十二 | ナノ




美しい、獣のような女だ。初めてあの少女と出会った時に、そう思った。
護衛も付けずにここの門を叩き単身で乗り込んできた少女は、まだ十代の後半になったばかりで、あどけなさの残る頬や小さいがしなやかな肢体が印象的だった。夜のように深く青い彼女の双眸が妖しげに光るのもまた、蠱惑的だ。万斉たちも随分と驚いたようで、少女を前に誰も口を開けないまま、相手の姿を食い入る様に魅入っていた。
そして思った。なんて難儀な女だろう、と。
これからますます少女は成長し、その美しさを際立たせる。そしたらこの容姿に狂うヤツは五万といるはずだ。魑魅魍魎のような人間の欲に侵され、踏み躙られる。美は女に幸福をもたらす、と信じる奴も多いだろう。だが、度を過ぎればそれはただの厄災にしかならない。
しかし、彼女には後ろ盾があった。少女の周りには正気の人間ならば確実に手出しはしないような奴らが控え、粛々と命令を待っている。いざとなったらその命でさえ少女に差し出し、かつそれを誇りに思ってしまうようなイかれた奴らだ。全く、気持ちが悪ィ。

「こんな夜分に、何の用だ」

そう尋ねれば、少女は冷徹な眼差しで俺を見据える。「ボスはお前カ?」核心を含んだ声は思った程高くはなく、ただただ水面のように静寂で澄みわたり、それでいて鋭利に尖ったナイフを突立てているかのような緊張感のある音だった。それに無言で頷けば、少女はあの双眸で俺を見詰める。値踏みするようなその視線に眉を寄せるが、意外と厭な気はしなかった。

「話がしたいネ」

柔らかそうな唇がゆっくりと動き、淡々と言葉を紡ぐ。その言葉にさっきまで呆けたように少女へと魅入っていた部下たちがざわつくのを片手で制し、黙らせる。ざわめきは少女の望む事ではない。

「客間を用意しろ」
「けど、晋助様‥」

後に控えていた来島が戸惑いをみせる。この少女は、表の人間ではない。むしろ奥の奥にいるような人間だ。そう、本能的に理解した部下たちは皆、突然の訪問者を警戒して各々の武器に手を添え始めている。

「夜兎の姫さんだ。警戒しても仕方がねェ」

俺の言葉に来島たちは揃って息を呑む。その様子を少女は黙って眺めている。先程から全く表情の変わらないその顔容は、その端麗な美貌も相まって冷淡な印象を与えた。

「兔子‥」

万斉が慎重にその名を口にする。
"兔子"これは、一種のあだ名だ。そして決して、ある特定の人間以外には用いられないもの。

「海星坊主の、娘でござるか‥?」

裏世界の番人、もしくは支配者。その男を、俺たちは"海星坊主"と呼ぶ。それが本名かもしれないし、単なる呼び名かもしれない。ただ分かっているのは、広大なアジア一帯を取り仕切る夜兎のボスで、生きていたいのならば決して逆らう事は許されない相手だという事のみ。そんな支配者を父親にもつ少女には、必ず"兔子"という呼び名が付く。その呼び名が含むのは、一つの警告だ。
"手を出せば、待つのは死のみ"。逆らう事は、父である海星坊主への反逆とみなされる。

「早くしろ。待たせるな」

そう命令すれば、背後に控えていた部下の気配が消える。客間の準備に行ったのだろう。

「さて、行きますかねェ‥お嬢さん」










物音に目が覚めた。
懐かしい夢をみたようだ。数年前の突然の出会い。
月夜に現れた少女はまるでかぐや姫のような崇高さと、その立場に相応しい残酷さをもっていた。平然と無理難題を突き付け、そうして用が終われば躊躇なく去っていく。顔を上げ、背筋を伸ばし、振り返る素振さえなく進む歩は、生まれながらに定められた彼女の孤高を表しているようだった。
進めるのが修羅の道しかないと知っている。
背負った重責に押し潰される未来を解かっている。
にも拘らず、決して自身を憐れむ事をしないのは、少女なりの意地なのかもしれない。誇り高く、負けず嫌い。押し付けられる理想と責任と運命に、翻弄されながらもひっそりとその牙を研いでいる少女の瞳は、今も昔も変わらない。あの青い夜の双眸が、ずっと脳裏に焼き付いて離れない。

「帰るのか、」

そう問い掛ければ少女は素っ気なく頷き、手早く衣服を身に着けていく。その白絹のような肌が布で覆われてしまうのを勿体なく思いながら、少女の準備を手伝うためにシーツから身を起こした。

「疲れてるな」

チャイナドレスの胸元を釦でとめる際に目に入った少女の双眸がやけに気怠く妖艶で、ひっそりと生唾を呑み込んだ。湧き水のように、じんわりと劣情が湧く。時折そのしなやかな肢体を手の平でなぞりながら、完璧な構図をもつその顔容に魅入っていた。

「何かしら‥」

眉間を寄せて俺の手を睨み付ける神楽に、唇を吊り上げ挑発的に笑む。ゆっくりと顔を寄せれば、諦めたように視線を下げる少女の赤く熟れた唇に舌を這わせ、固い口を開かせた。
長い桃色の髪を手櫛で梳きながら、緩慢な愛撫を繰り返す。指先に触れる髪は、柔らかく指通りがいい。この少女に触れる事のできるヤツは、極僅かだろう。その内の1人に己が含まれているかと思うと、アルコールを摂取したときのように気分が高揚する。しかし、所詮は複数の内の1人。唯一ではない。そんな事など、十分に心得ている。

「精々、兄貴を刺激しねェようになァ‥」

間近に視線を合わせながらそう忠告すれば、神楽はあの青い双眸を剣呑に光らせる。

「貴方も、下手をして兄様にバレないようにネ」
「ククッ‥兄貴と手を組むのも、悪かねェと思うがな」

そう戯れを言えば、先程よりも更に剣呑になる双眸が本来の気性の荒さを覗かせる。しなやかな夜の獣がひっそりと音も気配もなく、相手の首を狙っているようだ。

「そうしたら、‥テメェはもう、此処には来ねェだろうな」
「ええ、来る意味がなくなるわ」
「真選組のガキと、駆け落ちでも―――っぐ」

言葉は最後まで続かない。伸びてきた白い手が首根を鷲掴み、力づくで床に押し倒してきたからだ。瞬時に腹部へ乗り上げた少女の身体が、身動きを塞ぐように的確に要所を抑え込む。頸部を圧迫する力は女のものとは思えない程に強く、かつ完全に意識を飛ばさせないよう、絶妙な力加減をしていた。

「詰まらない事を、言うものじゃないネ。命を無駄にするわ」

爪先が肌に喰い込むのを感じながら、こりゃ地雷を踏んだな、と自らの行動を内省する。少女の開き切った瞳孔を見詰めながら、上から見下ろされる騎乗位もまた、なかなか乙だなと馬鹿な事を思った。

「―――ッゲホ、‥ハっ、ゴホッ」

不意に放された手によって急速に酸素が流れ込む。堪らず噎せ上がる俺を、神楽は冷徹な眼差しのまま観察していた。

「私を裏切るのなら、殺す」

静かな声音は怒りも不安もない。淡々と、俺の意志を訊いている。

「どちら側にも、つく気はねェよ‥。けど、お前が不利になるような事はしねェ」

本当かしら?
彼女の無言がそう尋ねる。それに対して、そんなものは訊くまでもない事だ、と俺は嗤う。本当は俺の意志など、とうの昔から承知しているくせに。全く、愉快で物騒な戯れだ。

「"先生"の最期の頼み、」

俺はあの時から、この夜兎のお姫様だけは裏切れねェんだ。

「叶えてくれた事、感謝してるぜ」

白い手を取り、その甲に唇を寄せる。それに対して神楽は両目を細めて自嘲の笑みを浮かべる。

「別に‥私は、私に出来る事をしたまでよ」
「ああ」
「彼の願いが、たまたま私の手の届く範囲だっただけ」
「それでも、だ。あの時の俺らは弱すぎた。本当に大事なものさえ、護れやしねェ」
「‥‥‥…」

軽く少女の小指を噛み、名残惜しいが手を離す。

「ククッ‥、アレのお陰で、お前の信者がさらに増えたぜ?」
「感謝するなら、父にしてちょうだい」
「アイツらはしてるさ」
「‥貴方も、ネ。自分の身が、夜兎の監視下にある事を忘れないで欲しいわ」

おもむろに俺の上から退く少女は、心底面倒だというように眉間を寄せた。

「抗争の生き残りは、肩身が狭いねェ」
「そうよ。あの抗争は、夜兎の望むものではなかった。‥…けれど、貴方の場合。自分の行動のせいだって事ぐらい、わかっているでしょう?」

それは重々承知しているので、否定するつもりはない。代わりに、にやり、と口角を吊り上げて嗤えば、神楽は急に真剣な顔をして口を開いた。

「‥マフィア狩りをするのも、程々にしなさい」
「無理だな」
「ただでさ、貴方たちのような新興勢力は私たちの監視対象なの。これ以上面倒事を起こすのなら監視はより厳しくなる。‥それなのに好き勝手振る舞うから、真選組も夜兎の重役たちも、貴方たち"鬼兵隊"を危険視し始めてる」

本当、いい加減にして。

そう忠告する神楽はそっと視線を落とした。

「珍しいな‥、心配してんのか?」
「いざとなっても、私は貴方たちを庇えないわヨ」
「ああ、そんな事か‥。んな事されたら、お前の兄貴を敵に回す事になるだろ」

それこそ厄介。こっちから願い下げだ。

そう笑ったら、神楽は何とも言えない顔をして俺を睨んだ。
静かな間が俺たちに広がる。外の雨は止んだようだ。代わりに、虫の鳴く音が聴こえる。
この戯れが、ずっと続けばいい。柄でもなくそんな事を思う俺は、少し眠りたいのかもしれない。あまりの瞼の重さに本格的な眠りに入ろうとしている俺を見下ろしながら、神楽が呼ぶ。

「高杉、」
「‥なんだ」
「気を付けて」
「言われるまでも、ねェ‥よ」
「だって貴方、早死にしそうなんだもの」
「…‥クク、確かに否定はできねェな‥」
「本当に、気を付けてよネ‥」

貴方に死なれたら、誰が愚痴を聞いてくれるのよ。

そう、茶化して笑った少女は少しだけ淋しそうに見えて、下手をして呆気なく死ぬような真似はするまい、と俺は密かに固く決めた。





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