3. | ナノ




久しぶりに訪れた我が家はひっそりと暗闇の中で静まりかえっていた。午後10時、いつもならあの子は帰って来ているはずだ。

(ついてない、)

家の鍵はとうの昔になくしていた。合い鍵を作ろうかとも思ったが、よくよく考えれば必要のないものだった。だってここには、あの子がいる。

(コンビニかなぁ)


早く、帰って来い。そしていつものように、受け入れて。
迷惑そうな顔をしながらも決して追い返そうとはしない愚かなあの子は、どこに行ったのだろう。

薄い灰色のコンクリートの床を眺めながら、黒い鉄製のドアに背を預ける。誰かを待つだなんて、己の人生にあっただろうか。全くもって記憶の中には見当たらない。


(ねむい、)

のっそりとした欠伸をすると、じんわり、涙が浮かぶ。成る程、待ち人というのは退屈なものだ。そしてなんとも、あやふやだ。向いていないと思う、自分には。むしろ、これ程までに不安定で影響をされやすい状態に、誰が向くというのか。



(あの子は馬鹿だ、)

何故、待つのだろう。
何故、耐えるのだろう。

父も母も、兄さえも。誰もがあの子を置いて行った。そして誰もが、あの子に望んでいる筈だ、己など忘れてしまえ、と。

傲慢で残酷で、切実な願い。あの子はそれを拒絶し続けている。そして己はそのことに、貪欲で深重な悦びを感じている。


(まったく、馬鹿らしい)

あの子も、自分も。
まるで、ぬるま湯のようなこの世界。温かくも、冷たくもしてくれない。どちらか一方だったら、きっと諦めも付くのだろうに。
















*****

野良猫のように丸まって眠る寝顔には、泣き腫らした名残の赤が残っている。


この少女が来たのは3時間ほど前だ。その時には既に、涙は容赦無く白い頬を塗り潰し、虚無感と疲労感がその小さな身体を取り巻いていた。


『そよちゃんが、行っちゃった』
嗚咽を漏らしながら肩を揺らし、少女は繰り返す。受け入れきれない現実をどこにも投げ出す事が出来ず、ただただ押し潰されかけていた。





ソファで眠る少女を抱き上げ、恐らくは中身など無いに等しい鞄を持って、外に出る。この少女の家は同じアパートの向かいの部屋だ。流石に、担任の生徒を自分の部屋で寝させたままにするわけにはいかず、少々億劫ではあるが、送り届けなければならない。


「そよ、ちゃん‥…」

玄関先で靴を履いていると、少女の身体がぴくり、と撥ねて、白く細い指先がシャツを掴む。



「神楽、」

14歳の少女には、その年齢とは不釣り合いに、多くの別れがあり過ぎた。そして正常なまま、自分と近い者を無くすのに慣れる事は、不可能である。それはもう、自分を壊すしかない。

お前はどうだ、神楽。

気高くあろうとするこの少女は、いったい何処まで堪えようと言うのか。























*****

後悔するのは質じゃない。ああすれば良かった、こうすれば良かった、そんなの埒が明かないし、無意味だとさえ思う。けれども人間は反射的に後悔をしてしまう。何故だろう?後悔なんてしなければ、苦しくなんてないだろうに。






帰って来なければ良かった。反射的にそう思ってしまった自分を捩じ伏せる。


「何してんの、先生?」

押し出した声は他人のモノのように遠く無機質だ。
僅かに見開かれた目に、ぴたりと止まった男の腕には小さくなった妹が抱き抱えられていた。
目の前のドアから現れた男は神楽の担任である先生だ。その職業とは似つかわしくないほど鋭い眼光は、少しの動揺を見せた直後、す、と細められた。


「帰って来てたのか、」

まぁね、
そう言おうとした唇は思ったよりも重たかった。


「退け、邪魔だ」

鍵を出し、ドアを開ける。その男の腕に抱かれて眠る妹は死体のように静かだった。精密な均等さを誇る顔容は、青白い肌とは対照的に目元だけが仄かに赤い。

理解不能だ、この状況も何もかも。そして酷く不愉快だ、この男も妹も自分さえも。



手慣れたように暗い室内を進み、迷いなく妹の部屋に入った男に下唇を噛み締める。

「よく来てんの、?」

ベッドに横たえられた妹は目覚める様子がない。その傍らに佇む男は、緩やかな手つきで桃色の髪を梳いていた。

「…‥いや、」

無表情な男は夜闇の黒に飲み込まれながらも、檻の奥底に潜む獣のようなその存在感は静かな畏怖を滲ませている。

(嗚呼、戦いたい)

きっと楽しい。
この男は一際輝く魂を持っている。そしてそれを持ち得る者は、例外なく、強いのだ。


「オイ、‥…」

男は立ち上がり、己の前に進む。合わさる視線は強く鋭く、まるで篝火のようだった。


「暫く、コイツの側にいろ」

「…‥は、?」

「今まで好き勝手やって来たんだろォが。だったらせめて今ぐれェ、コイツの側にいてやれや」

ベッドに眠る妹を見た。先程と同様に、死人のような静寂さが重たく包み込んでいる。

この子は、そんな事を望むのだろうか?

浮かんだ疑問に答える術は、何もなかった。



















後書き、

「愛しきカノジョの愛しきセカイ。」神威くん初登場です。

そして、まだ続きます。
次でラスト、かな。


10.12.31 古川、



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