十 | ナノ






「貴方、傷だらけね‥」

掠れかかった意識の中でも彼女の声だけは明瞭としていた。

「…‥こんな時間に、アンタみてェな嬢ちゃんが‥出歩くんじゃ、ねェよ」

簡単な仕事の筈だった。それが思いの外に厄介で、少しだけ無茶をした。腹部に開いた穴からは留めなく温かい血液が流れ、先程の通り雨で濡れた身体は泥と血で汚れ冷え切っている。その時の俺はまさにズタボロの溝鼠で、随分と情ない姿だった。
そんな俺は、彼女からどう見えたのだろうか。夜のように深い青の双眸は何の感情も見せずに俺を写していた。その眼差しは酷く冷静で、動揺も不安も興味もない。まるで有り触れた目の前の景色をいつものように、ただ写しているだけ。そんな反応だった。

「さっさと、お家に帰んな‥」

絞り出した自分の声は、途切れ途切れに掠んでいる。先程吐いた血のせいだ。喉奥がへばり付くようで気持ち悪い。

「此処が何なのか知らないのネ‥。どこの組員かしら」
「俺は、どこにも‥属していねェ。フリーの、万事屋だ‥…」

俺の答えに彼女はその氷のように動かなかった無表情を止め、少しだけ愉快そうに両目を細めた。

「此処は、私のテリトリーよ」

彼女の声は静かだ。そのくせ、やけに意識に残る声だった。
彼女は言葉の発し方を心得ている。音量、スピード、アクセント。どれもが適切で洗練されていた。

「私を帰すという事は、貴方が助かるチャンスを逃す事になるわ」

彼女は首を傾げる。さぁ、貴方はどうしたい?、そう無言で訊かれているようだった。

「畜生、‥誰かを巻き込むつもりは、ねェよ…」

もうこの話は終わりだと告げるために俺は瞼を閉じて呼吸を整える。
目の前の少女は此処を自分の縄張りだと言ったが、奴らが追って来ない保証はない。早々に動けるまで回復しなければ、明日の命はないかもしれない。

「そんなの、今更よ。貴方が此処に入り込んだ時点で、もう私を巻き込んでいる」

だから、選びなさい。
彼女は言った。俺はその声に引かれるようにゆっくりと彼女を見上げる。彼女の青い双眸と視線が合う。

「私の部下に殺されるか、私の気紛れに生かされるか。今の貴方の選択肢は、その2つだけ」

俺を見下ろす少女は、人形のように美しいその顔容を不遜に歪めて笑う。きらり、彼女の瞳は夜闇の中で光って見えた。今思えば、俺はその時、この光に魅せられたのだと思う。あの獰猛で妖艶で、そして揺るぎない程に強いこの光から、俺は目を逸らす事が出来なかった。
俺はあの夜、彼女の瞳に落ちたのだ。











「金チャン‥あの日の夜もこんな風に、雨の匂いがしていたわ」

懐かしむように神楽は口を開いた。

「その中に血の匂いが混ざっていて、少しだけ驚いた。だって、無断で此処に入るなんて、無謀過ぎるから」

窓辺に腰掛ける少女は硝子越しの庭先を眺めながらゆったりと目を細めた。あの時のように愉しさを滲ませたその表情に目が奪われる。

「あの時、貴方を殺さなくて良かった‥」

彼女と視線が合った。くすり、と神楽が笑い、俺の心臓は一瞬にして大きく脈打つ。初めて会ったあの日の瞳からは想像も出来ない程、彼女の瞳には親しい者へ向ける愛おしさが滲んでいた。

「どうした、急に‥」

掠れる声を無理矢理吐き出しながら動揺を抑えるために奥歯を強く噛む。そんな俺の反応を楽しむように神楽は俺を真っ直ぐに見詰め、徐に脚を組み替えた。薄い絹のスリップが擦れる。静かな室内では僅かな衣擦れの音でも耳に入り、更に奥歯に力を入れた。

「金チャン‥、」

甘い声だ。一度聴いたら、忘れる事が困難で、そしてやけに感情を揺さぶる声。冷や汗が額を濡らす。

「貴方を護衛に雇ったのは、貴方の瞳が気に入ったから」

にっこり、と完璧な笑みを浮かべながら彼女は続ける。

「単なる気紛れ、そして直感。貴方の強さは、私を強くしてくれる気がしたのヨ。‥…でも残念。それを確かめる事は、もう出来そうにないわ」

そう言った瞬間、神楽はその美しい顔容から全ての表情を取り除いた。最初に出会った時のような無表情の双眸が静かに俺を射る。

「私の護衛を辞めてちょうだい」
「…‥‥神楽」
「貴方に非はないの。これは私の都合ヨ」
「なァ、」
「ごめんなさい。貴方には暫く、日本を離れてもらうわ」

その間の費用と安全は、私が保証する。
そう言い切った彼女は、ゆっくりと絨毯へ視線を下げた。そうして動かないでいると彼女は本物の人形のように見える。このまま感情も思考も何一つ、寧ろ最初からそんなものはないのだと言うかのように、彼女はもう俺へと晒してはくれないのだろうか。彼女は俺を、拒絶するのだろうか。

「‥…理由は、?」

乾いた口内を動かして、何とかそれだけを口にする。

「私の意にはならない危険が貴方に及ぼうとしている」

強靭な声音が簡素に告げた。

「俺のためってか?」
「いいえ、私と私の組織のためヨ。あの人を、刺激したくはないの」
「‥あの人、ね。誰だよソレ」
「私の元上司で今は部下。この世の神や仏よりも、私にとって大切なヒト」

少女の声音は柔らかだ。そこには率直な親愛が滲んでいる。しかし、彼女の青い瞳には僅かな悲哀もまた滲んでいた。

だから、お別れヨ。
彼女は言った。俺はその声に弾かれるように視線を外し、彼女の傍らの窓から見える虚空の夜を睨んだ。

「今後の詳細は、フゥに聞いてちょうだい」

ギギ‥…

計ったようなタイミングで背後の扉が開く。そこには厳しい顔をしたあのキツネ顔の男が立っていた。


「行きましょう、金時さん」

静かにこの部屋からの退出が求められるのを片耳に聞きながら、俺は迷わず出口とは反対の、窓枠へと座る彼女の前へと歩み寄る。背後でフゥが一瞬だけ動揺を見せながらもすぐにナイフを構える気配を感じたが、大股で3歩、手を伸ばせば彼女に届きそうな位置まで進んだ。

「ッ!!!―――‥それ以上動けば、殺します」

硬い声音で言った男は、ナイフを構えながら俺の一挙一動に神経を集中させている。もし本当に動けば、このナイフは間違いなく俺の心臓へと一直線に向けられるだろう。そう確信するだけの意志を男からは感じた。

「神楽、」

背中に突き刺すように鋭利な殺意を受けながら、真っ直ぐに目の前の少女を見下ろす。彼女の目元はその長い睫によって薄影になっていて、それがどこか静寂さと儚さを想わせた。

「俺は、お前を困らせる気はねェよ。けど俺ァ、お前の護衛を辞めたくはないね」

少女が俺の護衛は要らないと言ったのだ。今更どうこう言ったところで、その決定が変わるとは思わない。だが俺は、ハイ、そうですか。と言ってこの仕事を辞めるつもりもない。そんな簡単には、割り切れないのだ。
ならば、する事は一つだけ―――話し合いだ。

「どうしたら、ソイツを刺激しないで済む?」

俺のその問に神楽は驚いたように目を張って、それから少しだけ戸惑いも露わに眉尻を下げた。ああ、そんなカオさせてェんじゃねェのに。

「金チャン‥、ダメなの。あの人は、納得しないわ」
「へぇ、話せば分かるって奴じゃないワケね」

お願い、と神楽は口にした。今では鉄壁のような無表情は崩れ始め、困惑と焦燥と不安がその表情からは窺い知れた。

「貴方を、死なせたくはないの‥」
「神楽‥俺は死なねェよ、」

白くまろやかな頬に手を添える。背後のフゥは瞬時に反応を示したが、どうやら黙認する事にしたらしい。
近くで見詰める彼女は、真っ直ぐに俺を見詰めている。赤味のある唇からは微かな吐息が漏れ、感情を浮かべる双眸は熱く潤んでいるようにも見えた。大丈夫だ、と再度口にする。少女はそれを信じられないとでも言うように首を振るう。

「あの人は、戸惑いなど微塵もなしに命を奪う。彼とまともに遣り合える人なんて、殆どいないのヨ」

きつく眉間に皺を寄せた神楽が諭すような口調で言葉を重ねるのを聞きながら、俺は大丈夫だと伝えたくて彼女の頬を撫でる。親指で彼女の目元を撫ぜるとぴくりと肩を揺らして見上げてくる大きな双眸は、こんな世界に生きながらも淀みなく澄んでいる。美しい、それ以外の言葉が適さない程に。

「どうして、そこまで‥」

戸惑いが声を震わす。彼女にしては珍しい、不安が滲んだ声音だった。

「別に、特別な思惑があるワケじゃねェよ。俺の単なる自己満と、ちょっとした優越感のためさ」

彼女を見詰めながらニヤリ、と挑発的に笑う。

「要は、神楽チャンみたいな美人さんと、もうちょっと仕事したいなー、っていう俺の願望?」

そんな俺の言葉に彼女は視線を落とし、サッと何かを閉じ込めるかのように瞼を閉じた。
静かな沈黙の中、彼女の気配がじわじわと普段のように鋭く統制されていくのを感じながら、瞼を閉じた少女の顔容を見詰める。ああ、無茶苦茶にキスがしてェ。そんな不埒な想いに胸が疼く。

「金チャン‥」

濡れたように色付く唇から放たれた硬い声音は、痛い程に室内の緊張感を一層高める。

「忠告するわ。これ以上私に関わってしまえば、貴方はもう、もとの世界には戻れない。これまでのように生きていく事は、不可能よ」

ゆっくりと眼前に神楽の手が差し出された。白く傷一つない彼女の手は、思ったよりも小さかった。

「それでも構わないのなら、誓いなさい」

あの凛として強靭なまでに芯のある声が俺に求める。

「決して、私を裏切らないと」

開けられた瞼から覗く夜のように深い彼女の青は、いつもの獣染みた獰猛さと月のような高貴さに光りながら、俺を真っ直ぐに射ていた。これは、覚悟の瞳だ。

「決して、殺されはしないと」

じわじわとした高揚が肌の下を駆け上がる。その甘美さに背筋が痺れ、ああ自分は酔っているのかもしれない、と頭のどこかで思った。

「私に誓えるのなら、私は貴方を受け入れるネ」

可笑しな語尾を付けて、彼女は不遜に笑う。雨上がりの夜に出会ったあの日のように、意志の強い瞳が俺の奥底を激しく揺さぶる。

もう自分は、戻れない。
この瞳に落ちて、落ちて、もう戻れない所まで来ているのだ。
それで構わない。むしろ本望。
俺は、彼女が持つ光に焦がれている。そして、その光が陰るのを黙って見ている事さえ、最早我慢がならない。
きっと、近付き過ぎてしまったのだ。
雇主とその護衛。俺は今、それ以上の関係に踏み出そうとしている。

「―――誓う。俺は絶対にお前を裏切らないし、死にやしない」

目の前の彼女の手を取り、その甲に口付ける。束の間の接吻に籠められた敬愛の情を、彼女は当前のように受け入れた。



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