八 | ナノ





少女は濡れた髪をそのままにベッドへと横たわる。室内の照明は全て消され、心地よい暗闇が少女を包んでいた。

(あたま、いたい)

長い睫に覆われた両目を伏せながら、少女は小さく息を吐く。そうすると、身体が更にベッドに沈んでいくように感じた。
先ほど浴びたシャワーで体温が上昇し、白い額には薄っすらと汗をかいている。無造作に身に着けたガウンは少女の裸体を投げやりに覆っていた。

(明日の予定、何だっけ‥)

頑なに瞼を閉じても、思考は目まぐるしく稼働する。考慮しなくてはいけない点や、不十分だったと思われる点等を洗いざらい脳内に列挙して、そうしてその先の行動を組み立てる。策略を練るというのは、どうにも自分には向いていない。と、痛む頭を感じながら少女は内心溜め息を吐いた。

(どうして、あの人は)

ぼんやりとしてきた意識の中、少女は彼の人を思い浮かべる。

(こんなものを、私に与えたのだろう)

青く暗い洞窟のような瞳を持つ、あの男を。
全てを少女に差し出して、自ら膝を折った、彼の男を。

(否、理由になんて最早意味はない)

彼女は知っている。彼が自分に求めるものを。知っていて尚、自分はソレを彼に与えるつもりがないことも。

(兄様‥…、私にソレを求めても、どうしようもないの)

少女はこの場にいない兄へと語り掛ける。
何度も、何度も、ずっと前から。
愛しさも哀しさも憎しみも、どれもが混じり混ざった精一杯の拒絶を、たった一つの目的のために、彼女は明示し続けている。

(無理なの、兄様‥。私には出来ない、)

緩やかに停止しつつある思考の中で少女は祈った。

(出来ないのヨ…‥)

この世の神にでも、仏にでもない。
自らにとって、それ以上の存在であった彼の男に、少女は祈った。











一人の男が、暗い廊下を歩いている。足音は深い絨毯の毛によって抑えられ、僅かに長い三つ編みが揺れる音だけが男の耳に入った。
久しぶりに訪れたこの場所は相変わらずの静かさだと男は一つ鼻で笑いながら、それでもこれからあの子に会えると思えば少なからずも気分が高揚していく。ゆるりと薄い唇を吊り上げる男は、今にも鼻歌を歌い出しそうな程に笑顔で、それでもその両目だけはどこか暗澹としていた。


「…‥お止まりください、雷帝」

呼び掛けられた声に、ふと男は足を止める。

「例え貴方様であろうと、それ以上は主の許可無しにお通しすることは出来ませぬ‥」

ひっそりとした暗闇から、一人の老夫が姿を現した。深く頭を垂れたまま男の前に膝を付くその老夫は、明朗な口調のまま言葉を続けた。

「お戻りください、雷帝。紅楼(ここ)は、主の楽園。‥兔子はお疲れで御座います」

頭を垂れる老夫の手には白く光る銀の針が隠されている。長年、暗躍時に彼が武器として用いていた毒針だ。

「許が必要だと言うのなら、あの子に確認すればいい。まぁどうせ、拒否しないだろうけどネ」

薄っすらと微笑む男の細められた両の瞳は、餓えた獣のように冷えた――そして獰猛な、捕食者の色をしていた。

「お疲れで、御座います」

再度、老夫は強い声で繰り返す。その音には70年という齢を感じさせないまでに、強剛な声音だった。

「…‥はぁ、」

男は小さく息を吐く。

「全く、強情な奴だね。例え俺がお前を殺しても、其処から退くつもりはないんだろう?」

呆れたように口を歪ませる男は、冷えた目のまま老夫の頭を見下ろした。

「だけどサ、今俺を通さないと、余計にあの子の負担になると思うな‥…色々と、ネ」

嘲笑うように口角を持ち上げて笑う男は、ゆっくりと言葉を発す。

「俺、怒ってるんだ。勝手に護衛なんて雇ったこと」

やさしく、緩やかに話す男の気配からは、その声音と反比例するように、徐々に肌を突き刺すような殺気を滲ませていく。

「早くしないと、あの護衛のこと、殺しちゃいそうだからさ―――」

こてり、小さく首を傾げながら男は無邪気に笑って言った。

「邪魔、しないでくれる?」









*****


キィ…‥

何かが軋んだ微かな音にふっ、と意識は浮上した。
うっすらと瞼を開ければ視界に入るのは静寂な暗闇のみ。その他には人影さえ見えないが、確かに其処にはナニかがいる予感がした。
そっと手足に力を入れて、緊急時にも対応出来るように肉体も精神も構えていく。いざとなれば、枕元に置いた愛銃で応戦しなくてはならない。殺られる前に殺る、それが絶対だ。

足音は聴こえない。
息遣いもまた同様に。
しかし確実に近付いているであろうソレは、気味が悪い程に気配がなかった。
ソレは、この部屋へ無断で足を踏み入れた。それが意味することは、相手はかなりの力量の持ち主だということで、それと同時にあの老夫は大丈夫だろうかと僅かに思考が乱れたその瞬間、

「―――っ」

容赦なく上から振落されたナイフを寸前で避ける。
ベッドの上に突立てられたナイフは刃渡り15p程の小さなものだったが、あれ程の力を込められて刺されたら場合によっては死んでいただろう。

「私を殺そうとするんだったら、名前ぐらい名乗ってくれないかしら?」

相手の背後に立ち、心臓の位置に銃口を突付ける。下手に動いたら躊躇なく引き金を引けるように、安全装置を外した愛銃をしっかりと両手で固定する。

「ふふふっ、」

愉快そうな笑い声に構えていた手が僅かに跳ねた。

「うん、悪くない反応だ」

相変わらずの暗闇だけが視界に広がる中で、一瞬ぼんやりと朱色が浮かんだ気が、した。

「けど、ちょっと残念―――」

楽しそうに話す声が途切れた瞬間、片腕を捻り上げられたままベッドの上に組み倒された。息も止まりそうな程の衝撃に瞼を閉じる。後ろ手に掴まれた手首はギリギリと痛みを訴えた。

「俺だと分かった瞬間、銃口をズラしただろ?駄目だよ、ちゃんと心臓を狙わなきゃ」
「にぃ――さまっ‥…!」

身を起そうと足掻いても一向に力は緩められない。むしろそんな私を嘲笑うように耳元でくすくすと笑う彼の吐息が耳朶を弄った。

「離してっ!」
「ふふ、だーめ」

強く言葉を発しても、何がそんなに楽しいのか、笑って彼はより一層体重をかけてくる。その重さに四肢の骨が軋み、肺が圧迫されたせいか呼吸が詰まった。先程まで身体を覆っていたガウンは、今では背中にかかっている程度で殆ど意味を成していない。

「俺、神楽に訊きたいことあるんだよね」

耳元で敢えて甘く優しい口調で話す兄は、ゆっくりと剥き出しの肩を撫でる。

「っ、‥ぁ…‥」

するりと肩から脇腹へ流れた指先は、悪戯に肌を詰った。

「まぁ、でもその前にサ、」

軽い口付けが一度、首筋に与えられ、知らず肩が跳ねる。

「ヤろうか、神楽」

溜まってるんだよね。
と、兄は恍惚を滲ませた声で囁いた。




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