全てはもう、過ぎ去った過去なのだ、と言い聞かせる事さえ、私は止めてしまったのです。 | ナノ




「強いの、ソイツ?」

ソファーに寝そべる上司は眠たげに言った。


「まだ、14、5の女の夜兎なんでねェ、団長よりは強かねェと思いますよ」

「へぇ、‥……ソイツ、何て名前?」
「名前、?あー‥…、その餓鬼については殆ど情報がないもんで」

名前も写真も、今日の取引先は何一つ教えるつもりはないらしい。

「どうせ今から会うんだから、そん時にでも聞いて下さいよ、団長」








*****


「神楽、着替えろ」

ノックもせず人の部屋に入って来た男は、紅い着物を手にして言った。


「‥…何でアルか?」

恒例の昼ドラを見ていた私にとってこの男の侵入は全くもって、心地好くない。しかも今はストーリーの佳境である。ようやくヒロインと相手の男が結ばれようとしているのに、だ。


「客が来る。出迎えの用意だ」

そう言い終わると無機質にドアは閉まった。


「この格好でも別に良いのに、‥…ナ?」

Tシャツに短パン、何ともラフな自分の姿に目をやれば、さすがにコレはマズいかも、と心配になってくる。

「はぁあ、」

仕方ない、着替えよう。









「晋助、」

船の甲板で見付けた見慣れた後ろ姿から、ゆらゆらと揺れる紫煙が空に昇って行く。

「着替えたアルよ」


声を掛ければ、男はゆったりと振り返った。右手に持ったキセルを口から離し、煙を吐く。そしてその薄い唇は心底愉快そうに、狂気に満ちた笑みを讃えるのだった。


「見ろ、神楽。客のお出ましだ」

明るい空に浮かぶ、黒々とした鉄の塊が前方から向かって来る。巨大で無慈悲な、異様な景色。どこと無く、不吉な予感をさせるソレはあと200mもすればこちらの船と衝突してしまいそうだ。


「また子や万斎は?」
「別の仕事だ」

唇を噛む。紅のせいか、変な味がした。


「会いたくない、ネ」
「ヘぇ、」

「何か、嫌アル」
「野性の勘、かァ?」

くつくつと笑いながら男は目の前に立った。大きな左手が後頭部を掴み、下ろしたままの髪に埋もれる。着物の時だけは、いつもの髪飾りを外していた。


「ん、」

そっ、と唇が重なる。
奇妙に優しい口付けは、たわいも無いお遊びのようで、そのくせ猛毒のような色香を含んでいた。

「ふ、…‥はぁっ‥」


「先方が、テメェに会いたいそうだ」
「意味、わかんないネ」

会いたいなどと言われる覚えなどない。

「さァ、‥…?同胞、だからじゃねェか?」
「は、」

「向こうも夜兎だ」


夜兎、

一瞬、兄の顔が浮かんで消えた。8年も前の事など、今さらだ。もう昔過ぎて忘れてしまっている。


舌打ちをした。

「面倒アルな…‥」







黒い鉄の戦艦は僅かに高度を上げ、こちらの船の頭上を陣取るように進んでいた。おかげで今は完全な日陰である。

今日の空は雲一つない、澄んだ蒼色をしていたけれど日差しは穏やかで、私たち夜兎には幾分優しい日だった。
風は暖かく日陰であるため、傘をさす必要もない。こんな面倒な仕事は今すぐ放り出して、布団の上でぐっすり昼寝したい気分だ。


「ん、?」

巨大な戦艦から何かが落ちた。白い、何か。


「っ!?」

咄嗟に、重たい打撃を傘で受ける。

手が痺れた。
受け切れない。
床を蹴り宙を跳び、衝撃を受け流す。

包帯に巻かれた腕が追って来る。男の腕だ。

逃げろ、逃げろ、
危険だ!


傘を構えて、撃つ。
鉛の弾が空中を切る。

男は避けた。
避けて尚、捕まえようと向かって来る。
冷や汗が出た。
着物が動きを制限し、酷く走り難い。


下がって、下がって、
近付くな!


手首に痛みが走った。
ミイラのような包帯だらけの手がそこにはある。

鈍痛が背中を駆ける。
続いて頭に。
床に押し付けられた。

痛い、

「離、せェェェエ゙!!!」

嫌だ、痛い、

「オイ、」

輝く切っ先が包帯で隠れた男の首筋に沿い、次の瞬間、振り上げられた。
鈍く、しかし強い光を発する刀は男に触れる事なく、空気のみを切断する。


「団長っ!何してんだ、アンタ!!」

金髪の男が続いて頭上からやって来るや否や、包帯の男の前に立ちはだかる。黒いマントに大きな番傘、直ぐに夜兎だと分かった。

古びた血の臭いが微かに鼻孔を掠る。
不愉快だ、胸糞悪い。


「神楽、部屋へ戻れ」

隙無く刀を構え、晋助は言った。隻眼が鋭く、殺気を含んで光る。

「平気ネ、‥…それより援護するアル」

着物を着崩し、動きやすいようにしたら右手の番傘の銃口を相手の頭に狙いを付ける。


「オイオイ、待ってくれや。‥…こっちは闘う気なんざ、これっぽっちもねェんだよ」

金髪の男は両手を上げ困ったように口を開いた。


「そっちの野郎はそうでもねェみてェだが…?」

じろり、晋助が睨む。包帯の男は首を傾げた。


「神楽、」

心臓がどくん、大きく鳴り、肺が固まってしまったみたいに、私の呼吸は止まった。

「此処にいたんだ、」

男はゆっくりと己を纏う包帯を取り除く。


「ぇ、‥」

朱色っぽい長い髪は見覚えがある。包帯の下から現れた白い肌も顔容も、その声も。全部、全部、記憶の中のあの人と同じだった。


「にぃ、ちゃ…‥、?」

嗚呼、
なんで、今さら





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