十一 | ナノ

R-16




久しぶりに訪れた其処は、相変わらずこじんまりとしていた。先程までいた常連が明日は早いからと言って10時過ぎに帰って行った事もあって、今では静寂が空間を支配している。時たま酒を冷やす氷が溶けてグラスに当たる音と、金時が何かと世話になっている婆さんの煙草を吹かす音が聞こえるだけだ。

「珍しいね、アンタが来るのも」

僅かにしゃがれた声でそう言ったお登勢は、眉間に皺を寄せながらゆっくりと口にした煙草を吸う。照明を落とした室内で赤い光が一際強く見えた。

「たまにはババアの顔も見とかねェとな。アンタも歳だし、いつポックリ逝ってもおかしくねェよ」
「縁起の悪い事を言うんじゃないよ。わたしゃアンタに嫁ができるまで死にゃしないさ」
「そーかィそーかィ、そんじゃあ長生きすんな」

皺だらけの指に挟まれた煙草から、ゆらゆらと紫煙が換気扇に吸い取られて上っていく様を眺めていると、カウンター越しにお登勢の溜息が金時の耳に届いた。

「…アンタ、女にモテないわけじゃないクセに特定の子とは付き合わないんだから。このままじゃ一生独り身だよ」

呆れたように言うお登勢は徳利に入った日本酒を喉に流す。アルコールの熱さが肌寒い今日の雨夜には心地いいようで、一瞬お登勢は両目を細めた。

「いーんだよ俺ァ。結婚する気とかサラサラないし〜?気ままな一人暮らしで結構ですぅ」
「‥へぇ?最近は綺麗なお嬢さんと一緒にいるって聞くケドねぇ」

お登勢の言葉に金時が視線を投げた。
冷静な瞳だ、こちらの出方を窺っているねぇ。とお登勢は素知らぬ顔で金時の様子を見極めながら煙草を吹かす。

「有名なのソレ?」
「そうだね、ごく一部になら。相手が相手だから、下手に口に出来ないみたいだよ」

その話を聞いたのは、お登勢とも長い付き合いになるある男からだった。というのも、金時がフゥの情報を得る際に依頼した件の情報屋だ。

「そういやヅラも知ってたな‥」
「あの男なら、その手の情報に敏感だからね。知ってるのも当然さ」
「ババアは何で知ってんだよ」
「たまたま、ね。それよりアンタ、どういう風の吹き回しだい?」

お登勢の問に金時は気怠げに両目を細める。

「言われなくても分かってるって顔してるね」
「‥まァな。ヅラにも散々言われたし」
「金時、アンタどこまで関わってるんだい?"アレ"が容易に他人を受け入れるとは思えないよ」
「へぇ、"アレ"を知ってんだ?」

僅かに声を潜ませる男に、お登勢は灰皿に煙草を押し潰しながら視線を遣った。

「‥…知ってるよ。昔馴染みが、いるからね。‥アンタ、それが知りたくて態々ここに来たんだろう?」

確信を滲ませたお登勢の声に金時はニヤリと下品に笑う。その顔に、お登勢はますます溜息が出るのを堪えながら、新たに徳利へ酒を注いだ。

「で、アンタは何が知りたいんだい?」









*****


雨は体熱を奪い、指先を冷たくさせる。傘でも防ぎきれなかった雨がチャイナドレスからのぞく素肌を濡らし、神楽は寒さに肌を摩った。

「開けなさい」

僅かに白くなった息を漏らしながら小さな裏口の門の向こうへ命令すると、すぐに木製の扉は開かれた。

「お待ちしていたでござる、兔子」
「万斉、久しぶりね」

微笑みかける神楽に男は頷き返し、踵を返した。夜にも関わらず掛けられたサングラスのせいで男の表情は読み取れないが、そんなものは常の事。ここの連中は中々クセが強い、と神楽は内心溜息を吐きながら男の後を追った。

「彼は離に?」
「そうでござる」
「忙しかったかしら」
「なに、いつも通りでござるよ。あの男も兔子に頼まれれば、時間ぐらい作るでござろう」
「それは、買いかぶり過ぎだわ」
「いいや、それが事実でござる」

万斉の言葉に戸惑いを感じながらも、あながち間違いでもないだろうと神楽は冷静に自分と男との関係性を振り返った。それ程、彼の男との付き合いは短くも浅くもない。

「着いたでござる」

男はそう言って軽く一礼すると、暗闇に紛れるように音もなく去って行く。その気配が途絶えるのを確認しながら、さてこの男と会うのも久しぶりだな、と神楽はその期間を数えた。約2か月と10日である。
もともと表だって顔を合わす機会もなく、またこの繋がりを知られる事は立場上問題でもあったため、こうしてひっそりと会うようにしていた。いわゆるこの密会は、その時の必要性応じて設けられ、大抵は月に一度あるかないかの頻度である。

「邪魔するわ」

ノックを3回、断りの言葉を掛けて入り口の扉を滑らせる。番傘を閉じて水滴をふるい落しながら鼻腔を掠めた甘い匂いに眉間を寄せた。

「換気するヨロシ」

ついつい出た訛りのままに室内にいるであろう男へ苦情を述べると、男特有の喉奥を震わす不気味な笑い声が聞こえた。

「じきに気にならねェよ」

愉快そうに答えた低音の方へ視線を向けると、気怠げに煙管を吹かす隻眼の男と目が合った。神楽は男の言葉に無言でヒールを脱ぎ、室内へと足を踏み入れる。

「かぐや姫、」
「その呼び名、止めてちょうだい。虫唾が走るわ」
「おーおー、手厳しいこって」

男の戯れに神楽は眉間を寄せて不快感を露わにしながら、勝手知ったる我が家のように備え付けの洗面台におかれたタオルを手に取った。雨水を拭きながら男の前に戻ってくると、先程と変わらない体制で煙管を吹かす男の片目が愉快気に細まっているのが視界に入り、神楽はその目を表情のない顔で見返した。
男の瞳は黒瑪瑙のように漆黒で、艶やかだ。
この瞳は、目の前の男を的確に表している。

「で、俺に聞きたい事ってェのは?」

余裕のあるその口調に神楽は、何のために自分がここに来たのかこの男は知っているのだと直感した。

「高杉‥、貴方"坂田金時"を、知っているわね」

神楽の声は強い確信をもっている。高杉はその問の目的を機敏に察し、さてどこまで話そうか、と慎重に言葉を探しながら少女の美しく整ったその顔容を眺めた。

「対価は高いぜ?」
「分かってるわ」
「‥ククッ、あの噂は本当みてェだな」
「余計な口は慎みなさい」

高杉の言葉を遮るように神楽は言葉を重ねる。そうして、白く傷一つない手を伸ばし、男の薄く冷えた頬に触れた。

「ねぇ‥…教えてちょうだい、何もかも」

そう、囁くように命令され、高杉は我慢できず少女の手首を掴んだ。雪崩れ込むように押し倒したそこは仮眠用の布団の上で、このまま事に及んでも痛くはあるまいと、男は薄っすらと笑みを浮かべてその濡れた唇に噛み付いた。それを満足気に見詰め、神楽は深まる口付けを拒む事なく、そのまま舌先を自ら男のものへと絡めていった。






「ぁ、っは、あ、はぁ‥」

上がった呼吸を宥めるためにゆっくりと息を吸う。身体の熱が意識さえも朧げにさせるが、自らの矜持がそれを許すまいと神楽は無理矢理思考を再開させた。

「金時は、‥昔の仲間だ」

真上に覆いかぶさる高杉は情事特有の熱っぽさを含んだ表情で言った。それを見上げながら少女は余韻の残る唇を舌先でなぞる。

「‥仲間、?」
「"3年間抗争"って言えば分かるだろ」

"3年間抗争"
その単語に少女は驚愕に息を呑む。

「彼、アレに参加していたの?」

確かめるように尋ねられる問に高杉は無言で頷き、そのまま少女の首元に顔を埋めた。釦を外され露わになった胸元に意外と柔らかい男の髪が当たるのに耐えながら、今しがた入った情報をもとに神楽は思考を推し進める。
あの抗争に参加していたという事実は、組織にとって好ましくない。高杉との関係がそうであるように、金時の存在は無いものとした方がいいだろうか。だがそれでは、金時を受け入れた意味がなくなる。出来れば、組織には金時に肯定的でいてもらわなくてはならない。そうでなければ、

「っぁ、んッ」
「考え事はそこそこになァ」

高杉の手がブラの下に滑り込む。男の手はいつも冷えていて、その冷たさに全身が粟立つようだった。

「‥ぁ、…‥〜〜っん」

ずらされたブラから覗く項に高杉は唇を寄せる。唇を噛み締め、与えられる感覚を押し殺す少女の腰が僅かに跳ねる。

「た、かすぎ‥」

少女が、軽く口付けを落とし緩慢に舌先で嬲る男を見下ろしながら気紛れにその頭を抱き込めば、高杉は両腕を腰に回して胸の谷間に鼻先を押し付けた。

「真選組のあの餓鬼は、知ってんのか‥?」

くぐもった声は普段よりも物静かだ。

「知っているわ‥。会ったもの」

男の頭をより抱き込むように密着させれば、高杉は少女の胸元にキスをした。

「いいのか、それで」

誤解してるんじゃねェか?
そう言外に忍ばせながら問われ、神楽は思わず口元が緩む。
この男は、変なところでやわらかだ。普段はその肩書きの如く、不遜な顔をして時には人の命さえ奪う男だが、一方では人の心の機微に敏感で冷静の周囲をみる事ができる。
視野の広い男だ。だからこそ、少女はこの男にそれなりの信頼を置いている。

「‥私は、欲深い人間ヨ」

高杉の薄い頬に手を添えて顔を上げさせると、男の黒瑪瑙の隻眼と少女の夜のように暗い青の瞳と視線が合う。
黒瑪瑙は、迷いのない信念・魔除けの意があるとされる。
まさにこの男に相応しい瞳だ。少女はそう思う。

「金チャンを受け入れるという事は、更に彼を傷付る事になる。それを承知で、私は彼を私の内部(テリトリー)に引き入れるの」
「酷ェ女だ」
「まったく、その通りネ」

神楽が暗い双眸を細めながら穏やかに微笑むのに対し、男は眉間を寄せて少女の真意を探っている。

「‥何故、金時なんだ?」

男の声は僅かな緊張を帯びているようだ。少女はその様子を察し、徐に瞼を伏せその青い瞳を隠した。

「瞳が、綺麗なの」

高杉は己の旧友である金時の、夕焼け空のような緋色の双眸を脳裏に浮かべる。

「この世界を、遥か遠くから傍観しているようなあの眼差し。他者と自らの間に明確なまでの線引きをし、決して内側を見せようとはしない」
「‥……」
「そのくせ、人を甘やかすのが上手なの。その身の内に、夜叉のような獣を、飼ってるクセに」
「‥…ああ、」

クスクスと軽やかな吐息を漏らす少女の声は、親愛の情が滲んでいる。高杉はそれに気が付き、僅かに目を見開いた。

「莫迦なヒト‥。一度は手放してあげたのに、元の生活へだって戻れたはずヨ。‥なのに自ら、私の中に落ちてきた」

長い桃色の睫を震わせて悠然と瞼を上げる少女の、比類なく美しいその顔容を高杉は呼吸を忘れて見詰め続けた。

「そんな彼を、受け入れないなんて、不可能だわ」

そう男の視線に応えるように黒瑪瑙の隻眼を見詰め返しながら、少女は甘い微笑みを溢す。まるで、愛を囁くようなその表情に、高杉は直感的に想った。

嵐が、やってくる
様々なモノを薙ぎ倒しては壊していく、巨大な嵐が。


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