死が二人を別つまで、3 | ナノ
肺が酸素を求めて引き攣るたびに、無意識に舌打ちが出た。
蟀谷を流れる汗が鬱陶しい。身体も頭も熱く、重い。
「神楽っ、‥は、…はぁ…っ」
あの、クソ親父!!!
始めからこれが狙いだったんだ。神楽と俺を離して、勝手に進めようとした。人の想いなんて、気にもしないで。いつもアイツが、俺からあの子を遠ざける。いつも、アイツがいるから、神楽が迷うんだ。
「………‥チッ」
いや、違う。あの子が迷うのは、誰かのせいじゃない。
あぁ、落ち着け。今考えるべき事は、その事じゃない。
神楽が降りた場所は、あの交差点を左に約300m。ライトアップされた高級中華料理店の前だ。
肢体が重い。こんなに長いこと全力で走ったのは久しぶりだ。息が切れる。だが、まだだ。まだ大丈夫。
「クソ‥ッ、」
いつだったか、阿伏兎が俺たちの進む道は茨の道だと言った。
全く、同感するよ。
けれど、だから何だと言うのだ。そんな事で戸惑うようなら、最初から進んでなんかいない。そんな事で諦められるんだったら、こんなに必死になったりしない。
どうしようもないんだ。
あの子が欲しいと、俺の魂も理性も肉体も、全てが騒ぐ。
それを抑える術を知らない。抑えようとすら、思えない。
重いガラスの扉を開けると驚いた顔をして立っている黒服の男を押しやって、奥に進む。あの親父の事だ、この店は貸し切りに手配されているはずだ。そして使われる部屋は要人用の奥の小部屋。
「侵入者だ!逃がすな!! 」
背後から男たちの足音がやって来る。奇襲を受けたと慌てているのだろう、あの中には銃器を備えた親父の部下がいるはずだ。
こんな所で銃を放たれたら堪らない。あの子を傷付けでもしたら、この場を地獄に変えてやる。
走り続けていた足を止めた。ゆったりと振り返り男たちと向き合えば、あちらも警戒したまま拳銃を構え、睨み付けてくる。
低く、響かせた発音で声を出し、惜しむ事なく殺気を放つ。
「誰に対して、向けてんの?」
これが強者の証。
威厳と、恐怖と、絶対なる者として君臨する方法。唯一、親父から学んだこと。
「あ、貴方は‥
っ、銃を降ろせ!!」
中央に立っていた男が怒号を上げる。成る程、話が出来るやつがいるようだ。
「失礼を致しました、神威様」
膝を折り、深く頭を下げる男を見下ろす。どこかで見た事のある顔だと記憶の中を探すと、思い出した。
「久しぶりだね、矢城。
さっそくで悪いけど、神楽の所へ、案内しろ」
日本支部の幹部なら、あの子がどこにいるか、分かるだろう?
*****
「どういう、意味ネ‥…」
「言った通りの事だ」
出された料理を前に、女はその青い目を見開いて座っている。
そんな中でも自然と伸ばされた背筋と、上物の衣服が女の生まれを表していた。
伯父の旧友の娘であるこの女は、これから3年間、本家の屋敷で預かる事になっているのだが、どうやら本人は聞かされていなかったようだ。
「あと3年、アンタが成人するまで、家が変わるだけだ」
しかも一族当主の客なのだ、最上級の対応が約束されている。暮らしに不満はあるまい。
「なん、で」
「異国で娘を一人にはさせられない、だとよォ」
女の眉がわずかに寄った。理解出来ていないらしい。
「テメェの兄貴は、中国に帰るんだろう?」
さっき以上に大きな青い目は見開かれ、驚愕の様子を表している。本当に、何も聞かされていないようだ。さすがにここまでの反応をされると疑問が浮かぶ。この女の父親、裏社会に名を馳せる星海坊主は、何を考えているのか。
「自分の父親が何をしてるのか、知っているか?」
弱々しく首を振る女は、どうやら温室育ちのかぐや姫らしい。自分がどういう一族に生まれたのかさえ、知らないのだ。
音もなく溜め息をする。
どうしたものか。星海坊主に確認を取る必要がありそうだ。
「親父さんは来ねェのか?」
今日の会食には来る予定だったのだが、現れたのは目の前の女、ただ一人。
「わから、ない‥…。私だけ、‥降ろされて、ハピーも、兄ちゃんも、‥行っちゃった、ぁる…‥」
本当に、どうしたものか。事態は思った以上に深刻なのかもしれない。このまま泣き出しそうな女と一緒にいるのは勘弁だ、居心地が悪い。
「オイ、携帯を貸せ。親父さんと話す」
巧妙な刺繍が施された小さな中華風のバックから携帯が取り出され、渡される。先程から下を向いたままのこの女は、どんな表情をしているのだろうか。
個室を出て、廊下の壁にもたれ掛かる。目的の人物を探し、通話ボタンを押すと単調で荒いコール音がした。それが4、5回繰り返された後、プツリと音が止む。
『もしもし、「っ、銃を降ろせ!!」‥…』
低く重い男の声が応えるのと同時に、荒々しい怒声が反対側の耳から入ってきた。
若い男の声と、先方の幹部である矢城との話し声が聞こえてくる。
緊急事態か?
僅かに身構えていると、チャイナ服を着た若い男が現れた。直感的に分かる、この男は強者だと。見た目の柔和な笑みとは異質の存在感が空間を支配する。
「高杉様、神威様のお越しでございます」
神威、確かあの女の兄貴の名だ。
「今日の話し合いは無しになった。神楽は帰させてもらう」
躊躇なく個室に入り、すぐさま女を抱えて去って行く。
長い三つ編みが揺れる背中と、白く細い女の腕が男の首にしがみ付く様から、目を離す事が出来なかった。
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