swallow | ナノ



緩やかに、日常は繰り返される。水面下の変化には誰も、本人さえも、気付かぬままに。




















「神楽、これ。」

この人の声は心地好い、テノールの音だった。


「、?」

居間のソファーに座っていた私はとりあえず呼ばれた方へと向き直す。
小さな箱を手に、彼は微笑んだ。柔らかく、美しく。最近、この笑みは自分だけに向けられているような気がして、不思議にも私は恥ずかしくなった。何気ない動作の中に優しさが滲む、それが他の人とは違う特別な気がして、私には少しだけこそばゆかった。

「ほら、あったよ、昔の写真。」


和菓子の箱のようなものの中に、古びた写真があった。そこから兄は一枚を取り出し、私は受け取る。

「この人が、母さん。」

桃色の長い髪に赤いチャイナドレスが印象的なその人は儚くも美しく、幸せそうに微笑んでいた。

「きれい、…‥」

青の瞳は兄よりも明るい、群青色だ。鏡を見ればいつでも写る、私の色。
あぁ、こんなにも綺麗な人と同じだなんて。
(私には、もったいないアルな。)

「本当、神楽は母さんと似てきたね。」

ゆるり、と床に座る兄が覗き込んだ。頬が熱さで染まる。母や私よりも暗い、インディゴのような瞳が眼前を支配し、鼻先が触れ合いそうな程、互いの距離は近い。


「睫毛、」

「…‥あ、‥ぇっ?」

「頬っぺについてる。」


まつげ?頬っぺ?

恥ずかしさに顔が熱い。頭の中が真っ白になり、意味もなく辺りを見回してしまう私に、くすり、薄い兄の唇が微かに微笑む。

「目、閉じて……‥とってあげる。」


あぁあ、

穴があったら入りたいとは、正にこの事である。耳までが熱く、緊張で躯はガチガチだ。
瞼を落としたせいか、暗闇の中、自分の鼓動が大きくに聴こえる。


どくん、どくん、

そんなに動いたら、寿命が縮んでしまいそう。

どくん、どくん、

お願いだから、この人には聴こえませんように。



「はい、とれた」

そっと、震える瞼を上げて恐る恐る兄の顔を覗き見てみれば、そこには先程と変わりのない端正な笑みがあった。

(なんだ、…‥)

心なしか、胸が苦しい。切なくて、淋しくて、少しだけショックだった。

(まるで、期待してたみたいアル。)

思い付いた感想に、疑問が浮かぶ。何を、期待するのだろうか。


「あ、そうそう。
お風呂、先入るから。」





















*****



熱めのお湯がシャワーから飛び出す。目を閉じて、息を吐く。濡れそぼる髪が頬に寄り添った。


たぶん、人生で最大の溜め息をした。この空間の酸素と二酸化炭素の割合が逆転してしまいそうなほど。
そして、舌打ち。小さな室内にはよく響いた。



睫毛をとるからと、そこまでは良かった。問題はない、普段通りだ。
けれど、その後がいけなかった。

伏せられた睫毛、色付く唇、淡く染まる頬。無防備に艶めかしいその姿は、いつもの情事を思い出させる。

「躯は正直、か…‥」

血流が勢いづき何となくその気になってしまう。あのまま一緒にいたら、押し倒していたかもしれない。そしたら、神楽は嫌がるだろうか。
ふと、思い描いたのは泣き叫びながらも喘ぐ、彼女の裸体だった。

……‥ 強姦、?


ヤりたくなってきた。
そんな状況でない事ぐらい理解していても触れたい、と思う。兄妹として以上に、近くなりたい。


それはもう、叶わない願いかも、しれないけど。







チャイナが記憶を失ってから、一週間が過ぎた。記憶がないからといってもチャイナはチャイナであって、馬鹿力な所も大食いの所も、体育になると張り切る所も、やっぱりそれは、見知った彼女の姿だった。
もともと開放的なクラスであったし、チャイナ自身も隔たりのない性格だからか、彼女がクラスに馴染むのに時間は掛からなかった。


良かった、と思う。

安易で単純な感想だけれど、でも何故か、それが妙に自分を安心させた。



「総悟っ!つぎ、体育アルよ!!」

退屈な授業が終わった途端、満面の笑みのままチャイナは言った。それはもう、輝かんばかりの笑顔で。

(何だか、ねィ…‥‥)

こんな彼女と向き合う度、自分は正直、戸惑ってしまうのだ。


心臓が、むず痒い。

女に免疫がない訳ではなく、どちらかと言うと自分は随分、慣れている方だと思う。それにチャイナの事だって、女として見てきたつもりはないのだ。何を今さら、意識するなど馬鹿らしい。

「そーご、?」

「っ、…‥あぁ、今日は松平のとっつぁん、休みらしいでさァ。」

体育の教師である松平のとっつぁんは愛娘の彼氏を抹殺するため、有給休暇を貰ったと聞く。

「"迷惑かけねぇ程度に遊んで良いぞ〜"、だそうでィ。」

「マジでか!?」
「マジで。」

「きゃっほーい!!」


喜ぶチャイナを見詰めながら、ふと思う。
だからこそ、こうやって彼女は笑っているのだ。俺がチャイナを、女として見ていないから。だから、距離をとらずに安心していられるのだろう。


「サッカーやるアル!」

コイツは俺に、男を見ているわけじゃない。

「叩き潰してやらァ、くそチャイナ」

対等なライバル、それで良い。それでなら、誰も傷付きやしないのだ。


「望むところネ、」

にんまりと、彼女は笑った。




















*****


蒼色の晴天が頭上に広がる。ふわふわとした巨大な雲は流される大船のように、ゆるやかに遠退いていった。

良い天気、だ。

日光は暖かく、けれども春風はまだまだ冬の名残を捨て切れないらしい。
煙草をくわる。別段、美味いとは思わなかった。単なる気休めだが、そこそこ、効果はあるのだ。

肺から吐き出る紫煙が、風に押されながらも上へ上へと昇って行く。

(何でそんな、高いところがいいのかねぇ…‥)


煙も、自分も。

校舎で一番高いこの場所で、する事もなく、ただぼんやりと煙草を吸う。

(…‥げっ、漢字テスト忘れてた!)

午後の授業で使うはずのプリントは昨夜、睡魔に負け白紙のままパソコンの何処かで眠っているのを思い出す。


「はぁぁあ、誰か作ってくんねぇかなー」

「何を、アルか?」

「うをぉっ!?、いっ〜゙、〜゙っ!!」

突如聴こえたソプラノに驚いてくわえていた煙草を落としてしまった。手の甲は赤くヒリヒリとした痛みがして、急いで息を吹き掛ける。

「せんせー、手」

端正な無表情のまま小さな口からは澄んだ音が流れた。手、?戸惑っていると、ひんやりとした冷たさを感じ、視線を落とす。

「こうすれば、少しはマシでショ?」

見慣れた肌色の上に生クリームのような白さが見えた。何となく甘そうな気がするこの手は、小さくて傷がない。そして冷え症なんじゃと思う程、少女の肌は冷たかった。


「あー、もう平気平気。ありがとな、神楽。」

にっこりと笑う少女に、脱力したような笑みを返す。"せんせー"、か。意外と慣れないものだ。


「サボりアルか?」

「そりゃ、オメーだろ。
学生はだるい授業に苦しみなさ〜い。」

「先生、歪んでるアルな
天パー並にクネクネしてるヨ。」

「てめっ、天パーを馬鹿にすると天パーで泣くんだぞ!!」

意味が分からない、とでも言いたげに眉が寄る。あれ何だろ、泣きたくなってきた。


「良い天気、アルな。」

隣に腰掛け、空を見上げる瞳には綿菓子みたいな雲が映っている。暖かな日光が、彼女の髪を薄く透明に見せていた。
きらきらと光を纏う。
髪も肌も、透き通るほど眩しい。うっすらと額を纏う汗までもが輝いていた。


「おまっ、傘は!?」

慌てて太陽を背後に隠し日光を遮断する。
青白い肌が冷や汗を浮かべていた。


ふぅ、

億劫そうに、少女は息をつく。そしてゆるりと、怠慢な動作で空を睨み、弱々しい笑みを浮かべながらも、口を開いた。


「太陽の、ばかやろー」













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