術式だとかいう複雑なものも、ここで出会った呪術師も全部なかったことにして、普通の、当たり前の生活に戻る。
 すぐに返答することはできなかった。未練がないと言ったら嘘になる。けれど、自分の選択に後悔もしていない。

「お前は俺とは違う。此処じゃなくても居場所はあるし、学校だって今ならまだ戻れる。誰かがいなくなる度に泣いてたら、自分自身が保たないだろ」
「…仲間が死ぬのは、初めてじゃないの」
「初めてじゃない。何人か、死んでる」

 こんな簡単に、呆気なく、人が死ぬとは思わなかったなんて言ったら彼は怒るだろうか。それとも指を指して馬鹿だと笑うだろうか。それとも、心の底から呆れ返るだろうか。
 虎杖悠仁という人間は付き合った時間こそ短かったけれど、記憶には色濃く足跡を残していった。自分でも馬鹿げていると思う。血生臭い業界だと分かっていても、実際に身近な誰かがいなくなってしまうなんて本気で思っていなかったのだ。
 そもそも、自分の為に呪術師になるという考えが甘かった。聞こえはいいが、私のせいで誰かが傷付いて、怨みを向けられるのが怖かっただけだ。でもそんなの、呪術師だって同じだった。

「身の丈に合わない正義感を振り翳すつもりは毛頭ない。けど、悲しむことが当たり前になるなら、後悔しないように誰かを守って泣きたいって思った。もう、見て見ぬ振りなんてしたくないから」

 自分が殺されない為にじゃない。虎杖君のような人間が、誰かの大切な人がいなくならないように呪術師として戦う。きっと、私の力はその為にある。

「それに、あれだけ呪いの王に啖呵切っておいて、今更尻尾巻いて逃げるはダサすぎるでしょ?」
「ああ。間違いないな」

 クックッと伏黒君が思い出したように喉の奥で笑う。
 今だからこそ私も呑気にしているが、相当な自殺行為だったことだろう。どれだけ時間が経ってもあの恐ろしい面貌は鮮明に目蓋の裏に浮かび上がる。できれば、もう二度と会いたくないのが本音だ。

「私、頑張って強くなるよ。そしたら怖いものなんてなくなるでしょう」
「できればあんな無謀なことはもう二度としないでほしいがな。心臓が止まるかと思った」

 不意に前だけ見ていた伏黒君が顔を覗き込んできて、突然の近さに硬直する。暗いせいか細められた両目は私の唇に向けられていて、いつもの真顔で「家入先生に傷治してもらったのか?」なんて呟く。
 心配故の確認だと分かっているのに妙に上擦った返事をしてしまい、内心気恥ずかしく思っていると、そこで漸く伏黒君も気付いたのかカッと迸る覇気を見せるなり慌てて元の位置に戻っていった。凄い顔だったな今の。

「悪い…。治ったなら、良かった」
「えと、うん…。綺麗に治ったから吃驚しちゃった。反転術式って凄いんだね」
「まぁ、あんまり使える術師はいないしな」

 そこで不自然に会話が途切れた。何だこれ。急に気まずい。手持ち無沙汰に手元のペットボトルを意味もなく弄っていると、突然立ち上がった伏黒君が「俺はそろそろ部屋に戻る」と足早に寮に戻って行く。
 慌てて私も立ち上がって去り際の背中に声を投げ掛けた。

「伏黒君、ありがとう。おやすみなさい」

 ぴたりと歩みが止まって、首だけで此方を見る。

「…おやすみ」

 ぎこちなく答えたその表情はいつもの真顔ではなくて、ほんの少しだけ緩やかなものに見えた。そしてすぐにまた背を向けると、今度こそさっさと自室へ戻って行った。
 私もそろそろ戻ろう。涙はもうすっかり乾いていて、皮膚が少しつって痛かった。二階の自室に戻り、顔を洗おうと洗面所に向かう。そして鏡に映った自分の顔を見て私は絶句した。

「(めっちゃブス!)」

 まさか今の今までこの顔で伏黒君と会話していたと言うのか。あの時見ないって言ってくれたけど、最後の方はもうバリバリ面と向かってた気がする。
 何だかちょっと落ち込んでしまう。別に不細工なところを見られてどうってことはないけど、この様子じゃ明日も腫れてるかもしれない。…もう寝てしまおう。明日のことは明日考えればいい。

 私は貰ったミルクティーを一口飲んで落ち着くと、その甘さに微睡みながら目蓋を閉じた。




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