30.泥濘




 隠により再び蝶屋敷に蜻蛉返りした面々の様子はどれも似ているようで異なっていたと思う。
 炭治郎なんて怪我もろくに治ってないくせに煉獄家へ出向いたと思ったら、帰ってくるなりしのぶさんの目を盗んで鍛錬した。伊之助も、朝から晩まで走り回っていたように思う。柄にもなくギャン泣きをしていたくらいだ。きっと凄く悔しかったのだろう。
 伊之助だけじゃない。炭治郎も薫も、いつも前向きな三人は余程堪えているようだった。 

 特に、薫の様子は無限列車の一件から驚く程一変した。

「薫、入るよ?」

 すっかり日も沈んだ頃になっても、やっぱり姿を見せることのなかった部屋の主にもう何度目かの安否確認を送る。案の定、返ってこない返事に鼻から小さく息を吐く。
 縁側に面した部屋の障子をゆっくりと開ければ、静まり返った空間に朧気な月明かりが一筋射し込んだ。簡素な部屋の中心に、ここの主はまるで芋虫のように布団に蹲ってそこにいる。

「明かりも灯さねーで何してんだよ…。ほら、腹減ってるだろ?握り飯持って来たんだ。食えよ」

 当然のように枕元に座り、おにぎりを置いてみる。それでも誰もいませんよとばかりに返事はない。ふと傍へ視線を落とせば、暗闇にツヤツヤと光るどんぐりが無造作に転がっているのが見えた。
 ああ、伊之助の奴か。何て頭の片隅で思う。どういった意図でこの木の実を供えてるのか謎だが、多分、俺の言う所の握り飯的立ち位置なんだろう。女心なんて分かったもんじゃねーななんて悪態をつきそうになったが、これも奴なりの精一杯の励ましなのかと考えるといつもみたいに茶化す気にすらなれなかった。
 ただ何をする訳でもなくそのどんぐりの一つを拾い上げてまじまじと見てみる。すると、漸く膝元の芋虫がもぞりと身動いた。「善逸」とカラカラな喉が俺の名を呼ぶ。

「私さ」

「うん」

「私さ、実は凄く打たれ弱いんだよね。炭治郎に初めて会った時もこんな情けない格好でさ、本当に弱くて、自分が情けないんだよ。本当に、不甲斐ないの」

 まるで自分に言い聞かせるような口調で、ポツリと話し出す姿はいつになく弱気だ。いや、本当は最初から弱気なのを俺はよく知っていた。出会った時から、強気に振舞う言葉の裏に沢山の恐怖と不安が雑音となって俺の耳に届いていたのをよく覚えている。薫は俺なんかと同じにされたくないかもしれないけど、それこそ似ているななんて思ったくらいには。
 それでも悟られないようにしているものだから触れないようにしてはいたけど、きっと本当は、こんな環境にいるのが不釣り合いなくらい普通の女の子なんだ。憎悪と理性の狭間で揺れて、刀を振ることでしか感情の収拾が付かない、不器用な女の子だ。
 運がいいのか悪いのか、ある意味薫の人生を左右させたのは生まれ持ってしまった剣技の才だったかもしれない。それさえなければ、今頃心が折れて蹲ることもなかったかもしれないというのに。なんて、最終選別で死ぬ予定だった俺が言うのも変な話かもしれない。

「でもさ、弱気なこと言ったら木刀が飛んできそうって言うか湖に投げ捨てられるって言うか、はたまた山に置き去りにされると言うか」

「…どういう環境で育った訳?」

「怖くて善逸みたいに感情を吐き出せないんだよ。頭悪いからさ、一方通行が遮断されると身動き取れなくてポッキリ折れちゃう。だから、善逸が羨ましいよ」

「それよく言うけど、俺からしたら向こう見ずで突っ込んでいけるお前らのが羨ましいけどね」

「ははっ…結局ないものねだりだね」

 久しぶりに見た薫の顔は目の下の隈のせいで褒められたもんじゃなかった。自嘲気味に笑って、申し訳なさそうに項垂れている。
 自分でもこのままじゃいけないって分かってるんだろうけど、どうにも弱い心は彼女を布団に縛り付けている。私なんて、とか思ってるんだろうな。いつも自分はもらってばっかりだったから、いざこっちの立場になると如何せんどう振る舞えばいいのか分からなくなる。

「それでも、蹲ってたって仕方ないだろ。どんなに辛くても、心を叩いて立ち上がんなきゃ俺達みたいなのはどうしようもない。俺だってここから逃げ出せるものなら逃げたいよ。鬼怖いし。人は呆気なく死んじゃうし。でも、そんなことしたって何にもならないの」

「…分かってる」

「俺、そろそろ行くよ。また様子見にくるから」

「うん…ありがとう」

 そう言っておにぎりを置いたまま立ち上がる。此方に背を向けたのを一瞥し、纏わり付くように暗い部屋から出た。障子を閉める前に振り返ってみたが、薫が俺を見ることはなかった。



***



 蝶屋敷の人までもが様子を見にくるものだから、遂に私の心中は罪悪感と情けなさでいっぱいだった。こんなことしてる場合じゃないって?そんなの、悲しみに嘆く間も無く鍛錬に励む面々を見れば痛い程分かっている。
 それでも、とてつもない不安が私を襲って仕方なかった。こんな調子で剣士をやっていけるのかとか、また誰かを失ってしまうんじゃないかとか、そういった恐怖が私を蝕んで足が竦んでしまう。
 これが精神的外傷ってやつだろうか。なほちゃん達にいつかそんなことを言われた。なんともちっぽけな心だ。とてもじゃないが、柱である胡蝶さんにこんなこと、言えやしない。

 こんな自分が恥ずかしくて、いっそどこかに消えてしまいたかった。誰も悲しまないような、消えてしまわないような世界に行けたらいいのに。そんな戯言すら出てきて、自分自身に虫酸が走った。

 ―――― そんな時だった。障子の先からドスドスと廊下を踏みしめる足音と、「やめてくださいぃい!」「そっとしてあげてくださいぃ!」と慌てる女の子三人の声が聞こえてくる。
 何事かと体を起こせば、壊れそうな勢いで開かれた障子から眩しい程の陽光が射して、思わず手を目前に翳した。人影が眩しくてよく見えない。目を細めると、人影が突如私の腕を強く引っ張って、無理やり外へ引き摺りだした。

「痛い!」

「伊之助さん乱暴なことはやめてくださいぃ!」

「うるせぇな!いいからついて来い!」

 眩しさに慣れた両目が、ズンズンと私を引っ張る猪頭の後頭部を見付けた。顔は見えずとも、纏う雰囲気が怒りに染まっているのを肌で感じて、思わず俯いてしまう。

 反応が遅れたのはそのせいだったと思う。気付けば私は宙を飛んでいた。は?と思った頃には既に遅く、されるがままの体は真っ逆さまに中庭の池にぶち込まれていた。勿論、伊之助によって。

 「キャァアア!薫さぁあん!」と遠くで女の子の叫びがくぐもって聞こえてきた。水の中だから当然だ。悠々と胡蝶さんが飼育している鯉が頭上を泳いでいく。それを他人事みたいに見送りながら、急速に冷えていく体に勢いよく水面から顔をだした。
 鼻に水が入って痛い。着物が冷たい水を存分に吸って、ズンと重い。両足は自由な筈なのに、まるで泥濘にはまったかのようにいつまでも動かないのがもどかしい。

「ゲホッ!ゴホ、はッ…何、すんのよ」

「…少しは頭が冷えたかよ。いつまで夢見てんだ馬鹿女」

「このッ…!」

 にべもなく言ってのけた猪頭に、カァっと頭に血が上った。今にも殴り掛かろうとして拳を振り上げれば、なほちゃん、すみちゃん、きよちゃんが伊之助の背後で泣きそうになってるのが見えて、のぼりきった沸点が途端に冷静になる。
 行き場を失った拳が力なく垂れた。ポタポタと、着物から滴った水が足元に水溜りを作っていく。これは、アオイちゃんに後で叱られるななんて思いの外冷静に思ったのは、私が事の発端を誰よりも痛感していたからだ。

「殴らねぇのかよ。ま、今のお前のひょろひょろな拳なんて俺様からしたら屁でもねぇけどな!」

「…うるさい」

 偉そうに仁王立ちして見下ろしてくるこの男が、果たして甲斐甲斐しくどんぐりを運んできた張本人なのか。いきなり池に落とすなんてあんまりだ。それか、いつまでもうじうじしている私に嫌気がさした結果なのかもしれない。
 それもそうだろう。必死に鍛錬している傍で、いつまでも引き篭もっている存在は余程鬱陶しいに違いない。

「テメェ、死ぬまでそんなことしてるつもりか?んなことしてたって、死んだ奴は帰って来やしねぇって言ってんだろーが」

 指の先まで冷え切るような低い声。ああ、やっぱりなと思う。何も言い返せなくて、堪らず両手で前の着物をぎゅっと握った。怖い。見捨てられるのかな。この期に及んで未練たらしい私を、一体どうしてくれようか。

「私は…伊之助みたいに真っ直ぐになれないよ。こんなに弱いのに、そんな人間がこれから人を助けることなんてできるのかな…」

「嫌なら鬼殺隊を辞めればいいだろ。俺は止めねぇ。お前の意思を尊重するからな」

 偶に、本当に山育ちか?と疑うような言葉が出てくるから困る。ぐっと言葉を詰まらせた私に、伊之助は尚も冷静に腕を組んで私を見据えた。
 確かに、嫌なら辞めれば良い。常に死と隣り合わせのこの世界で、恐怖に鬼殺隊を辞退する隊員は少なくない。あの人には荷が重かったんだなって、誰も咎めることもなくうっすらと痕跡ごと消えていくだけだ。
 そういう手だってあった筈なのに、どういう訳か私はその考えに至ることはなかった。はて、何故だろうと考えてみる。

 ―――― 胸を張って生きろと、どんなに己の弱さに打ちのめされても心を燃やせ。歯を食いしばって前を向け。あの人、煉獄さんは確かに死に際でそう言った。
 私はきっと、辞めたくない。仇を討つことだけが私の生きる意味だった。果たしてそれに意義があるかと聞かれたら答えられない。この選択は間違っていなかったって信じたい。でも、それ以上に守りたいものができてしまったから、私はここにいるんだ。

「弱気なことばっか言ってんじぇねぇ!弱いって思うなら強くなるしかねーだろが!」

 自信なんてないけど、でも、あの人が背中を押してくれたから、今度こそ期待に応えたい。少しで良い。完璧に守るなんて大層なこと言わないから、少しだけ皆を助けられる力が欲しい。

「ごめん、伊之助…ごめん」

「泣くんじゃねぇッーー!!いい加減にしないとぶっ殺すぞ!」

「ひ…う…うわぁあああん殺さないでぇええびヤァアアア!」

「ちょっと!一体何の騒ぎですか!?」

 とうとう座り込んで泣き叫ぶ私に騒ぎを聞きつけたアオイちゃんがすっ飛んで来た。ずぶ濡れの私と、キレ散らかす伊之助を交互に見て至ったであろう考えに、アオイちゃんは目を吊り上げて伊之助を怒った。

 どうか、今だけはその怒鳴り声を私に向けてくれやしないか。そう言いたかったけど、止まらない嗚咽に叶うことはなかった。この汚い感情と、己の弱さが、滴る水ごと流れていってくれたらいいのに。そう思わずにはいられなかった。




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