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―――― なんて。大人しく従う程私は淑女ではないのだ。
伏黒君と別行動をしてから凡そ十分弱経った。少年院を構成していた生得領域はとっくの前に閉じ、それは特級の死を意味する。それなのに二人は戻って来るどころか、嫌な予感を促すように遠くで轟音が響き渡っていた。 明らかに異常な気配が訴える異常事態。今までにはいなかった何か不吉な、悪の塊のようなものがいるのを私は確かに感じていた。
野薔薇は気絶している。伊地知さんは落ち着かない様子で運転席に座り込んでいる。内心で彼に謝罪をしながら、私は一気に車のドアを開け放って外に飛び出した。
「すみません!すぐに戻って来ますから!」 「え!?ちょッ」
悲鳴にすら似た制止を聞きながらも、振り返ることなく気配の方へ全力で走る。
その気配は少年院の外側からしていた。建物を囲むように生えた木々を抜けて、住宅街の方へ向かう。今度は近くで轟音が響き渡った。
「あれは、」
曇天の空を見上げると、人間が、遥か上空で地に立つかのように浮いていた。いや、人間に瓜二つな形状をした呪いといった方が正しいだろう。 遠目からでも感じられる悪意の塊。呪いは、難なく滞空しながら全身を振りかぶり、黒い何かを地上に叩き落とした。隕石のように大気を切り裂きながら団地に突っ込んでいった物体。あれは、まさか―――― 。 あれが人間だなんて、伏黒君だなんて到底信じられない。だって、あんな所から叩き付けられたら生きる死ぬのレベルではないのだ。原型を留めているかすら怪しい。
徐々に募っていく焦燥に弾かれたように団地に向かう。住宅が敷き詰められている中、一貫して破壊された建物と噎せる程の砂埃が目印となって、伏黒君の居場所はすぐに分かった。 呆気なく破壊された瓦礫が鈍い音を立ててコンクリートの上に落ちる。瓦礫の山に囲まれて蹲っていた伏黒君は、私が想像していた最悪の状態とは反してしっかりと五体満足だ。もしかしたら、瀕死の状態で傍に横たわる彼の式神が身を呈して守ってくれたのかもしれない。
「お、まえ…何で来たんだ。早く逃げろ」
もう叫ぶ気力すらないのか、私の姿に気付いた伏黒君が掠れた声で言った。案の定、探しに来たことを咎めるように眉間に皺が刻まれていく。 思わず口を開きかけると、刹那―――― 低くて重い、圧迫感のある音色が耳のすぐ近くで響いた。
「―――― なんだオマエは。退け」
内臓が凍るかと思った。
急速に背筋を駆け抜ける悪寒。それが一言喋っただけで、冷や汗が勝手に噴き出て、重圧に押し潰されそうになる。未知の存在との邂逅に、全身の細胞が警報をあげている。 耳元で荒い息遣いがするけど、それは他のだれのものでもなく私自身の呼吸だ。見下ろした先の伏黒君が目を見開いて、こめかみをつぅと汗が伝ったのがやけにゆっくりに見える。
「同じことを二度言わせるな。不愉快だ、女」 「どッ…!?」
返事をしようと首を捻った先で、私はまたしても驚愕に凍ることしかできなかった。
その人が、呪いが、虎杖悠仁の姿形をしていたからだ。
全く同じだ。顔も、身長も、体格も。それなのに虎杖君ではなかった。いつも浮べている人懐こい笑顔は見る影もなく、剥き出しになった上半身から顔まで漆黒の刺青が連なっている。爪だって黒く尖って、目の前の全てが人間とはかけ離れていた。 途方もない悪意の塊。正しく、呪いと形容するに相応しい風格。半信半疑に過ぎなかった”両面宿儺”そのものが今、私の目の前に立っていた。
「ど…かない」
震える唇で辛うじて言葉を紡いで、地面に縫い付けられたかのように動かない両足を叱咤して宿儺と対峙する。ぴくりと引き攣った片目に、庇うように背にやった伏黒君が息を呑む気配がした。
風圧が顔面を撫でて、それからは一瞬の出来事だった。
「ほぉ?」 「ハッ…ハ、」
宿儺の腕が食い込んだ結界から亀裂が広がっていく。小雨のせいかそれとも宿儺の力量のせいか、恐らくどちらもだろう。紫電が激しく火花を散らしながら弾けて焦げ付く匂いが鼻先を掠めていく。 あと一瞬でも結界を展開するのが遅れていたら。そう思うと全身から嫌な汗が止まらない。どれだけ口を閉じようとしても、呼吸が意に反して荒くなっていく。渦巻く結界の向こう側で、宿儺の口角が不気味に釣り上がった。
「貫通せぬか。面白い。その結界を見るのも随分久方ぶりだな」
まるでずっと昔から知っている人に語り掛けるように、宿儺は私に話し掛ける。「ケヒッ」と耳障りな嘲笑は全く以って虎杖君に似ていない。
「女。名は何だ」 「…?名字、名無し」 「そうか女。俺は今機嫌が良い、愉快なものを見せてくれた代わりにもう一度だけ猶予をやろう。今すぐそこを退け」 「退かないッ!」
全身の恐怖を吹き飛ばすように勢いで叫んだ。破壊された結界に瞬時に呪力を流し修復、より強固なものに変化させていく。 大丈夫。まだ私の両足は地に付いている。野薔薇を、虎杖君を、もう呪力すら残っていない伏黒君を、人一人守れなくて何が結界だ。呪い一人止められなくて何が結界だ。笑わせないで欲しい。
「ここは退かないし、二人にはこれ以上手出しさせない。私が絶対に触れさせない!」 「…ケヒッヒヒヒ、」
静まり返った空間に突如、ゲラゲラと大口を開けた宿儺の嗤い声が響き渡った。ぽっかりと空いた心臓の穴から血を垂れ流し身体を揺らして、傲然と私を見下ろしている。 今度こそ結界は破壊されるかもしれないし、運が良ければ防げるかもしれない。それでも、怯んじゃいけない。今にも崩れ落ちそうな膝を必死に繋いで、震えないように唇を強く噛みしめる。握り締めた両手からは鈍痛が広がった。 「その後ろのと違って、この小僧にはそこまで命を賭ける価値はないだろう」 「…貴方がわざわざ判断してくれなくても、それを決めるのは私です」 「生意気だな」
一歩近付かれて、今にも爪先が触れそうな距離で止まる。私達の間に挟まった結界などとうに興味が失せたのか、どうでもよさそうに一瞥する。 不意に、宿儺の大きな手が私の顎を掴み上げた。
「なッ…」 「つまらんな。もっと展開を早くしろ。お前が尻込みしている間にこの口を粉々にしてやってもいいのだぞ」
強烈な腕力で掴まれた骨がみしりと不快な音を立てる。私など一瞬にして殺せるのだと、その片手が暗に物語っていた。 この人は、ただ楽しんでいるだけだ。いつでも踏み殺せる蟻の行方を敢えて楽しむかのように、私たちを掌で転がしている。尚のこと意地でも降伏したくなくて、私は無意味だと分かっているのに目の前の面貌を睨め付けた。やっぱり、見れば見る程その表情は虎杖君とは別人だ。 詰め寄った宿儺の顔から決して目を逸らさない。心臓が煩くて、今にも口から飛び出てきそうだ。
「せっかくだ。最後まで俺を愉しませろ」
耳元で深く、低い声色が響いてずしりと私の中まで落ちていく。暗闇に落とされたような、瞬きすら忘れたような感覚。次に息をした瞬間にはそんな雑念すら一瞬で振り払う程の鋭利な痛みが下唇から私を貫いて、生暖かいものが口内に広がった。
「名字ッ」
背後からの伏黒君の声で我に返る。噛まれたのだと分かったのは、宿儺が私から離れた数秒後のことだった。
唇からポタポタと絶え間なく地面に滴る紅に自分でも驚いてしまった。人間の血というのはこんなにも紅かったか。 気分すら悪くなってくる痛みに意識がクリアになるのを感じながら、やはり不気味に嗤う目の前の人物をこれでもかと睨め付けてやろうと顔を上げた時、私は言葉を失った。
「…」
静まり返った空間に雨がしとどと降り続けている。等々笑い出してしまった膝はどうすることもできず、そのまま尻餅をついて目の前の誰かを見上げた。
「―――― 俺は、オマエを助けた理由に論理的な思考を持ち合わせていない」
伏黒君が、ボロボロの身体を引き摺って私の隣に立つ。もう立ち上がる元気すらなくて、私はただ無心で彼の言葉に耳を傾けた。
「それなりに迷いはしたが、結局は我儘な感情論。俺はヒーロじゃない、呪術師なんだ。だからオマエを助けたことを一度だって後悔したことはない」
「……そっか」
心の弱いところに爪を立てるようなものじゃなくて、聞き慣れた優しい音色。くしゃりとはにかんだ笑顔は凄く懐かしいものの気がして、私は小さく息を吐き出す。 視界に広がる彼の足元に、何かを言葉にする度止め処なく血が流れ落ちて水溜りを作っていく。そう言えば、二人は最後に喧嘩したんだったか。
「お前の真実は正しいと思う。でも俺が間違っているとも思わん……。あー悪い、そろそろだわ。名字、ありがとな止めてくれて。それと、口の傷ごめん。
伏黒も釘崎も、五条先生は…心配いらねぇか。―――― 長生きしろよ」
大きな身体が正面から力無く地に伏す。飛び散った血液が指先を汚したけど、私はそれを他人事のように見つめていて拭うことはしなかった。
雨は、まだまだ止む気配はない。
I think that she is crazy.
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