2 | ナノ




「神楽、此処にいたんだ、」

記憶と変わらぬ、穏やかな声だった。昔の、優しいあの兄と同じだった。
だからこそ、張り裂けるようなこの想いが私を取り巻き、行き場の無い悲しみが底無し沼の泥のように、身体の奥底へ沈澱していったのだ。






「団長の知り合いか?」

金髪の大男は驚いたように口を開いた。

「あぁ、俺の愚妹」

無意味に微笑み続けるその顔があまりにも薄っぺらくて心底、殴り倒してやりたくなった。あぁ、本当に。何で今さら会ってしまったんだ。あの雨の日を最後に、二度と交わる事などないと思っていたのに。


「神楽、」

刀を戻しながら晋助が呼ぶ。潔く、綺麗な刃が漆黒の鞘に消えていった。

「部屋に戻れ」

無言で私は彼の背中を見ていたが、それ以上、男は何も言わなかった。

ふわり、風が吹く。
柔らかく暖かな風。
(二回目、あるナ…‥)


あぁ、なんだか寝たくなってきた。今すぐ暖かい布団の上に丸まって、昼寝してしまいたい。そしたらきっと、このぐしゃぐしゃの感情も重苦しい痛みも、安らかになる。

ふ、と空を見た。
透明な蒼。ずっと同じ。どこまでも、ずっと蒼。
傘を手に持って、歩く。歩きながらでも眠ってしまいそうだ。


「またネ、神楽」

そんな言葉が聴こえても、振り返る気にはならなかった。








窓から覗く空は蒼色に飽きてしまったのか、今では眩しい赤色に染まっていた。けれどもこの色も、どうせすぐに飽きて仕舞うのだろう。そしてきっと静かなる紺か沈黙の黒になりたがるのだ。全くもって、飽きっぽい奴。これではまるで、アイツみたいだ。


布団の上で伸びをする。ぽきり、肩が鳴った。ついでに腹も。白いごはんが食べたい。

重い左腕を持ち上げて夕日にかざす。少しだけ暖かかった。
(痛い、)

アイツに掴まれた手首がうっすらと赤黒く変色している。
(加減、しろよナ)


どうせこんな傷も、明日になれば消えている。それで良い。アイツの事で傷付くのはもう嫌だ。私の身体も精神も、神威をシャットアウトする事を望んでいる。


「に、‥ちゃん」

兄ちゃん、兄ちゃん、

私ね、
少しだけ、寂しいよ。

どうしてこんなに、遠いのかなぁ。唯一無二の、兄妹なのに、ね。


「‥…馬鹿らしいアル」

わざとらしく深い溜め息を吐き出して、堂々巡りの自分の思考を笑い飛ばしてみる。全くもって、馬鹿らしい。




コンコン、

ドアを叩く音がした。晋助ではない。あの男にこんな気遣いなどあるわけがない。


ガチャリ、
(なっ、!ちょっと待ってヨ、返事してないダロ!)

ドアノブが回る。
これではノックした意味がないではないか。




「やぁ、」

(何が、"やぁ"、だ)

ドアの向こうには、兄が立っていた。










*****

赤い着物を着た妹は朧げな記憶の中よりも、随分と大人びていた。


「やぁ、」

声を掛ければ、即座に歪んだ顔は一瞬の内に削除され、代わりに気怠げな無表情がこちらを睨む。先ほど着ていた着物は皺だらけだ。弛んだ襟元はだらしなく、右肩からずり落ちている。

6畳ほどの小さな和室には窓にテレビ、布団に箪笥があり簡素で質素な状態だった。それが何とも、故郷にあったあの家や今の自分の部屋と似ているものだから、不思議である。これも遺伝だろうか。


「もしかして、寝起き?」

桃色の髪の毛はおかしな方向へと撥ね、布団の上へと投げ出された2つの脚は無遠慮に、はだけた着物の裾から覗いている。白い皮膚と赤い着物のコントラストが印象的で、やけに毒々しい。

「何の用アルか?」

澄んだ高い声と澄んだ青の瞳は、微かな冷酷さを見せた。何だ、あの甘っちょろい弱さからは卒業したのだろうか。


「いつから、ここに?」
「もう直ぐ、2年」

「母さんは?」
「お星サマになったネ」

「いつ?」
「6年前、ぐらい」

淡々とした会話は事務報告のように進んでいった。


「神楽は、何処にいたの?」

「‥…、?」

スローモーションのように、ゆっくりと首が傾き、変わらずの青が真っ直ぐと、こちらを見詰めていた。

「母さんが死んでから、神楽は、何処にいたの?」


青い瞳が一度、瞬きをする。それから少しだけの間を開けて、おもむろに口を開き、

「…‥‥」

けれども言葉は、何もなかった。代わりに無表情だった瞳が、僅かに不安定に揺れている。その反応だけで十分だった。

あの星で子供が生きるのに、選択肢などありはしない。そして夜兎ならば、尚更だ。


「どうだった?初めての殺しの感覚は、」

この幼い妹は、どうやって生き抜いて来たのだろう?そんな疑問は、直ぐに答えは出てしまうし、それは当然の成り行きだった。

「あっけ、なぃ‥…」

高い鈴音のような声が唇から漏れ落ちる。

「楽しかった?」

そう尋ねれば目の前の妹は空中を見上げ、逡巡し、そして最後に口元を歪めるという決断に至った。

「…‥虚無感、」
「へぇ、‥…神楽にしては、難しい言葉を知ってるね」


歪んだ口元は眉間にも伝染していったようだ、さっきまでの冷酷さは何処かへと引っ込んでいた。

「虚しさしか、‥…感じなかったアル」

頼りなく下がる眉と細められた両の目は、彼女の悲しみを表しているように思えた。
夜兎は、宇宙最強の傭兵民族だ。その事実は女子供だろうと関係ない。ただ戦力としてのみ必要とされ、戦争の最前線へと投げ込まれる。
殆どの夜兎は、そんな事には無関心だった。むしろ、戦いの興奮と快感に己の全てを捧げている。利用されようが、さまれいが、どうでも良い。本能の赴くままに戦うのみ。

しかし、どうやらこの子兎は違うらしい。まぁそれは、幼い頃からそうだったが、この愚妹は、夜兎の本能を抑えてしまう節がある。

「まったく、お前は難儀だね」

そうやって苦しむぐらいなら、そんな心など、捨てて仕舞えば良いのに。

「お前は楽そうアルな」

皮肉のつもりなのだろう、口元がニヒルに笑う。けれども駄目だ、目がちっとも笑ってない。そんな辛そうに歪んだ青じゃ、逆効果だ。

「あはは、…‥俺には苦しむ要素がないからネ」

靴を脱いで、よれた布団に座る妹の側まで歩けば足裏には畳特有の感触がした。
窓の外から暮れ掛けた夕焼けの明かりがじんわりと射している。地球は日が暮れるのが早い。沈む太陽の代わりに冷涼な月が表れ、もう直ぐ此処にも夜がやって来る。


「ちゃんと食べてる?」

撥ねる桃色の髪の毛を己が持ち得るだけの丁寧さで撫で付ける。一瞬、身体を硬くした少女はじっと伺うようにこちらを見詰めていたが、言葉を発する代わりに微笑みを返せば、ふっ、と青い瞳は閉じられた。


「腹、八分目‥…」
「はは、鬼兵隊の総督さんに抗議しておかなきゃネ」

ふわり、と緩いハグをする。思っていたよりも小さくて軟らかくて、自分の知らない間にもちゃんと成長していたのかと、何だか苦笑いが出た。

普通の兄妹だったなら、この子の隣には、自分がいたのだろうか。共に戦場を駆け巡り、旅を続け、腹一杯の飯を食べながら、日々を過ごす。


嗚呼、きっと幸せだった。
けれどもきっと、有り得なかった。自分の事は自分が一番分かっている。現実はこうも、殺伐としていた。


「神楽は、いつまで此処にいるの?」

太陽の明かりが名残惜しげに辺りを漂っている。そして空の一部はひっそりと紺色に変化していた。


「知ってたアルか?人間て、案外強い生き物アル。特に侍は強くて真っ直ぐで、ちょっぴし憧れちゃうネ」

人間が強い?
侍って、何?

「だからネ、最後まで見ていたくなっちゃうのヨ。
夜兎とは違う強さを持って、侍が進もうとする道を、その未来を、」


上手く理解が出来ずに妹の顔を覗き見れば、そこには何とも憎らしい程の幸せそうな笑みがあった。

アレ、何だろ。肺が苦しい。

「いつまでかは、分かんないアル。でも、‥…今はまだ、此処にいたいのヨ」

呼吸が詰まる。身体がざわめき、指先が痺れた気がした。


「…‥あの総督さんでも気に入った?」

ゆったりと口角を吊り上げれば、青い瞳の妹は訝しいげに目を細めた。

「晋助、?‥…そうアルな、アイツはまさしく侍アル」


侍、ねぇ。
そんな生き物の何が良いの。所詮は人間じゃないか、あまり期待は出来ないよ。

「ふふふ、」
「何笑ってんの、」
「信じられない、って顔してるネ」

にんまりと笑う妹は、愉快だと言わんばかりの上機嫌。
ちょっと癪なんだけど。昔はあんなに餓鬼んちょだったのに、今じゃ強気な艶っぽさがやけに様になっている。

「強いアルよ、侍は」

背中に回される腕は細く温かい。開けた着物の襟から覗く肌も白く柔らかそうだった。
(これで晒し巻いて無かったら欲情してたかも、ネ)


「へぇ、是非とも一度、手合わせしてみたいな」

特にあの総督さんとか。うん、なかなか悪くない。

赤い着物ごと細い腰に腕を回して、額と額を軽くぶつける。強く光る青色が不思議そうに見上げていて、少しだけ懐かしいあの感情が、兄としての不確かで温かな感情が、ふわりと魂を撫でた。




コンコン、

あぁ神楽、お別れの時間だ。


「いつでも俺の所へおいで。今のお前なら、春雨でも生きて行けるから、」


最後に一度だけ微笑んで、

「また会おう、神楽。
そしていつか、お前の言う強さを見せてごらんよ」

華奢な腕を自身から解いて、立ち上がる。


「阿伏兎、今行く」

ドアの外に待機しているであろう部下に呼び掛ける。そこには懐かしい甘さなんて、ありゃしない。


「弱い奴には用はない。お前が何処まで強くなれるか、楽しみだ」

部屋の前には厳つい金髪の部下が複雑に眉間を寄せて待っていた。背後でドアが閉まる。その音を機に、俺の世界は渇き始めた。









*****


「良いんですかィ、団長」
「何のこと?」


甲板に佇む上司はさっきから空ばかりを見上げている。

「妹さん、このままで」

この兄貴があの少女を探し始めたのはいつからか。2、3年程前に突如として団長は里帰りをし、そして直ぐに帰って来たと思ったら、その顔色は蒼白だった。
戦場を駆け巡りながらも何かを探していたのは知っていたが、それが妹だとは思いもしない。そもそも妹がいた事さえ知らなかったのだ。


「此処に居たいんだって」

珍しく、聞き分けが良いじゃねぇか。無理矢理にでも連れて行くかと思ったが、余計な気苦労だったらしい。全くもって、有り難い。これ以上あの総督と仲違いするのはヒジネスに悪影響だ。


「そーですかィ、」

さっきはあんなにキレてたじゃねぇか、と言う言葉は出かかっても口にしない。まだまだ死ぬのは勘弁だ。
この甲板で、あの総督と妹さんのキスシーン、見た瞬間、死ぬかと思った。殺気がヤバ過ぎるだろ。到着してもねぇのに勝手に乗り込んじまうし、暴れ出すし、ふざけんな。


「何、?言いたい事あるなら早く言いなよ」

そんな笑顔向けられても殺気が滲んでますぜ、団長さん、無意味だろーが。


「‥……へいへい、何でもありませんよ」

取り敢えず口は災いの元、だな。





家族愛?、兄妹愛?
コレは、何?

捨てた筈の感情は、魂の奥底で溶けきらない砂糖のように、沈殿している。









後書き、

神威くんがずっと神楽ちゃんを探していたら、という古川の願望です。


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