愛 | ナノ
慣れ親しんだ我が家の居間には小さな電気コタツと、これまた小さな箱型テレビがある。私も兄も大して物欲のない性格だったから、どの部屋も飾り気のない淡白なものだった。
「ただいま、」
「ん、おかえり」
背中を丸め、コタツに顎を乗せた兄が視線だけを向けて言った。
「あの‥ネ、兄ちゃん」
さっきまで何回も頭の中にリピートしてきた言葉を思い出す。軽い緊張が私の心臓を圧迫し、どくどくと熱い血液を送るのが分かった。首を絞められたみたいに気孔が細まって、僅かに漏れる呼吸音がテレビから放たれる見知らぬ笑い声にミスマッチしている。
「‥っと……」
言葉が出ない。
普段では有り得ない事を言うからか、話の切り出し方が分からない。喉の中が渋滞みたいにごちゃごちゃしていた。
(一緒にいたい、なんてキャラじゃないアル)
けれども人間、テレパシーがあるワケでもなく、声にしなければ伝わらないのだ。例え血の通じる兄妹でも。もっと可愛い性格なら良かったのに。
「ねぇ、神楽」
兄の声が名前を呼んだ。
私は彼の瞳を見る。深くて底無しの海みたいに綺麗な青だ。
「泣いたの?」
「へ…‥?」
「目の下、真っ赤だよ」
指先の腹で自分の目元を撫でてみるとぷっくりと腫れた感触と僅かに残る熱を感じた。
「ぁ‥…な、何でもないネ」
早く自分の部屋に行かなければ、と思った。この顔のまま、兄の近くにはいたくなかった。情けないこんな泣きっ面のまま、何故か感じる惨めな気分に浸りたくはなかった。
早足で部屋を突っ切って、急ぐ自分をなだめながら私のテリトリーへと向かう。兄に言わなきゃいけない事が沢山あって、でも今の私がソレを上手く伝えられる自信は余りにも少なかった。そもそも、自信溢れる日など来るのだろうか。
「痛、っ」
腕を掴まれた。
引っ張っられた躯はその方向通りに傾き、ぶつかる。肺を圧迫する衝撃に息を詰まらせるのと同時に、覆い被さる誰かの重さを感じた。
「兄ちゃっ…‥!」
腰と首に回された腕は兄のモノだった。
抱きしめるように密着された躯は布の柔らかさと両腕の力強さに包まれ、思わず瞠目してしまう。
「何で逃げんの?」
首筋に触れる兄の髪の毛がくすぐったい。
「俺さ、さっきの見てたんだよね。家の前でさ、知らない男に、嬉しそうに頭撫でられるお前のこと」
ケラケラと笑う声はまるで愉快だと言うかのようでも、周りに渦巻く雰囲気は彼が怒気に満ちている事を示していた。
「あの銀髪って神楽の男?」
「ぇ、あ、ち、っ違うヨ!銀ちゃんは担任の先生アル!」
全く予想もしていなかった兄の言葉に驚いて、慌てた唇が否定を返す。何を思ってそんな勘違いをしたのか、兄の声は相変わらず笑っていた。
ゆったりと抱き変えられ、互いに向かい合う形となる。よくわからない恐怖が、勝手に脚を震えさせた。
「へー、“銀ちゃん”って言うんだネ」
頭上から見下ろされる青の瞳は、妖艶に輝く灯火がゆらゆらと棚引いているみたいで、何時だって私の思考を霞かかった霧のように、あやふやにさせる。
「先生でも男は男、だよ。あんな簡単に触らせるのは、兄ちゃん感心しないな」
「‥…っ゙!?」
両肩に置かれた兄の手に力が入る。痛みを感じて、反射的に躯を捻らせ逃れようとしても力で兄に敵うはずもなく、そのまま畳の上へと押し倒されてしまった。
「ッ…ぃたいョ、」
制服のスカートが幾つもの皺を描き、はだけた足元が恐怖に震える。ぴったりと背中についた畳が思ったよりも硬くて、泣けなしの抗議の声も全く覇気を含んでいなかった。
「神楽に触れて良いのは俺だけなんだから、」
場違いなまでに優しく微笑んで言うから、私は呆然としてしまって兄の言葉の意味を理解出来なかった。
「頭を撫でるのだって、俺だけしか許さない」
自分と同じ真っ白な指先が手早く髪飾りを外す。解き放たれた髪の毛は重力に従って無造作に畳へと広がった。
「この手首を掴むのだって、俺だけしか許さない」
投げ出されていた手首を引き寄せて、薄い紫色をした血管に噛みついた。とがった犬歯が食い込む感覚と暖かく湿った兄の唇の感触が、ぞわぞわとした何かを起こさせる。
「他のヤツにやらせたら、俺、殺しちゃうかもヨ。
相手も、神楽もさ、」
異様なこの雰囲気はどうすれば良いのか。これは冗談?だって、そんなの何て有り得ない。
「なんでっ…‥」
「何が、?」
「おかしい、アル。なんで、そんな…‥、兄妹なのに…」
手首を掴んでいた手が離された。浮かぶ噛跡がうっすらと見えて、それが痛かったからなのか悲しいからなのか良く分からないけども、少しだけ泣きそうになった。
「兄妹、‥…か」
額に掛る髪の毛を兄の手が優婉に払い上げた。
「俺は一度だって、お前を妹だと思ったことはない」
兄の言葉が鮮明に耳に届く。「妹だと思ったことはない」、ならば私たちの関係は何だったと言うのだろうか。
「ねぇ、神楽。―――それは"おかしい"ことなの?」
真っ直ぐとした視線が互いに絡み合う。そっと、額と額が触れた。細まる青い瞳を、私は見つめ続けた。
おかしい、の?
そんなの分かるわけがない。
ただ私は、怖い、と思ってしまった。兄との関係が壊れてしまう。それが自分にとって、耐えられない事だと知っているから。
「いつ‥…か、ら?」
目尻から涙が溢れた。
「ずっと。妹だからじゃ、片付けれなくなってた」
躯から力が抜けた。瞼が閉じて、ゆっくりと息を吐き出せば呼吸が楽になった。
「兄妹だと思ってたのは、私だけアルか…‥」
「神楽は俺の妹だよ。でも、それだけじゃ駄目なんだ」
囁くような兄の声が言葉を紡ぐ。
その度に兄の吐息が肌をくすぐる。
「それじゃ、満たされない。
どんなに強い奴と戦っても、遊んでも、俺が求めてるモノのは、手に入らないんだ」
目尻から流れる涙を、兄の唇が掬った。
「渇くんだよ、魂が。太陽に焼かれるみたいにさ。
ねぇ、神楽。
好きだよ、どうしようもないくらい」
ふんだんに込められた優しさが唇を通して伝わってくる。そっと触れるだけの口付けには、少なからずは兄の不安みたいなモノが含まれていた。
「ひっく、…ふっ‥‥ぅ」
好きだと言われた。自分の兄に。妹としてではなくて。
嬉しいと、思ってしまった。何故だか、そう思ってしまった。崩れてしまいそうな関係を、先の見えない未来を、恐ろしいと、思っていたはずなのに。
「ごめん。ごめん、神楽‥…、 」
再び降りた唇は強引に、荒々しく貪るようにして私を捕え続けた。
「っん‥ふぁ、っ‥―――はぁ、は、っ‥にぃ、ちゃん…‥」
離された唇に手の甲を当て呼吸を整える。炎のような熱が唇だけではなく、躯中を取り巻いていた。
「あのね、私ね、…兄ちゃんと‥ずっと、一緒が良い…‥アル…」
朧な視界の中で、見開く青の瞳を捉える。驚いているみたいだった。そんな顔の兄を初めて見た気がする。
「わかんないけど、…‥そうじゃなきゃ、やぁョ…」
*****
朝日が眩しい。目覚めたばかりの頭は殆ど活動していない。
あの後、私たちは何を語る訳でもなく、ただただ、互いに寄り添って深い眠りへと入っていった。
今も、私の隣には兄がいる。兄の指先が私の髪を巻き付けては遊ぶ感覚がくすぐったい。いつの間にか掛けられた毛布は二人の体温によって、離れ難い温かさを持っていた。
「今日、俺の卒業式」
「…‥は?」
全く知らなかった事実に頭は一時停止。兄の顔は普段と同じで笑っていた。
「出るつもりなんてなかったけどさ、神楽が来てくれるなら行こうかな」
「なっ、私だって学校アルよ!」
「良いじゃん、サボれば。行っても寝てるだけでしょ?」
「ゔ、‥…」
「ね?」
「‥…わ、わかったアル」
ニッコリと笑った兄はすぐさま立ち上がり部屋から出て行った。
風呂場からシャワーの音がする。私はのそのそと朝食を作りに台所に向かった。
野菜を切りながら昨夜の事を考えてみた。
一緒に居たいと、ようやく言えた。それが嬉しい。嬉しいけども、一気に恥ずかしさが込み上げてきて頬も耳も、熱い。今更なのだが、かなりの衝撃発言をしてしまったのだ、私も兄も。
これからどうしよう!なんて、頭の中が嵐のようにパニクっている。
「手、止まってるよ?」
ぬらりと現れた兄に驚いて、びくりと躯が震えた。耳元に触れるように囁かれた言葉が余計にそうさせる。
「今日、楽しみにしてるから」
にこり、と兄が笑う。
お風呂上がりだからだろうか、余裕の笑みを浮かべる姿が妙に色っぽかった。
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