六 | ナノ



「おい、」

縁側で庭を眺めている青年に声を掛ける。愛刀を握りながら胡坐をかくこの部下は、普段の小生意気で飄々とした様子を引っ込めて、不気味なまでに静かだった。

「おい、総悟‥」
「‥……何ですかィ」

無表情の顔のまま視線だけが向けられる。
感情を映さないその両目の奥に、どんな激情が蠢いているのか。この青年とは長年の付合いだが、ソレを曝け出すことは俺にも、誰にも、コイツは許さないだろう。

「仕事だ、」

手にしていた大量の書類を総悟の傍らに置く。
総悟とあの少女の関係を少なからずも知っている自分には、今コイツがどんな想いでいるのか大方想像が付いてしまう。

「働け」

感情の波に呑まれたくない時は、仕事をするのが一番だ。忙殺されるような時間の中でなら、自分の激情だって忘れられる。何も考えず、ただ時間が消費されていくだけだ。それで良い。それが、胸を焼き付く激情さえも薄れさせてくれる。

「土方さん‥、」

相変わらずの無表情のまま総悟は口を開いた。

「俺ァいつまで…‥‥、」

そう言い掛けて、青年は口を閉ざす。
感情を振り切るように片手で前髪を握り締め、声にならない呻き声を上げた。

"いつまで"
総悟は、ずっと耐えてきたのだろう。
愛しい女を目の前にしながら、自分からは触れらず、関わることさえ、赦されない。ずっと、あの日から。それが、あの男から提示された交換条件だ。

互いに、互いの領域に入ることは赦されない。
総悟の領域には真選組が、向こうの領域にはあの少女が含まれる。
"不可侵協定"
それは、この組織のために、そしてこの世界の安寧のためには、必要なことだった。だが、その協定は確実に総悟の精神を蝕んでいる。
どうしようもない苦痛が、この青年の上に、全て覆い被ってしまった。それを悔やんでいない奴は、真選組(ここ)にはいない。誰もが自分の無力さに苛立ち、彼の男の異常さに憤っている。

「忘れてくだせィ、今のは。‥久しぶりに会ったから、調子が狂ってるんでさァ」

総悟の声音には覇気がない。
突然の再会にうまく感情が制御できないのか、はたまたそれ以外の要因もあるのだろうか。ふと、あの金色の男が脳裏に浮かぶ。

「気にしてんのか、」

それもそうか、と確認するまでもなく納得する。
何故なら彼女は、いつも一人だった。
仕事もプライベートも、少女の傍らに在ることを許されるのは、本当に限られた人間だけだ。それは、少女の立場がそうさせており、そして少女自身もそれを望んでいるようだった。

「万事屋の野郎は、自分は単なる護衛だと言ってたぜ‥」

それはきっと、偽りではない。
実際、外部の人間が彼女の側近になることは有り得ないだろう。それは、"彼等"が許さない筈だ。そして既に、少女の周囲には細心の注意が払われており、上層部の特に信頼される者たちで主要なポジションは固まっている。
それは、これからの未来を見据えて彼女の父親が成したこと。
だから、あの金髪の入り込む隙間など、護衛以外にない。しかもその護衛範囲は、彼女のごく一部のプライベートか、然程重要ではない任務の間のみに限られるだろう。

懐から煙草の箱を取り出し一本咥える。総悟が憤るのも仕方のないことかと思いつつ、ライターで火を付けた。
切先の赤い光を眺めながらゆっくりと息を吸う。じわじわと身体に染みわたるニコチンが気持ちを落ち着かせた。落ち着いたことで、いつの間にか自分の神経が荒ぶっていたことに気が付いた。

「知ってまさァ、そんぐらい」

溜め息のように吐き出された言葉には、鬱蒼とした感情が垣間見える。

「でもアイツは、今まで護衛なんて雇おうとしなかった」

細められた目の端には、何かを見極めようとする険呑な光があった。
その光は、庭先の紅葉のようにひっそりと暗い赤色に染まっている。

あの少女と総悟の関係は長い。彼女の父親と局長の近藤が親しく、幼い頃から関わり合い、時には戦闘訓練として手合わせもした。
少女も総悟も、常人を遥かに凌ぐ戦闘能力だったから、互いに全力でやり合えるのが楽しかったのだろう。笑いながら道場で戦っていたのが懐かしい。

「総悟‥、」

もうそれが、遥か昔のように感じられる。

「万事屋の旦那が、羨ましい。そんな自分が、反吐が出そうなぐれぇ嫌いでさァ」

そう、戦闘以外では滅多に見せない感情の昂りを滲ませながら、総悟は言った。












*****

「‥到紅楼、」

零れ出たような呟きに、運転手は「是」と答え、緩やかに車を走らせた。

深くシートへ腰掛ける少女は、先程から色のない無表情のまま、その深い青の瞳だけを微かに揺らしている。動揺している程ではないが、彼女の精神が何かに影響されているようだった。

「金チャン、今日の護衛はもういいわ‥」

薄っすらと赤く色付く唇を動かして、彼女は言った。
スモークガラスのせいで日中でも薄暗いこの車内では彼女の輪郭が酷く曖昧だ。その発した声も普段のような統率された強かさがなく、今にも空気に解けていってしまいそうだった。

「‥…大丈夫か、神楽」

弱々しい、と言うよりは、まるで魂が隔離されているように、今の彼女は存在さえも危うげに見える。いつもある筈のあの絶対的な煌めきが、今だけは魂と一緒に漂流している。このまま彼女を一人にしても良いのだろうか。

「ふっ‥大丈夫ヨ。今から向かう場所は、私のテリトリーだもの」

心配は無用だ。
そう言うように、神楽は口元に笑みを浮かべる。それは美しく、そして不遜な笑みだった。

「…‥なら俺は久しぶりに飲みにでも行くかな」

例えテリトリー内だとしても、あまり油断はしてはいけないのだろう。
だが彼女は、今、俺が傍に居ることを良しとしてはいない。ソレは柔らかく、けれども確かな拒絶だった。
俺の返答に満足そうに唇を上げて微笑む少女は、酷く甘く廃退的な雰囲気に身を包んでいる。美しい花弁が、その瑞々しささえも忘れて、ひっそりと朽ち逝くような、そんな廃退的な気配。
何が彼女をそうさせているのかは分からない。
うら若く、誰もが羨むような容姿と経済力を持ちながら、それでも少女の魂は、酷く薄暗い何処かに在る。

「必要だったら連絡してくれ」

少しでも、コイツの助けになれば良い。

「すぐ駆け付けるからよ」

そう笑って言えば、神楽は小さく頷いた。






神楽が降りたのは、都心から数キロ離れた繁華街にある一本の路地裏の前でだった。
そのまま振り返ることなくふらりと歩き出した少女の背中は、すぐに薄暗い路地の闇の中に消えていった。


「アンタは何処に行くんだ?」

神楽が消えた其処は、ぽっかりと空いた洞穴の入口のようだ。何となくそのまま眺めていたら、前方から運転手の男が行先を尋ねた。

「ああ、俺も此処で降りるわ」
「オイ、‥…アンタまさか、追い掛けるつもりか?」

そう答えてドア開けようとすると、硬く緊張した声が引き止めた。
普段の男の雰囲気は、力強く大様としている。だが今は、警戒心を剥き出し慎重に此方の意図を見極めようとしていた。

「別に、そういうワケじゃねェよ。ただ何かあった時、近くに居た方がいいだろ?そこの蕎麦屋に知り合いがいっから、其処で待機でもしてらァ」
「‥……そうかい」

俺の言葉に、運転手の佐々木のおっちゃんは反論するつもりはないらしく、硬い声質のまま頷いた。

「ただ、くれぐれも追い掛けようなんて思うなよ。アレは、俺らが踏み込んでいい場所じゃねぇ。‥特に今日は、手前の命が惜しけりゃ、絶対に近付くな」

重く鋭い言葉が、ピリピリと肌を刺す。これは、明確な忠告だ。

(命が惜しけりゃ、ねぇ‥…)

強靭なまでの線引きが此処にはある。
俺と神楽とを、決定的に別ける境界線。それを失くすことは、きっと今の俺らの立ち位置では、出来ないのだろう。

さて、どうしたもんか‥。







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