我 | ナノ
神威 高3 神楽 高1のお話し
「神楽、俺この家出てくから」
香気の漂わす薄紅色の花びらが、冷えたアスファルトの道路に散る、そんな季節。暖かくなってきた日差しとは別に、私の心は一瞬で凍結したかのように真冬へと戻ってしまった。
にこにこ笑うこの兄貴は日々の何でもない会話のついでにとんでもない爆弾を落としていった。
「大学遠いしさ。今週までには引っ越すから」
*****
「銀ちゃぁあん!!」
「うおっ!!?」
学校も終わり後は適当に授業のプリントでも作って帰ろうかと思っていた矢先、自分の担当しているクラスのチャイナっ娘兼、大食い娘である神楽が力加減も考えず突っ込んで来た。
「あぶねェーだろが!先生死んじゃったらどうすんのォ!?」
「んなワケないネ。子犬と戯れるようにしたアル」
「子犬って定春の事だよね?遥かに人間より大きいよね??」
「大差ないヨ」
「あるケドォォォオ!?」
世にも珍しい桃色頭の少女は悪びれた様子もなく、あっけらかんとしている。
「てかお前、簡単に男に抱きつくんじゃありません。男は皆狼だって言っただろーが」
「大丈夫ヨ、銀ちゃん。ワタシ、張り切って叩き潰しちゃうネ」
「お前ねー、少しは女の子なんだから気を付けなさい」
何と言うか、無防備なこの教え子は色々と不安にさせる。屈強な家系のお陰か下手な男よりは断然強い。それはそれで良いのだが、その分警戒心がまるでないものだから見守る側としてはヒヤヒヤしてしまう。
「んで、何か用があったんじゃねぇの?」
真っ青な大きな瞳がきょとんとしたまま見つめてくる。
(黙ってれば可愛い顔してんだけどねー)
「…‥あのね、」
頭を垂らし臥せられた睫毛はしっとりと濡れて……‥、さっきまでの元気は何処へ行ったのか、しおらしい態度に内心驚いた。
「兄ちゃん、出てくって」
*****
「その兄ちゃん、何時まで家にいるって?」
3月の初日、まだまだ寒さが残るこの時期。ずっと廊下ではさすがに肌寒く、ほぼ自らの所有物となっている国語準備室へと移った。
「今週中には行くって…‥」
仕事に忙しく滅多に家にいない父親と、僅か1ヶ月にして自らの通う男子高を壊滅状態にさせた暴れん坊の兄貴。それが現在、神楽の家族構成で母親は随分前に亡くなっていた。
兄だけが、そばにいてくれる
何時だったかそう言っていた気がする。
「兄ちゃんは大学生になって、私はもう高校生で、そろそろかなって、思ってはいたアル」
使い古された黒のソファーに深く腰掛け、項垂れるようにして吐き出される声音は意外なまでに落ち着いたものだった。こういう時、彼女は自らをコントロールする。溢れる感情を抑えて、留めて、冷静さを忘れない。時にはソレは大切でも、全ての希望もまで我慢することはないのに。
「お前はどうすんの?」
「どうって?」
「独りで暮らすワケ?」
「……‥、」
「まぁ家事は今までと変わんねぇんだろ」
「……‥うん、」
「出来なくはない、ねぇ」
安いインスタントの珈琲に角砂糖とミルクをたっぷりと入れ、ゆっくりと混ぜる。甘ったるい香りを堪能してから自らの分と彼女の分を机に置いた。
「でも…‥、」
微かに耳に入る声に、ちらりと視線を上げた。
「やぁ、ョ…‥っ、
にぃちゃんと、っ離れたくなぃ‥ぁる…」
収まりきらなかった涙が、生暖かく頬を伝い制服の上に滲む。
特別だと、少女は思っていた。
同じような空間で同じように時を重ね、互いに相手の存在だけを許していたあの家での暮らし。あと少しで、それも終焉を迎えるようになってしまった。
寂しい、
悲しい、
でもそれだけじゃない。
何なのだろう、この気持ちは。全てが壊れてしまいそうなぐらいに苦しくて今にでも吐き出さなきゃいけないのに、どうすれば良いのかが分からない。バラバラになった言葉が途切れ途切れに出るばかりで、このままじゃ銀ちゃんだって困ってしまう。
(止めなきゃ、)
「ふっ …‥っ…ぅ‥」
涙を止めるなんて慣れたものだ。唇に歯を立て、ひたすら無心になる。そうすれば何もなかったみたいに元どお
「神楽ァ、息しろ」
大きな手のひらが背中の上でゆっくりと行き来する。虚ろになりかけていた頭が鮮明に働き出す。
「我慢すんな。吐き出しちまえば良いじゃねぇか」
優しい声色が鼓膜を揺し、止まりかけていた涙が再び留まることを知らずに、下へ下へと落ちて行った。
*****
最近は日も長くなってきたけれどさすがに辺りはもう薄暗かった。泣き腫らした目元は赤くヒリヒリしたが、気分だけは軽い。自分の中にあったモノが抜け出したみたいだった。ソレは虚無感ではなく敢えて言うのなら、満足感だろうか。久しぶりに満たされた気がした。
「銀ちゃん、今日はありがとアル」
家の近くまで送ってくれた銀ちゃんに感謝を込めてお辞儀する。そんな私を見て、銀ちゃんは驚いていたけど、可笑しそうに笑って頷いてくれた。
必死になってしがみついていた私の世界は、兄だけが全てだった。だけどそれは結局の所、単なる私のエゴであって、自分だけしか見えていなかったんだ。兄には、兄の世界がある。それは当たり前の事だった。
それに、と神楽は頭を巡らす。
私の周りは、こんなにも暖かい。銀ちゃんだって忙しいのに、勝手に泣き出した私の心配だってしてくれている。
「神楽、オメーの素直な気持ち、ちゃんと兄ちゃんにも伝えろよ」
そっと、大きな手が頭を撫でた。
その温かさに、少しだけ止まった筈の涙が零れてしまいそうだった。
「じゃあな、神楽」
「うん、また明日アル」
灯かりを放つ我が家を目指し足を進める。居間から広がる光は兄が帰っていることを知らせていた。
(何て言おうかな、)
不安はあるけれど、兄には正直に伝えよう。
まだ、傍にいたいと。
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