二 | ナノ




情報収集には、慣れている。「万事屋」という仕事をしていたため、情報には日常的に敏感になっていたし、それなりの伝手もあった。
神楽から手渡された写真に写っていた男は、最近日本にも進出している中国系マフィアの幹部だ。裏ではある程度有名な男だったため、奴と繋がっている店や組織は、だいたい調べが付いていた。
けれども、どうして神楽がそれらの情報を知りたがるのか、それだけは分からなかった。
この写真の男は、相当裏社会に通じている。単なる興味がてらに関わったなら、ソイツはすぐさま太平洋の海底に沈められるか、塩酸で骨も残さず消されるだろう。
そして同時に、情報が集まれば集まる程、男からは嫌な臭いがした。正確に言えば、男が、というよりはその組織全体が、である。
関わっていることが、どうにも臭い。彼らは、裏社会でもタブーとされていることにさえ手を出してる。これではいつか、"奴ら"に粛清されるはずだ。


金時は、息を吐き出す。調べた情報を脳内で整理しながらネオン煌めく夜の街を歩けば、約束のバーの前に到着した。

カランコロン

古い木製のドアを引けば、控えめな金属音が来店の合図を知らせる。顔見知りのマスターに軽く挨拶を済ませ、店内に入った。
室内は静かなクラシックジャズが流れ、仄かなランプの灯がその場の雰囲気をより落ち着いたものへとさせていた。
入口から離れた奥の個室へ、自分の足は無意識の内にも進んで行く。大抵、外で神楽と会う時は、特殊な構造となっているこのバーでも、更に特殊なある小さな個室を使っていた。その部屋へは、決められた順路を通らない限り、決して辿り着けなかった。


絹のような手触りのベールを潜って、シックな色と重厚な家具で統一された個室へと足を踏み入れると、静かに一人掛けのソファに座る彼女を見付けた。
細くしなやかな脚を組み、肘掛に肘を置きながら綺麗な指がシャープな顎に添えられている。
それだけで、一枚の絵画のようにさえ見える。彼女は、完全にこの空間を自分の背景として従えていた。それだけの、雰囲気がある。

閉ざされた瞼を縁取る長い睫毛が頬に薄影をつくっている。キメ細かい肌は透き通るように白く、形のよい唇は濡れたように色付いていた。

床に敷かれたの絨毯が足音を消し、意図的に消した気配のまま、ひっそりと彼女に近付く。眠っているのだろうか、呼吸の度微かに肩が上下していた。

彼女の足元に膝をつき、金時はまじまじとその顔容を眺めてしまう。目が離せない。眠ったその顔は、普段の完成された美しさの中にどこか幼さを感じさせた。
19歳なのだ、この少女は。
そんな事実が、じんわりと金時の胸を燻った。
無意識に少女の薄桃色の前髪を梳くと、さらり、とやわらい髪の毛が指先に触れる。

「ん、っ‥…」

小さな声が吐息と混じり、少女の唇から零れた。反射的に金時は触れていた右手を下ろしていた。
ゆっくりと瞼が上がり、その裏に隠れていたラピスラズリのような瞳が現れる。仄かなランプの灯を反射するその瞳は、息を飲むほど美しかった。

「‥…か…ぃ?」
「神楽?」

掠れた声が何かを呼んだ。目覚めきれていないのか、確かめるように彼女の名前を呼べば、瞬きを繰り返す少女の瞳は徐々に焦点を合わせていく。

「…‥金チャン、」

身じろぎ姿勢を正した神楽が呼んだ。そこには、あの幼さを消した普段の通りの雇い主がいた。







「随分、集めたのネ…。しかも、細かなものから機密な情報まで」

机に散らばった資料を手に取りながら神楽は言った。どうやら、俺のした仕事は彼女に認めてもらえたようだ。
目を細めて楽しそうに笑う彼女が白く細い指先で資料を整理する。纏めたそれらを封筒に入れ、腕に抱えたまま立ち上がった。

「どこか行くのか?」

個室から出て行こうとする彼女の背中に問いかける。ぴたり、と脚を止めて軽く振りかえる神楽は、先ほどよりも幾分楽しそうに唇を上げながらこちらを見上げた。

「ええ‥。ちょっと、彼に会いに」

そう言って、封筒を軽く持ち上げる。
それが意味する事は容易に想像できる。が、あの男を調べた自分からすれば、あまりにも無謀過ぎる彼女の行動が信じられなかった。

「はァ!?、…‥冗談か?」
「金チャン、?」

不思議そうに神楽が首を傾げる。
丸い青の瞳が血の汚れも知らないように(そんなはずない)、純粋な疑問を抱えて見上げている。
この少女は、血反吐臭い裏社会の常闇を知っているはずなのに、時たまそれとは無縁のきれい過ぎるカオを見せた。

本当に分からないのだ、この少女は。
考えていることも、抱える想いも、次にする行動も。
感情がないわけではないのに、その真意が掴めない。

「…‥本気か?」

確かめるように問えば、無邪気にきょとんとした顔を一瞬に変えて、神楽は笑う。甘やかに香る大輪の花が咲き誇るように、清純で妖艶な笑みを彼女は浮かべた。

「当たり前じゃない」

そう言って、颯爽と前を歩く彼女の背中は、揺るぎなく満ちる自信と孤高なまでに強過ぎる生き様が鮮明に反映されていた。









辿り着いたのは、何度か足を運んだことのある男の拠点地だ。裏路地に構えられた雑居ビルの一角にあるその事務所は、外観としては酷く貧相に見えたが実際に中へ入ってみるとそれなりの金を使った造りになっていた。

普通なら、こんな単純に中へは入れない。
ビルの入り口に立つ黒服の厳つい奴らに邪魔されるか、容赦なく銃撃されるかだ。
それが今回だけは、神楽が名乗っただけで、すんなりとしかも最上級の扱いを受けて案内されている。心なしか、案内人を務める男は緊張と恐怖に顔色を青くさせていた。


「お邪魔するわ」

無言で開いた木製の扉はシックな色の極普通のものだった。開かれた扉の先の小さな個室には、こじんまりとしたソファとローテーブル、そしてその奥には大きな書斎机が置かれている。

「っ!‥…お久しぶりです」

奥の机に座っていた男が慌てたように腰を上げ、一礼する。写真に写っていたキツネのようなあの男だ。

「そうね、フゥ。一年ぶりかしら‥」
「はい、兔子」

再び、恭しげに男が頭を下げる。それに笑顔で対応する彼女は穏やかな顔をしながら、その両眼だけが冷静だった。

「この部屋は大丈夫かしら?」
「向こうには普段と同じ情景が映っているはずです」
「ふふ、相変わらず仕事が早いのね」

親しげに行われる会話は、日本語と中国語が綯い交ぜになったもので全てを理解することはできなかったが、どうやらこの二人は顔見知りで、しかもそう短くない付き合いのようだった。

「兔子…、どうして急に、」

男が心配そうに眉を寄せた。写真の中では無表情で軽薄そうだった顔が、今だけは柔和に見える。

「嫌なウワサを耳にして、ネ」

神楽の言葉に男は一瞬瞠目し、僅かに顔を顰めた。

「事実でしたか?」
「確定は未だ。だけど、その可能性は高い」

言いきった言葉が、場の空気を張り詰めさせる。

「では‥…、」
「ええ、貴方にはそろそろ戻って来てもらおうかしら」

天女のように微笑む少女に男は再度、頭を垂れる。絶対の忠誠を示すように深く、重く。
見ているだけで、男の感情がありありと分かる。それだけ男の全てが、甘美な喜びに酔いしれ昂ぶっていた。

「尊意、我兔子」

男の声が、震えている。それを宥めるように、神楽が男の頭を優しく撫ぜていた。
50を超えた裏社会の男が、20にもならない少女の白い手を享受している。
その光景を目にしながら、嗚呼ここには自分の知らない世界がある、そう思った。

「ねぇ、フゥ‥。貴方に紹介したい人がいるの」

彼女の青い瞳がこちらを向く。にっこりと笑う少女は俺の腕を引いた。

「金時、よ。これから一緒に仕事することもあるだろうから、よろしくネ?」

絡められた自分の腕に寄り添う少女が、男に笑いかける。いきなり話に入れられ、少しだけ戸惑ってしまった。

「あの方は…‥、」

"あの方"と言った男は、困惑気味に神楽の様子を伺う。心配そうに神楽を見遣る男は、まるで彼女の保護者のようだ。

「ああ、神威?」
「‥はい。知っていらっしゃるのでしょうか?」
「いいえ。私個人で雇ったんだもの、伝える必要はないわ」

神楽の言葉に男は一瞬で顔を青くさせた。その様に眉を顰める少女は、怒ったように唇を尖らせる。そんな表情が普段見せない子どもっぽさを表わしていて、内心驚いた。

「何ヨ。別にいいじゃない」

きゅっ、と腕を掴む力が微かに強まる。それを宥めようと神楽の背中を軽く叩くと、ぴくりと華奢な肩が上がり、驚いたような澄んだ青と視線が合った。
それをチャンスと捉えて、長く閉じたままだった口を開く。

「ワリィ、神楽。ちょっと状況が読めねェんだけど」

そう言って、再度軽く背中を叩くと彼女はじゃれつく子猫のように目を細めた。

「ふふ、ごめんね金チャン。‥彼は、私の世話係をしていた、胡(フゥ)よ。金チャンが調べた"李皓東(リ コクトウ)"は、ここでの偽名になるわ」

偽名ということは、"李皓東"に関して今まで自分が調べた内容も正しいのか分からないということか。神楽の態度からして、敵ではなさそうだが一応確認はしなければならない。これでも自分は、彼女の護衛なのだ。危険か否かは、ある程度知る必要がある。

「仲間か、?」

そう尋ねれば、神楽は「そうね、」と小さく頷いた。

「でも、フゥは神威直属の部下だから。私の味方じゃないときもあるわ」

神楽は笑って男に同意を求める。それに男は耐えられないように視線を逸らしながら、「すみません」と謝った。

「いいのヨ。それが貴方の、役割だから」

気にしないで。と神楽は笑う。心底申し訳なさそうに神楽を見詰める男は、それでも気にするのだろう、小さく肩を落とした。

「フゥ‥、長居は無用ね。詳細は、また連絡するわ。貴方も気を付けて」

神楽はそう言って、無駄な肉のない男の頬を撫でた。男は一瞬だけ目を閉じ、そして深々と頭を垂れる。

「お気を付けて、兔子」

男の挨拶に軽く頷くと、神楽はここへ来たときと同じように颯爽と踵を返し、男に背を向けて部屋から去っていった。

「貴方も、お気を付けて」

自分に掛けられた言葉に、俺は何も言えず、ただ頷いていた。



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