四 | ナノ




「‥急用が出来たわ」

世界的に有名なIT企業の本社を前に、携帯を強く握りながら神楽は言った。
現代風の鉄筋ビルは見上げるほどに高く、その側面を覆う緑がかったガラスは太陽の光を無条件に反射している。先程からスーツを着込んだサラリーマンが、そのビルの正面玄関から引っ切り無しに吸い込まれては吐き出されていった。

「金チャン、車呼び戻してちょうだい」

軽く結い上げた髪から零れた薄桃色のを耳裏にかけながら、神楽は溜め息を漏らす。
その様を視界の端に写しながら、運転手に連絡を取ろうと携帯をコールした。


「‥…―――ああ、ロータリーに。‥了解、っと」

手早く会話を済ませ終了ボタンを押し、ちらりと隣にいる少女を伺い見た。
細い腕を組み、僅かに不機嫌そうな空気を纏いつつ、神楽は地面を睨んでいた。そんな少女の立ち姿さえ、なぜだか視線が引かれるのだから不思議なものだ。
柔らかそうな素材で出来た清楚でシックなブラウスに、品のある深い紺色のタイトスカートを身に着けた少女は、可憐ながらも十分に大人の女性の美しさがある。
右耳についた夕日色の小ぶりなカーネリアンのピアスと、裾から覗く女性らしい細めの腕時計。派手な装飾品ではないが、それでもこの少女が身に付けているだけで、まるで彼女のためだけにあるかのように、それらの装飾品はしっくりと彼女に馴染んでいる。

「先方に連絡しなきゃ、」
「佐々木のおっちゃんが連絡しといてくれるってよ」

"佐々木のおっちゃん"とは、50近い神楽の専属運転手で、身体が熊のように大きく、口を大きく開けて笑うのが特徴的だ。先程連絡した相手もこの男だった。

「‥…貴方、意外と秘書に向いてるかもね」
「いやいや、金サンには向いてないっしょ。…‥おっ、来たみたいだな」

曇りのない深い黒色のボディが日光を受け艶めきながらやって来る。その素早い到着を、神楽は満足そうに眺めていた。








*****

座り心地のいいシートに腰を掛け、黒いスモークガラスを隔てた外の風景を眺めながら、先程聞いた行き先に憂鬱な気分になる。
なんだか面倒なことになりそうだなと他人事のように思いながら、それでも迫り来るその時に溜め息が出そうだった。

「どうしたの、金チャン?」

向かい合うように座る神楽が不思議そうに尋ねる。

「いやー、会いたくねぇなァ、と思って」

このまま車の中で待機していたいところだが、自分の役目は彼女の護衛だ。それはないだろう。まぁ、あそこで誰かに襲われるだなんてのは、そうそうあり得ないことなのだが。

「貴方、彼処に知り合いがいるの?」

少しだけ眉をしかめ、不審そうに彼女が問う。そりぁ、彼らの知り合いとなればこの裏世界のタブーを犯した人間が大半だろう。

「んー、昔仕事でぶつかったんだわ。そん時からの腐り縁つーか、」

あの時は凄まじかったな、と数年前の出来事が思い浮かぶ。特に彼処のNo.2とは馬が合わなすぎて会う度に喧嘩をしていた気がする。

「てか、俺からしたらお前が彼奴らに用がある方が驚きだわ」

彼奴らは、日本の裏世界を監視する番人だ。この世界でもタブーとされていることを犯した違反者への粛清をその生業としていた。もっとも、彼らの裏にはもっと大きな"何か"が潜み、この世界を統治しているらしい。
そんな奴らに、この雇い主はどんな用があるのだろう。

「ふふ、秘密‥」

細い指を唇にあて、にやりと笑うその表情さえ瑞々しい艶がある。緩やかに上がる濡れたように紅い唇へ視線を引かれるが、そこは敢えて見ないふりをする。そうでもしないと、否応なしにこの間のことを思い出して、顔が熱くなった。

「そろそろですよ」

前の運転席に座る佐々木のおっちゃんから声が掛かる。外を見れば、古風な平門とその奥にある立派な武家屋敷がもう間近に見えた。







「金チャンは適当にして待っていて。私は局長と話があるの」

砂利道を歩きながら神楽が言った。局長といえば、ここ真選組のトップ、近藤のことだろう。あの人なら、変に警戒することもなさそうだ。小さく了解の意を伝える。
正面に控える門の手前まで行くと、慌てたように足音が駆けてくるのが聞こえた。その音に神楽は可笑しそうに小さく笑う。足音の主にでも思い当たるのだろうか。

「こ、こんにちは!」

門の下から若い青年が駆けてくる。黒い髪に、これと言って特徴のない地味な男だった。

「ジミー、久しぶりね」

ジミーと呼ばれた青年はペコリと頭を下げる。名前は外人のようだがその見た目からして生粋の日本人に見える。

「お久しぶりです、神楽さん。今日は局長へご用ですか?」

上下とも黒い隊服に身を包む青年は、確かに真選組の隊員らしい。此方に走って来る時に、一度だけ人の顔を見て瞠目していたが、俺の記憶の中を探しても見覚えのない顔だった。と言うか、こんな奴いたかと思わず首を捻ってしまう程の地味な奴だ。

「ええ、いるかしら?」
「大丈夫ですよ。先程ちょうど戻られたところです。ご案内しますね、」

人の良さそうな笑みを浮かべて青年は神楽を案内しようと一歩前に出る。足音が最小に抑えられたその動作に、もしかしたらコイツは隠密か何かなのかと一瞬思い浮かんだ。存在感の薄さといい、向いている気がする。

(デカいな、)

真選組の敷地は広い。なんたって50人以上の男たちを抱えているのだ、それなりの広さじゃなければやっていけないのだろう。
手入れされた小さな庭を通り、来客用の正面玄関へと案内される。真選組の奴らには何人か知り合いもいるが、その本拠地に足を踏み入れるのは初めてのことだった。今時珍しい女人禁制のくせに、掃除は行き届いているようで、なかなか綺麗な場所だった。

(築7、80年ってとこか。よく管理されてるわ、こりゃあ)

床板が歩くたびに微かに軋む。屋敷の傍に建てられた道場から男たちの掛け声がした。ちょうど隊員たちが戦闘訓練をしているのだろう。縁側からでもその様子が伺える程、激しい音が聞こえる。

「あの、お連れの方もご一緒されますか?」

控え目にジミーが尋ねた。

「いいえ、彼は客間へ。ああ、それか庭を散策するのもいいかもネ」
「此処はお前の家かよ、」

普段通りに思わず神楽へツッコミを入れると、彼女は慣れたように楽しそうに笑ったが、前を歩くジミーは、驚いたように俺を凝視した。

「‥…?」
「ふふふ‥ジミー、面白いでしょう?」
「いや、その…‥何て言うか、あの方が知ったら、流石にヤバい気が、」

不安気に神楽を見る青年は、前に見たフゥと同じように蒼い顔をしていた。

「あの方って"神威"って奴か?」
「ッ!!」

俺の疑問に、青年は一瞬でこれでもかと言うほど目を見開き驚愕に固まった。信じられないものを見るようなその目付きに、何かしくったのかと頭を巡らす。フゥの時は話題にして良かったが、此処ではそれは禁句のようだった。

「金チャン、此処でその名を挙げるのは、もう駄目ヨ?」

隣の神楽が静かに息を吐く。

「ジミーだったからまだしも、相手によっては突然斬り付けられることもあるから、」
「あ‥、ああ。悪ィ」

理由は分からないが、どうやら本当にその名前は禁句らしい。肝に銘じておこうとしっかりと頷く俺に、神楽はその白い手で慰めるように俺の頬を撫でた。

「ふふ、いい子」

まるで幼い子どもにやるように、慈愛を込めた撫で方が妙に気恥ずかしくて眉をしかめると、神楽の夜と青が混ざったような色の瞳が優しげに細められた。それが余計に無図痒くさせて、その手を避けるように顔を背けると、偶然離れの道場から出てきた青年と視線が合った。
琥珀色の青年の瞳が驚愕に揺れる。訓練後なのだろう、腕を捲り黒の隊服の上着を脱いだ青年は、真っ直ぐに此方を見詰めながら口を開いた。

「かぐ、ら‥?」

声量は大きくなくとも、口にしたその名ははっきりと耳にすることができる。

「おい、総悟。何やって、…!」

背後から黒髪の男が姿を現す。男は眉間に皺を寄せながら青年を呼んだが、此方を見た瞬間、次に続く言葉を忘れたように呆然と目を見張った。

「‥…兔子、」

黒髪の男、土方がフゥと同じように神楽を呼んだ。
"兔子"、日本語にすると兎となるらしい。その呼び名が、何を意味するのかは分からない。
道場の勇ましい掛け声さえ遠く感じられる、そんな静かで張り詰めた空気が辺りを包み込もうとしていた。その空気を察した少女が一歩前に出る。

「局長、近藤勲に会いに来たわ」

恐れも、戸惑いも何もない。
ただただ清廉な声が、来訪の目的を告げた。

「急用なの。アポなしで来たことはごめんなさい。すぐに終わらせるわ」

矢継ぎ早に言葉を紡いだ神楽は、男たちに向けていた視線を傍らに移し、案内の続きを促した。それに戸惑いがちに頷いたジミーは、一度だけ土方たちにお辞儀すると、そのまま局長室へと向かって行った。

誰も何も話さない。静かな空気が、感覚を研ぎ澄まさせる。
ひやり、冷や汗が流れた。
鈍い思考を巡らせる。神楽の後に続く己の背中に琥珀色の瞳をした青年の視線を感じながら。

これは、どういうことなのだろうか。
真選組は限られた者以外は排除する絶対不入の領域で、彼らは裏世界の番人だ。
そんな場所へ自由に踏み込み、当たり前のようにトップの局長と対面する。そんなことが出来る人間は、まずいない。いたとしても、それは彼らよりも更に上の存在だ。

ふと目の前の雇い主を見る。
二十歳に満たない少女の背中は、線が細く華奢であるにも関わらず全てに屈することを許さない、そんな背中だった。

彼女は、一体、
確信を得るには、知らないことが多過ぎる。そしてそれらを知ってしまうことは、多くの危険を招くことを予感させた。
だけども自分は、
「雇い主と、その護衛」その関係性だけでは収まらないこの想いが、アイツのことを知りたいと、望んでいた。
そう、自分はもう既に望んでしまっていた。



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