一 | ナノ




世界には、裏というものがある。
そして自分は、物心つく頃からその裏側に呑み込まれ、抜け出せなくなった人間だった。
両親のことは今ではハッキリと覚えていない。ただ、生き残るための知識を教えてくれた人がいたから、然程困ることもなかった。

ある程度力が付くようになった頃、自分の戦闘力が他者よりも高いことを知った。
その力を生かして依頼される様々な裏方の仕事をこなし、生きるための金を稼いだ。依頼されれば何でも引き受ける。いつしか俺は、「万事屋」と呼ばれるようになっていた。

そうやって、我武者羅に生きてきた。

こんな裏世界でも生き延びれるように。ただただ、強くなりたかった。生きるために生きてきた。なんのために生きるのかを、考えもしないまま。

そうやって、生きてきた。












「ャ‥ン、‥……金チャン?」
「ぇ、ああ‥。悪ィ、どうした?」

ハッとして思考を戻すと、不思議そうに見上げる彼女がいた。
首元にファーを巻き、深紅のチャイナドレスを着こなす少女は、二十歳にもならない未成年だ。そんな、少女とも言えるような子どもは、都内の最高級ホテルのロビーで臆することなく上質なの黒革のソファの上で優雅に膝を組み座っている。
この少女は、最近出会ったばかりの己の新しい雇い主だ。
仕事内容は彼女の護衛。四六時中、彼女の用事に付き添い、いつ来るとも分からないに危険に神経を研ぎ澄ます。比較的楽な仕事だったが、報酬は十分だった。

「あんまりボンヤリしないでネ?そろそろ、行くわよ」

彼女は片耳に瑪瑙のピアスを付けながら言った。
結いあげきれなかった後ろ髪が、彼女の首筋にかかっている様へ無意識に視線が惹かれる。

「あー、了解了解〜」

そんな自分を誤魔化すように適当に返事をしながら手を上げれば、くすり、おかしそうに彼女が微笑む。それだけで、周囲の視線が彼女へと向いた。
これが計算のものか自然のものかは、分からない。が、どちらにせよ、彼女が他者を惹き付けるという事実に変わりはなかった。このロビーの中は、もはや彼女だけが登るステージのようで、観客と化した周囲の視線は自然と少女に注がれていた。
一挙一動が、他者を魅了する。そしてそれを、この少女は当たり前のように享受している。

やわらかい絨毯の上、彼女の半歩後ろを歩く。
エントランスにあるバカデカいシャンデリアと意味のわからない噴水を横目にエレベーターへと向かった。

俺は、少女が何をしているのか、知らない。「神楽」という名前以外、情報もない。単なる雇われの身であるため知る必要はないのだが、ここまで完璧に情報という隙を見せない彼女には、内心感心していたりもする。と同時に、彼女はそれを行うだけの必要性のある立場なのだと理解した。


チンッ

軽やかな音が到着の合図を知らせる。キッチリと制服を着込なすボーイのエスコートの受けて少女が進む。さもそれが当り前なような様子に、本当にこの少女は生粋のお嬢様なのだと思った。

扉が閉まる。
おもむろに、小さな箱が上昇する。
扉の右側に付けられた装置が現在地を教えてくれた。

「何階だ?」
「53階、最上階よ」

ガラス張りの箱の奥に寄り掛かり、つまらなそうに下界を見下ろしながら彼女が答えた。
薄暗いエレベーターのため、彼女の白く透き通った肌に下界から伸びるネオンの明かりが映り込む。普段は青い大きな瞳には、深海の中に閉じ込められた光ような揺らめきが湛えられていた。
小さな箱は上昇し続ける。素早く、そして確実に。
この空間が、永遠に続くようだ。そんな、錯覚。


チンッ

再び、あの軽やかな音がした。
どうやら、到着したようだ。


「ここで待っていて」

そう言って、彼女は颯爽と前へと進む。そこに、戸惑いはない。
華奢な背中が、その見た目に反して強靭な意思のように、真っ直ぐと伸びていた。
歩く速度は一定で隙がなく、それでいて誰も真似できないような優美さを持っている。足音は微かもしない。随分と、洗練された歩き方だった。


ふ、と思う。
自分は、本当に彼女を知らない。
どうして、まだ二十歳にもならない少女に、あんな動きが出来るのか。
どんな生まれで、立場で、そして何を抱えているのか。
本当に、何も知らない。


「らしくねぇな‥…」

正面に唯一ある扉へと消えていく少女の後ろ姿を眺めながら、微かに男は言葉を漏らした。









*****

手に馴染んだ小型のソレに付着したものをハンカチで拭い、太もものホルダーに仕舞う。手に入れたばかりの黒いUSBも、小さな布で包み手持ちのバッグへ仕舞った。

ふと息をつく。
然程動いたわけでもないのに身体中が重たかった。その憂鬱さを降り切るように少女は軽く頭を振るう。

(厄介なことになったわね、)

そう内心で愚痴を零しながら、視線を下げつつ携帯を取り出しコールさせる。ワンコールの後、若い男の声が答えた。

「お願いするわ。場所は、―――‥」

何をとは言わない。言わなくても、それは伝わる。だって彼らは、それを生業としている人たちだから。

『知道了』

簡単で事務的なやり取りを行い通話は終わった。
これで、この目の前の状態は片が付く。その軽い疲労感に少女は再び息を吐いた。

室内は、スイートルームらしく毛並みのいい絨毯と上質な家具によって装飾されている。たかだか情報のやり取りにこんな高級な部屋を用意したこの男は、本当に愚かだと少女は口端を歪めながら、今やもう動くことはなくなったその身体を視界に入れた。

こんな小娘に貴重な組織の情報も命も差し出して、この男は本当に愚かで哀れだ、と神楽は思う。
けれども、それに同情している暇はない、と少女はその思考を打ち消すように顔を上げた。
サッと素早く室内を見渡す。
自らの痕跡は、少しも残すな。そう、父の言葉が脳裏を過る。
最終確認を済ませた少女は、華奢な背中を伸ばし淀みない歩調のまま室内を後にした。








*****

「金チャン、お待たせ」

そう言って、彼女は微笑んだ。
あれから半時もしないで、彼女は部屋から現れた。見た目には異常なく、先程と変わらない姿に小さく息をつく。


「暫く、身を潜めるわ」

エレベーターを待ちながら、唐突に彼女が言った。

「その間、金チャンはこの男について調べてきて。報酬は、倍払う。その代わり、必ず価値のある情報を掴んできてネ」

悪戯気に笑う彼女から1枚の写真を手渡される。そこには、黒服の男たちに囲まれた50代ぐらいの身綺麗な男が写っていた。男の細い目に筋の通った鼻梁がキツネのようだ。

チンッ

エレベーターが到着する。
品よく装飾された扉が開き、その奥へと少女が進む。ふわり、すれ違う瞬間、淡い花の匂いに混じって、微かに鉄臭い血の匂いがした。

「‥どうしたの?」

動かない俺を見て、彼女が尋ねる。ガラス越しの夜空を背景に、不思議そうに少女が小首を傾げていた。
その繊細な顔容には、どこかひっそりとした薄闇がよく似合う。下界のネオンさえも入り込めない、深い裏の世界の気配が、彼女からした。


「殺したのか?」

零れた問いは、無意識のうちに出たものだ。質問した自分自身が、驚いていた。
その問いに少女は一瞬だけ目を見開いて、そして次の瞬間、どこか色んなものを諦めたように、力なく頬を緩めた。

「さぁ‥、どうだったかしら」

澄んだ声音が曖昧に答えた。





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