あの海へ | ナノ

神威の独白。
R-16
※神楽の死ネタ注意









とうとう猛暑もなく過ぎ去った夏から、肌寒さを感じさせる秋へと移行する、そんな季節の変わり目。その日会った女の家に寄食し、そして数日もしないうちにまた別の女のところへ転がり込む。そんな日々をかれこれ2年近く過ごしていた俺は、先週から続く長雨のせいで湿っぽくなった女の布団がどうにも気持ち悪くて、早々に行く宛もないまま夜の街に飛び出した。
雨に濡れた地面は点滅する蛍光色のライトの光を映して、せわしなく視界を彩る。傘を差しているせいで大勢の人間が詰め込まれた繁華街には隙間がなく、余計に密集しているように見えた。

だるい。

そんな想いが一瞬でも脳裏に浮かぶと、どうにも興味がもてなくなる。そして、何の未練もなくその場を去るのがここ何年のお決まりのパターンだ。この行動を、度々鬼太郎の如く片目を隠した悪友は「協調性」という言葉を駆使して咎めるが、俺もソイツも、「協調性」が大事だなんて微塵も思っていない。ではなぜ、そんな言葉を使うのか。たぶん、アイツは俺に最低限の社会性を残したいのだ。
年を重ねるに従って自堕落で刹那的な生活を送る俺を、アイツは責めるでもなく、かといって放っておくでもなく。最低限をキープ出来るよう、何度も何度も口酸っぱく「協調性」を口にする。そうすることで、アイツは俺を、社会に、そしてこの世に、繋ぎ止めようとしている。
悪友は、本来ならそんなお節介をするような奴ではない。だけどそれが、アイツなりの情なのだろう。だから何度も口にする。「生きろ」と、言えない代わりに。




話題を変えよう。
俺には、ひとりの妹がいた。歳の離れた、5つ下の弱っちい奴。昔はそこそこ、仲が良かった。いや、たぶん。大抵の兄妹よりもずっと仲が良かった、と思う。たどたどしい足取りで俺の後を歩く妹は、なんの疑いもなく兄である俺を信頼し、身を任せ切っていた。母は早逝し、父は仕事で家にいない。状況的に、俺がいないと生きていけなかった妹は、俺に従順で、俺に精一杯の愛を捧げた。まるで刷り込みだ。本能的で、本人もきっと理解せずに捧げていたその愛は、ひどく独り善がりで、ひどく盲目的で、そして俺を満たし続けた。他の誰でもない、唯一の存在だと訴えるように向けられたあの愛は、幼い俺にこの上ない喜びをもたらしたのだ。
だから、俺があの子を愛したのは、当然のことだった。ただ、愛の種類が違っただけ。相手を求め、相手を大切にする。それは同じだった。けれども、決定的に違うものがあった。
相手のなかに入りたい。そんな性欲という衝動を伴うか否かの差異が、俺と神楽にはあった。俺は神楽を、ひとりの女として意識していた。
それが顕著になったのは、神楽が10歳を越えてからだ。女として身体の変化がみられ始め、徐々に膨らみつつある乳房や、恥じらうように下げる視線。当たり前のように触れていた肌からは体温以上の熱を感じるようになり、俺は自身のコントロールが困難になるまで、追い詰められるようになった。
想像できるだろうか。初めて、実の妹の痴態を思い浮かべながら、自身を宥めたときのあの絶望を。達した絶頂に、嘗てないほどの興奮を覚え、そしてその先を、実際の情事を望む自身の浅ましさに嫌悪しながら、諦めきれない自分は、どうしようもないクズだった。
俺を満たしてくれる神楽の愛は、同時に俺を地獄に落とす。そんな終わりの見えない日々から逃げ出すように、俺は徐々に神楽の待つ家へと帰らなくなった。抑えの効かない感情を誤魔化すように不良同士の争いに参加しては暴れ、いつしかその地区一帯の不良たちを従わせるようにもなった。
そうして俺は、あの家へ帰る必要性を潰していった。生活に必要なものは、周りの不良たちや名前も知らない女たちが全て用意してくれる。不自由なことは、何一つなかった。
悪友の高杉に出会ったのもこの頃だ。隣町に無茶苦茶強い奴がいると聞いて、暇潰しに会いに行ったのがきっかけだった。最初はとにかく気怠そうな奴に見えて、暇潰しにもならないかもしれないと不満に思ったのを覚えている。でも、まさかのまさか。気怠そうな表情の奥には、獰猛な獣が潜んでいた。
いくら勝負をしても、決着がつかない。だいたいお互いに体力切れか、警察の乱入による強制終了だ。そんなことが両手で足りないぐらいに繰り返した後は、白黒の勝敗は諦めて、一緒に好き勝手暴れ回るようになっていた。別に考えや趣味が合うわけではない。でも、アイツが喧嘩を吹っ掛ける相手は一筋縄ではいかない変な奴らばかりで、楽しかった。その時だけは、神楽を想わずに過ごせた。
最後にあの家に帰ってから1年以上が経った頃。神楽を想って自らを慰さめることもなくなり、自分が生まれて初めて正常になった気がした、高校3年の夏。今季最高の猛暑日のせいで汗だらけになった身体を不快に思い、無性にシャワーを浴びたくなった。そのときいた場所が偶々あの家の近くで、俺は久しぶりに実家に帰ることにした。
学校は夏休みに入っていたから、もしかしたら神楽がいるかもしれない。そんな考えが一瞬浮かび、そして僅かながらも動揺した自分が許せなくて、半ば意地になってあの家に行った。
結論を言えば、神楽は家にいなかった。意気込んで掴んだ玄関の取手は開くことはなく、思わず出た溜め息には落胆と安堵が滲み、腹立たしい。しかたなく鞄から取り出したカギを差し込めば問題なく扉は開く。これでシャワーが浴びられる。無理矢理それだけを考えようとする俺は、未だにカギを捨てられない自分と、神楽がカギを取り換えずにいてくれたことに喜んでいる自分を認めたくなかったのだと思う。
久しぶりの家は、最後に見たときと変わっていない。物の少なさ故か、がらんどうの空間だけがただただ広く見える。だが、この家はこんな味気ないものだっただろうか、と俺は暫し呆然とした。

何かが、おかしい。

そう思うのも当然だ。だって、生活感がまるで見当たらない。たったひとりでも、あの子はこの家に暮らしていたはずだし、親父もたまには帰って来ているはずだ。なのに、使われた食器や洗濯物もない。冷蔵庫には食材、玄関には一足の靴すらない。
さきほどまで流れていた汗とは別の汗が頬を伝った。心音が徐々に大きくなる。
咄嗟にポケットの携帯を掴んだ。神楽は携帯を持っていなかった。だから、冷蔵庫に貼られた紙にある親父の番号に掛ける。
耳に当てた携帯から呼び出し音が繰り返された。
トゥルルルル、トゥルルルル‥
何度も何度も、繰り返される。そして終いに、留守番サービスへと繋がったのを聞いて、俺は苛立ちのまま電話を切った。

「神楽っ」

久しぶりに呼んだ名前に応える者はいない。
動悸が激しい。呼吸が浅くなる。たまらず俺は、神楽の部屋へ走り出した。妹への欲情を抑えるようになってから、決して入ることのなかったその部屋。今はなんの躊躇もなく扉を開け足を入れる。

「な、‥に…‥これ‥」

妹のベッドシーツは清らかな白だ。それが、枕元だけ黒ずんだ赤に染まっていた。この色は、今まで何度も目にしている。体内を流れる、あたたかな血の色だ。

ヴヴヴヴヴ‥

不意に携帯が振動する。常にマナーモードの携帯が、着信を知らせていた。画面には、先ほど掛けた番号が写る。

『神威か?』

電話の相手は、疲労を滲ませた声音で訊いた。

「親父、」
『今どこにいる?』
「神楽は?、神楽はッ、」

自分でも、必死な声だったと思う。訊きたいとこが沢山あった。なのに喉奥で言葉が大渋滞を起こしているみたいで、必要なものが出てこない。

『‥○×病院の908号室に来い。話はそれからだ』

それだけ言い残して切れた電話を片手に、俺は呼吸も忘れて立ち尽くした。
このとき止まった呼吸が、そのまま俺の命を奪ってくれたらよかったのに。そう、今では思っている。


病院は、家からタクシーで1時間ほど掛かる郊外にあった。日本有数である大学の付属病院は巨大で様々な科が設置されている。大病院らしく小奇麗なエレベータで一気に9階まで上がり、目的の部屋に辿り着いた頃には、汗だくになっていた。
病室は、白に統一されている。他に患者のいない、広い個室部屋だった。その中央に大きなベッドが置かれているのが目に入り、慌てて駆け寄ろうとしたら、その傍らに立っていた親父に思いっ切り殴られた。

「今までどこに行っていた」

憤りに震えた、年老いた声だった。
殴られ、床に倒れた俺が見上げた親父は、記憶の中よりも痩せ細り、こけた頬とひどい隈が如実にその憔悴を表していた。

「ぉ、やじ‥」
「馬鹿息子がッ!なぜ早く帰らなかった!!なぜ早くッ、‥…ぅうっ‥、う」

初めて見た親父の涙は、非難と後悔と、自責の念に溢れていた。それが、さっきから頭を占める嫌な予感から逃れる術を奪う。とうとう親父は膝をつき、病室の床に崩れ落ちた。
抑えきれない嗚咽が、検査機が出す音に混じる。それをどこか遠くに感じながら、俺はのろのろと足を引きづりながらベッドの傍に寄った。

「神楽‥?ねぇ、神楽ってば‥…」

瞼を開けない幼い妹は、痩せ細りさらに小さくなっていた。桃色に色付いていた唇は、いまや色を失い乾いている。ピッピッ‥と鳴る機械の画面に映し出される心電図が波打っていなければ生きていると判らないほど、神楽は衰弱していた。
これは、なんの悪夢だろう。頭の中で、そんな声が聞こえた。
神楽は目を覚まさない。このまま一生、動かないんじゃないか。そんな考えに、恐怖する。
なんで。どうして。そればかりが頭の中をグルグル回って、答が見付からない。ただ何度もその名を呼ぶしかできない俺を、もういっそ、殺してください。

どれくらい、時間が経ったのかわからない。力尽き、ベッドの傍らで蹲るしかできない俺を検診に来た医者と看護師が別室に移動させた。ほどなくして、そこにぐしゃぐしゃになった顔のままの親父が現れ、神楽の状態を説明していった。
神楽は、母と同じ病だった。遺伝性で、これまで極僅かな人間にしかみられない血液の難病。日に日に免疫力は低下し、身体が衰え、多少の咳でも吐血する。酸素が十分に回らないから常に酸欠のような状態で、不用意な運動は死を招く。そうして最期は、身体の殆どの機能が停止し、空気に溶けて消えていくように死んでいく。母のように。
余命は、長くて一ヵ月。いつ死んでもおかしくない状況がずっと続いている。親父はそう言葉をきって、両手で顔を覆った。

「気付いたときには、もうどうしようもなかった」

震える声に、再び嗚咽が混ざる。

「何日も学校に来ていないと、担任から連絡があって‥、家に行ったら、」

ベッドでひとり、血を吐いて倒れていたらしい。
いつからそんな状態だったのか、誰も知らない。神楽は誰にも、不調を伝えていなかった。伝える相手が、いなかったからだ。

―――ああ、本当に。
なんて自分は、愚かなんだろう。自らの汚い欲望から逃れるためにあの子をひとりきりにした俺は、あの子の命が失われていくのをただ見ていることしかできない。こんなの、悪夢だ。それ以外になんと言えばいい。

それから数時間後、神楽は目を覚ました。親父は連日の看病で憔悴しきっていて、今は点滴を受けている。知らせを受けて俺が病室に駆け込めば、神楽はぼんやりとしていた両目を見開いて、僅かに肩を揺らした。

「―――ちゃ、‥」

うまく声が出せないのだろう。それでも神楽が俺を呼んだことだけはわかって、俺はこのとき初めて、涙を流した。
もう、呼ばれることはないかもしれないと思っていたその声に。
もう、映ることのないかもしれないと思っていたその瞳に。
呼ばれて、映れて、俺はその幸せに涙を流せずにはいられなかった。

「神楽っ、ごめん。ごめんね、かぐらっ」

横たわる神楽の肩に額を当てて、懺悔するように謝罪を繰り返す。絶えず流れる涙が口に入ってしょっぱい。情ない嗚咽が喉をせっつく。
ごめん、神楽。ごめん、ごめんね。それだけが呪文のように繰り返される。壊れた人形のように。謝っても、許されるわけでもないのに。謝ることしかできない自分が、神楽に置いていかれることを恐れている自分が、ひどく幼く、不甲斐なく、愚かで。でもそれが、真実の姿なのだろう。いくら喧嘩が強くても、いくら高杉と無茶をしても。俺は結局、為す術もなく自分が一番大切なものを失おうとしている。泣いて、謝ることしかできないのだ。

「な、‥なぃで…‥」

力のない手が俺の頭を撫でる。泣かないで。そう言って俺を心配そうに見詰める神楽は、懸命に唇を動かす。

会えてよかった。

そう聞こえたのは、都合のいい幻聴なのかもしれない。
泣き過ぎてぼんやりする頭のまま、神楽を見上げる。そんな俺に、神楽は愛おしそうに目を細めて微笑んだ。あの、純粋な愛を浮かべて。
俺を満たし、俺を苦しめ、そして最後に救ってくれる、彼女の愛。自分だけに向けられると信じて疑わない傲慢な俺さえも、やさしく受け入れてくれる。

ああ、愛している。

お前の望むような兄にはなれなかったけれど。でも、この世のなによりも、お前を愛している。愛しくて、愛しくて、怖い。狂ってしまいそうなぐらい。俺はお前を、一生愛している。そんな想いを込めてした口付けは、涙の味がしていても、一生分の幸福が詰まっているのだと思う。




神楽が息を引取ったのは、それから1週間もしない朝だった。朝陽に照らされた彼女は美しくて、俺はその姿を決して忘れないでいようと誓う。
今でも、瞼を閉じればそのときの姿が思い浮かぶ。俺はそれを幸せな思い出として胸に抱く。もう抱き締めることのできないあの子の代わりに、やさしくそっと、生涯離さないように。

実は、神楽は遺書を残していた。まだ身体が動かせるときに書いておいたのだろう。少し歪な文字で書かれたそれは、俺と親父用に2通あった。
親父への遺書には、自分が死んだ後のことについて書かれていた。自分の私物は全て燃やして、骨と一緒に近くの海に流してほしいこと。親父をおいて、先に逝くことを許してほしいこと。仕事のし過ぎに気を付けること。だいたい、そんな内容だった。
俺への遺書はというと、思っていたより短かった。書かれた言葉は多くない。神楽が俺に望んだことは2つだけだった。

ひとつ、愛した人と幸せになってほしいこと。
ふたつ、だけど自分の誕生日だけは、自分を想ってほしいこと。

そこに書かれた内容の半分しか、俺は実践できていない。俺が愛した人はもう、この世にいないからだ。ひとり残った俺は、日々死に向かって生きている。哀しみは、ない。なぜならそれは、日々神楽に向かって生きていることを意味しているから。
高杉はそんな俺を見て、なにを思っているのかは知らない。ただ、時たま思い出したように俺の背中を蹴っては、俺の生を伸ばそうとする。たぶん、無駄だとわかってるんだろうけど。でも俺も、神楽が俺の死を望まないことはわかっているから、少しだけ生きることにしている。冥土の土産話でも、沢山つくっておこうかなと企んでいるのだ。













後書き、

勿忘草さまリクエスト。兄神で神楽の死ネタ。
一夜の深夜テンションで書き切ったので、おかしなところがあったらすみません。
ちなみに、Coccoの「遺書。」をBGMにしながら書きました。
Cocco好きだー。


2014.09.02



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