気づかないふりをして
「休憩しませんか?」
書き物をしている背中に声をかければ端正な顔が少しだけ振り向いた。僕と時計を見比べてそうだなと伸びをする。窓から差し込む月明かりと暖かな色のランタンに照らされた顔はいつも通り美しかったが疲れの色が浮かんでいた。
「父さんからカインさんが一日書斎に引きこもっていると聞いて。急ぎの仕事なのですか?」
聞いたままを素直に問いかければ彼は苦虫を噛み潰したような顔をする。ため息をつきながらソファへと腰を下ろした。
「元話といえばあいつがやるべき仕事を忘れていたせいだぞ。俺はその尻を拭っているだけだ」
全く…と呆れ顔をする彼に苦笑する。彼があいつと呼ぶのは父親だけで。たまに変なところで天然を発揮する父親に彼は手を焼いているようだった。すみませんと代わりに謝ればお前が気にすることではなかろうと彼も苦笑する。お互いひとしきり笑って持ってきたカップを手渡した。
「息抜きにはそぐわないかとも思いましたけど…今日町のお店でいいワインを見つけたんです。寒いしそれをホットワインにしてみました」
「お前が作ったのか?」
「はい。味見はしてないので自信はないけど母さんのレシピなので大丈夫だと思います」
まさか飲んではいないだろうなと言いたげな顔にきちんと頷く。酒はまだ早いと日頃両親から言われているため彼の分だけしか作ってはいない。母親から飲ませちゃダメよと釘を刺されている彼は両親同様僕の飲酒に厳しかった。…飲みたいとも思わないからそれは別に苦ではないけれど。
ならいいが…とカップを受け取った彼は立ち昇る湯気に目を細めた。
「いい香りだな。」
「お店の人が今年はワインの出来がいいと言っていました。僕はまだわからないけど…」
「飲める歳もまだだがこの味が美味いと感じるにはまだまだかかるだろうな。」
フッと息だけで笑う彼は静かにカップを傾ける。美味いなと一言そう言うとしばらく黙ってワインを口に運んだ。美味しいと感じてくれているらしい彼の表情を見ながら自分にも何か作ってくれば良かったと思った。石造りの書斎は暖炉があるものの冷気が漂って寒いのだ。
「夜の書斎は冷えませんか」
「書物をするには頭が冴えていい。凍えない程度に暖炉があるしな。…寒いか」
彼は戦士の癖なのか些細な事にもよく気づく。僕が何か答える前にワインのカップを僕に持たせると暖炉に薪を足しに立った。まだ温かいカップから両の手にじんわりと熱が広がる。果実を入れて温めたワインからはなんとも美味そうな甘い匂いが立ち上ってきて思わず顔を近づけた時だった。
「駄目だぞ。」
カップを覆う様に目の前に大きな手が割り込んできて思わず動きが止まる。大きなわりに細い手がそっとカップを奪っていった。
「まだ、早い。」
ゆっくりと言葉を紡ぐと彼は僕の隣に腰掛けた。空気の動きと共に甘い匂いが鼻を抜けて思わず目を閉じる。
「僕にはまだ早いですか。」
ワインの事だけじゃなく。なんとなく彼の言い方に含みを感じて何をとは言わず問いかければもう一度、同じ言葉が返ってきた。いつならいいですかと聞きかけた言葉を飲み込む。代わりにただ少しだけ彼の側に寄った。