三 | ナノ



夜の街の喧騒と攻撃的な原色のオンから逃れるように、薄汚れた裏道を足早に進む。
つけられている。そう気付いたのはフゥの事務所から出て直ぐだった。おそらく、神楽の訪問を不信に思った組織の誰かだろう。
足音からして、つけている奴らは4、5人だったが、それも時間が経つにつれ少しずつ人数が増えっていった。


「神楽、」
「ええ、そうね」

ふ、と足を止め、ゆっくりと振り向く。
隣にいた神楽が、くすり、と微かな笑みを漏らした。

「遊べるかしら、金チャン‥」

赤く濡れた舌で可憐な唇を舐め、そう彼女は言った。

「…‥は?いやいや、お前は下がってるよ、な?」
「あら、やるわよ」
「いやいや、ホント危ないから!頼むから下がってて」
「いやよ」
「"いやよ"じゃねェェェェェェエ!」

というか怪我されたら洒落にならない。気がきじゃないからヤメテくれ!そう思いながら、ため息を吐く。頭が痛い。僅かに冷や汗が出ていた。

「さすがにこの人数だとお前を護りながらは無理だっつーの」

思わず零した言葉に一瞬きょとん、とその青い目を丸めて驚いた神楽は、思わず耐えきれないといったように、現状の張りつめた緊張感に不釣り合いなまでの軽やかな声で笑った。

「ふふふっ…‥、そうネ。貴方は私の護衛だったわね」
「はぁ??、‥まぁ、お姫様は後ろで見学でもしていなさい、ってことで」

貰う給料分、しっかりと働かせていただきます。と、内心不敵に笑いながら、手足を軽くストレッチする。

「お片付けは、手早く綺麗に、が基本よ?」
「はいはい、分かってる」

隣にいた神楽が静かに半歩後ろへ下がる。普段の動作から見ても、彼女は何かしらの護身術を習っているようだったから、もしもの時でも一応は大丈夫だろう。

「そんじゃァ、行きますか」

誰にともなく呟いた言葉は、夜の街角の暗闇にあっさりと消えていった。
早く、終わらせる。そう自分に意を決めて、前に出る。
神楽は、普段と同じように振る舞っているけれど、どこか拭いきれない疲労感を持っていた。そもそもバーで眠っていたのも、あり得なかったことだ。警戒心の強い彼女が、誰か他者が来るかもしれないような場所で眠るだなんて余程でもない限りなかっただろう。フゥとの会話からしても、詳細は分からないが、彼女の身か、その周りで何かあったのかもしれない。

ぬばたまの暗闇から男が数人、姿を見せる。
相手の数は7人。加え、警戒しているのか、他にも物陰に身を潜めている奴が3人ほどいた。

「さっきから人の後つけちゃって、ストーカーですかァ?」

相手の警戒を和らげようと、なるべく言葉を弛めて話す。警戒されたままだと、面倒なのだ。さっさと終わらせたい。

「オマエ、誰ダ?」

片言の日本語が一人の男から発せられた。

「質問を質問で返すんじゃねェよ、コラ」
「オマエ、用ナイ。女、出ス」

予想通りだが、相手側は神楽に用があるらしい。だからといって、ほいほい要件を聞く訳もないが。

「無理、つったら?」
「……仕方ナイ。無理矢理サセルダケ」

そう男が言った瞬間、数人の男が一斉に殴りかかる。その拳を最小の動作で避けながら、一先ずは相手の動きを伺った。
拳が飛ぶ。続いて蹴りが。淀みないコンビネーションで攻撃の手が休むことはない。
確実に狙われる急所。相手はずぶの素人ではないらしい。
前方、斜め左下から首筋の頸動脈を狙った突きが耳朶を掠る。今は痛みの感覚はないが、裂けた傷口からきっと血が滲んでいるだろう。

「避ケテバカリ」

先ほど話していた男が鼻で笑ったのが聞こえた。そりゃそうだ。まずは相手の実力を見ないと、自分の力加減が分からない。下手をしたら、相手を殺してしまうかもしれない。それは勘弁。冗談じゃない。
四方八方から繰り出される拳と蹴りが空気を切り裂く。
やはりコイツらには、それなりの武術の心得はあるらしい。動きに無駄は少ない、が悪く言えば、型に嵌った動作だった。これでは自分の動きを相手にバラしているようなものだ。

(近距離戦の実戦経験は多くない、か)

そう結論付けて、相手の拳を横に流す。そろそろウォーミングアップも十分だろう。
判断と同時に後ろへ飛び退き、男たちとの間合いをはかる。その距離、約3メートル。

「一人は、話せるのを残しておいてね」

背後で見物をしていた神楽が言った。どうやらこの程度のやり合いでは、彼女の関心は向かないらしい。随分と退屈そうな声だった。

「了解、」

彼女を振り返らずにそう言いながら、スーツに着いた汚れを片手で叩き落とす。
これなら5分もせずに終わるだろう。懐から使い慣れた小刀を取り出した。
護衛をするなら離れていても相手にダメージを負わせる拳銃の方が向いている。けれどもこの使い慣れた小刀は、使い方によっては傷の程度を自在に調整することができた。

無駄な殺生はやめなさい。
そう、あの人は言った。その通りだと、自分も思っている。無駄な殺生は無用な恨みを買うことを、自分はもう既に知っていた。

体の重心を低くし、意識を集中させる。鞘に仕舞ったままの小刀を構えながら、これから行う一連の動作を脳内でシュミレーションする。
10年以上、この刀一本で渡り合ってきた。潜りぬけてきた戦いの記憶は、既に己の身体に叩き込まれている。

(よし、)

地面を蹴った足裏が幾度も相手の顔面に決まり、硬い鞘の切先が確実に急所である鳩尾を突く。眉間、コメカミ、顎、脇の下に膝。人間の体の急所は、意外と多い。一人、二人、瞬く間に動けなくなっていく男たちの身体が汚れた地面の上に横たわっていった。

「ほら、最後のお一人さん」

両手を拘束した男を神楽の前に引き摺り出す。鼻から垂れた赤黒い血に大きく腫れた男の頬は痛ましく、殆ど原型を残していない。その男の様を見た神楽は、その秀麗な眉を僅かにしかめて、呆れたように息を吐いた。

「御苦労さま、金チャン」

組んでいた腕を解いて、彼女は男の傍へと歩み寄る。先程の表情を綺麗に仕舞い込んだ彼女は目は、酷く優しげであたかも慈悲深い天女のようだ。
スッ、と神楽の指が男の顎に添えられ、痛みに呻く顔を上げさせる。

「貴方は、誰の差し金かしら?」

やさしく、甘く、天女のような極上の笑みを浮かべながら、その深遠な青の瞳だけは男の様子を冷静に見詰めている。

「……‥、」

見詰められた男は、その瞳から逃れられない。彼女の深く、暗く、そして夜に溶け込んだような青の瞳。一度囚われれば、男の頭はどこか霧がかったように、果てのない夜の青さに魅了されていった。

「ねぇ、教えてちょうだい?」

濡れたように紅い唇が、問う。花の蜜のような声は甘やかだけれど、目に見えない彼女の何かが、それ以外の答えを許していない。

「あ、、、」

先程から男は瞬きを忘れている。喘ぐように発せられる低い呻き声が、僅かに開いた唇から零れ出た。もう、この男に理性など残っていないのだろう。

「兔子‥公主、」
「なぁに?」

男の顎に添えられていた指が、その白い指の腹で優しく男の口元の血を拭った。まるで施しを受けるように男はそれを恍惚と眺め、そして徐に、自らの首を彼女の前に差し出していく。

「我是、‥…―――――」

それはまさに、一人の男が彼女に与した瞬間だった。












「至急フゥの援護に。――いえ、そっちはいいわ」

近くに彼女が懇意にしているホテルがあるらしく、俺と神楽は暫くそこに身を隠すことになった。

「少し確証が足りないの。――‥そうね。このまま、泳がせるわ」

ホテルの小さな個室は造りこそは華美ではないが、完璧に施された掃除と、さり気なく置かれた品のある調度品が、それなりのレベルの高さを表しているようだ。

「じゃあ、よろしくネ?」

そう言って切った携帯を、そのまま彼女はバッグへと仕舞った。

「大丈夫か、?」

気怠げに息を吐き、眉間に指を当て固く瞼を閉じる神楽の顔色は血の気がない程、蒼白い。その余りの白さに、先程まで確かにあった甘美で妖艶な天女の面影はどこにも見当たらない。今は、どちらかと言えば、病弱な令嬢のようだ。

「ちょっと、休むわ‥」

個室の奥に置かれたセミダブルベッドの端に彼女が腰掛ける。さすがに横にならないのは、まだまだ自分が彼女に信頼されていないからか。

「顔色が悪過ぎだ。寝た方が良いんじゃねェの?」

俺の言葉に、無言で彼女は頑なに首を振る。
まだ会って2週間も経っていないのだ、信頼されていないのは分かっていた。が、このままでいるのも、彼女には酷なことだとは予想が付く。

「無理すんな。俺は部屋の入り口で待ってるから。お前はちょっと、休みなさいっつーの」

そう言って、冗談めかせながら彼女の小さな頭を小突けば、ふわり、と人形のように傾いた神楽の身体はそのままベッドシーツに倒れていった。

「ちょっ‥ワリィ、大丈夫か!?」

本当に何の抵抗もなく倒れていったものだから、小突いた力が強過ぎて彼女の意識が飛んでしまったのかと、嫌な予感で一瞬で顔面が蒼くなりそうだった。
恐々と彼女の顔を覗き見る。
雪のように白く、傷のない肌理細やかな肌には色がなく、長く繊細な睫毛に縁取られた青い瞳には、常に絶対的なものとして鎮座していたあの稀有な煌めきが見当たらなかった。

「神楽‥?」

無防備にシーツに横たわる少女は、視点の定まらない青い瞳のまま、何もない部屋の天井を眺めている。

「マジでだいじょ‥…」

生気のないその様子に冷や汗が出るほど心配になって、身を乗り出すように彼女の様子を伺い見る。その動作に、ぴくり、と反応した彼女は、突如その細い腕で緩んだ襟首を掴み、あり得ない程の力強さで引き寄せた。

「うおッ!」

思わず声を上げる。
バランスを崩した身体は彼女の上に乗り掛かる寸前、ベッドのマットに肘を付け、彼女の脚の間に身体が割り込んではいたが、なんとか少女を押し潰すことは防いだ。
互いの間の距離は僅か10pにも満たず、肘に入れた力を抜けば、このまま彼女をベッドに押し付けることも、今の状況なら、その華奢な身体を組み敷いてしまうことも出来る。

(って、何考えてんの俺ェェエ!?)

咄嗟に自分の考えを振り落とすように頭を振るう。いろいろとヤバ過ぎるだろ、と必死に頭の中を落ち着かせた。

「かーぐらちゃん?」

とぼけたように彼女を呼べば、至近距離にある少女の瞳が真っ直ぐに俺を見た。

「金‥ちゃ、ん」
「っ、」

濡れたように色付く唇から吐息に紛れるように零れた自分の名前を聞いて、首から顔にかけてサッと熱が走った。
空いた少女の手が俺の顔に掛った髪をやさしく払う。その白い指が、目の下の柔らかい部分を丁寧に撫でた。

「ふふふ、」

神楽が笑う。眼前にある彼女の笑みから目が逸らせない。

「顔、赤いわ」

受けた指摘に余計に顔が熱くなった気がした。気恥かしさと、むくむくと湧き上がる熱情にドクンドクンと心臓が加速する。

「神楽、」
「ふふふ」
「神楽‥っ!」

耐えられずに逃げるように顔を反らしても、襟首を掴まれて更に顔が近くなる。
互いの鼻先が触れ合う。うつくしい青い夜の瞳が真っ直ぐに見詰めてくる。

「待てが出来る子は、好きヨ」

疲労を消し去った凛として艶のある声が、たのしそうに笑って言った。そうして、不意に近付いた神楽の顔が軽いリップ音を残し左頬から離れていく。
"親愛の口付け"離れる瞬間、彼女は俺の耳元で、そう囁いた。






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