七 | ナノ
細い路地裏の地面は、色褪せ崩れかけた煉瓦に覆われていた。鋭利なヒールの先が不規則に訪れる地面の丘陵に阻まれながらも彼女の歩は乱れることなく、一定のスピードで進んでいく。
幾度も角を曲がり、更に細い路地を進めば、ひっそりとしたシンプルな鉄門が其処にはあった。
静かに彼女は立ち止まる。徐に門の上部に備え付けられた隠しカメラが、彼女の姿を捉えた。
ジジ‥ジジジ‥…
ゆっくりとズームされるレンズは、彼女の深い夜のような青の瞳を写し出す。
『お久しゅう御座います、兔子』
上部から流れた声からは、長い年月によって形成された威厳と、強者のみがもつ揺るぎない穏やかさがあった。
『ようこそ、紅楼へ。お待ちしておりました、我公主‥』
溢れ落ちるような恍惚さを滲ませた男の声が、恭しく少女の訪問を受け入れる。
敬愛する己らが主を、この小さな居城に迎い入れようと、分厚く冷たい鉄の扉は開かれた。
「どうぞ、碧螺茶です」
そう言って机の上に置かれたのは、朱色の牡丹が描かれた小さな茶杯と、お茶請けとして用意された茶菓子だ。
「ありがとう…‥、いい香りだわ」
白絹ような両の手で茶杯を包み、その香りを楽しむ少女の唇は緩やかに笑んでいる。
その笑みに茶を用意した男は静かに安堵し、二コリと少女に笑い掛けた。
「私の地元で採れた茶葉で御座います。兔子のお気に召したようで、嬉しゅう御座います」
「ああ‥、貴方の地元は茶葉の産地で有名だったわね」
確かめるように掛けられた言葉に恭しく頭を垂れて肯定する男は、既に70以上の齢を重ねており、その清潔に整えられた髪の殆どは白銀のような白髪だった。
「貴方の淹れるお茶が、一番美味しい‥。身体の力が抜けるようヨ」
「兔子、そのままどうぞ、ごゆるりとお過ごしください」
重厚な深紅のソファに腰掛ける少女は、ゆっくりと全身の力を抜いて背もたれに凭れかかる。
「紅楼(ここ)は、我らが主の憩いの場。主のためだけに存在する、束の間の楽園の地でございます」
男は薄暗い部屋の暗闇に消え入るように、徐々に姿を消していく。
「貴女様を害する者は、誰であれ此処では全て排除してみせましょう‥…」
その言葉だけを残して男は居なくなった。
室内は、時計の針の音すら響かせない。少女が動かなければ、この空間は時が止まったように、もの静かだ。
完全に男の気配が消えきった所で、少女は僅かに唇を歪める。
「私を"害する"‥ネ、」
室内には、嘲笑染みた少女の呟きが響いた。
*****
良く言えば味のある、悪く言えばしみったれた暖簾をくぐって、久しぶりに訪れる旧友の定位置へと足を伸ばす。
「よォ、ヅラ。久しぶりだな」
「ヅラじゃない、桂だ。何度言えば分かるのだ、」
「何だっていいだろーよ。諦めろ、ヅラはどう足掻いたってヅラだ、それがお前のアイデンティティだ」
「金時ィィイ!貴様、先生から習わなかったのか!!!‥諦めたらそこでしあ「うるせぇヅラ、」」
最早恒例となった遣り取りを済ませれば、奥の厨房から女将が笑いながら茶を出してくれた。
「お、ありがとよ」
「金さん、随分久しぶりじゃないか。好きなだけのんびりしていっておくれよ」
そう言い残して、女将は厨房へと戻って行った。
その後ろ姿を眺めていたら、横から不躾な視線を感じ目線だけを其方へ向ける。
「んだよヅラ、」
その視線の主は、相変わらずの無表情に近い仏頂面のまま、何か言いたそうな視線を寄越してくる。
「‥金時、」
「あ?」
「お前、最近新しい雇い主が出来たそうだな」
「まァな、」
「随分と美しい女性だと聞いているぞ」
「あー、確かにどこもかしこも人形みてぇに整ってるぜ」
確かに彼女は、手足の先から顔容まで、職人によって丹精に造られた人形のように美しい。けれども彼女の本当の魅力は、あの夜のような青の瞳に秘められた純然たる強者の輝きだ。あの瞳に見詰められれば、きっと殆どの者は無条件で彼女へと自ら頭を垂れるだろう。
「その雇い主のことをお前は知っているのか、」
男の黒い瞳が、真剣に向けられる。そこには僅かな心配と警戒の気配が滲んでいた。
「言いたいことがあんならハッキリしろ」
「別に、お前の仕事にとやかく言うつもりはないぞ」
桂の言葉に当たり前だと内心返す。今まで自分のボスは自分で決めた。それはこれかも変わらない。
「ただ‥…、お前はあの時、此方側に来る気はなかっただろう?それがどうして、」
「"此方側"?」
桂の言葉に引掛かりを覚えて反復すると、驚いたような顔が俺を凝視していた。
「お前‥、本当に何も知らないのか?」
信じられない
そう言外に伝えて来る男の様子に思わず眉間に皺が寄った。
「正気か金時…‥!」
もともと日に焼けていない男の顔が更に蒼白くなり、急激な緊張のせいかその黒い瞳の瞳孔が大きくなっている。
「流石のお前でも、無傷では済まされんぞッ」
普段、早口で捲し立てることなどないこの昔馴染みが、今だけは冷静さを忘れている。それほどまでの困惑と身を押し潰すような焦燥が、男には湧き上がっていた。
「お前の雇い主はっ、‥‥!」
桂の言葉は両耳を通って右から左に流れていく。
そして無意識の内に、俺はその言葉を遮ろうと桂の胸元を引き掴んでいた。
「それ以上、言うんじゃねェよ」
「っ、」
重く、明確な意思を乗せて、言葉を発す。
神楽の顔が脳裏に浮かんだ。
頬笑みや、苛立ちや、全てを消し去った無表情な少女の顔が、次から次へと流れてくる。
「アイツが何なのか‥。俺はそれを、直接アイツの口から聞く」
何か言葉を言い掛けて、それを押し留めるように口を閉ざす昔馴染みは、じっと俺の顔を見詰めたまま眉間を寄せていた。
「だから今は、それ以上聞きたくねェんだよ」
胸元を掴んでいた手を放し、敢えて言葉をやわらかくして言えば、桂は更に眉間に皺を寄せたまま口を歪めた。
昔からこの男は、冷静で慎重な性質ではあるが同時に実直で表裏のない分、分かり易い奴だったなと。何とはなしにその様を見て思い出した。
「何も知らないまま関わるには、危険が多過ぎるぞ」
この警告はきっと的を射ている。桂はその立場故にか、様々な危険を見分ける能力に長けており、そしてまた多くの情報を持っていた。
「へぇ‥、俺の雇い主さんはそんなに有名なのかねぇ」
「有名ではない。寧ろ存在を知ることが許された者は、極僅かな人間だけだ。彼女に関しては、徹底的に情報規制が成されている」
情報規制
それが意味するのは、そうするだけの何かを、あの少女は持っているということだ。
「金時、…‥俺は、あれ程までに絶対的な忠誠心を掲げ組織の末端まで統率のとれた集団を、他には知らない」
真っ黒な男の瞳の瞳孔は、暗澹たる暗闇のように底がない。この男には珍しい"畏怖"が、その暗闇を一層深くしているようだった。
「あの組織では、力が全てだ。そしてその頂点に君臨するのが、彼女の一族」
酷く慎重に、的確に話そうとする桂の言葉は、今まで聞いたどれよりも、警戒心に溢れている。
「あの一族を害する者は、誰であろうと潰される。物理的にも、社会的にも」
桂は、彼女がいる世界を知っている。何処でそれを知ったのか、俺には分からない。ただ、知っているからこそ、ここまでこの男は明確な警告を発するのだろう。
「そこに、容赦などない。何故なら彼らにとって、この世の神や仏よりも、あの一族こそが、唯一絶対の強者だからだ」
あれは最早、一種のカルトだ
そう、桂は掠れた声で呟いた。
カルト、ねぇ‥
その時、俺の脳裏にはフゥの姿が浮かんでいた。蕩けるような恍惚さを滲ませて頭を垂れる、キツネ顔のあの男が。
.