22.訓練




 私が気まずい思いをしている一方で、伊之助は何事もなかったかのように日々を過ごした。そんなある日、今日から機能回復訓練というものが始まるらしく、相変わらずの美貌をぶら下げた胡蝶さんは既に完治に近い炭治郎と伊之助を連行していった。仲良く毒にやられた私と善逸は遅れて参加ということだった。
 「いってらっしゃい」と珍しく病人服を纏った背中に声を掛けると、「おう」と何とも普通の返事が返ってきたので私はまたしても顔を顰める。伊之助の頭の中がさっぱり分からない。どういうつもりで私に接しているのか、皆目見当もつかなかった。お恥ずかしながら、生まれてから殆どと言って良い程異性との交流がなかった私だが、昨日の彼の行動が何を意味しているのかは、考えずとも理解できた。あれは、男女の語らいの一種だ。謂わば愛情表現だ。
 近付いてくる美しい翡翠を思い出して、ボッと効果音がつきそうなくらいに顔面に火がつく。突然真っ赤になった私を、横から善逸が「え、どうしたの…」と変なものでも見るかのような目で凝視してきた。

「な、何でもないよ!全然平気!この部屋なんか暑くない!?」

「いや、普通だけど……また熱でも出てきたんじゃないの。寝ときなよ」

 探るような視線に耐え切れず布団の中に潜り込む。落ち着け私と火照った頬を押さえるものの、熱は一向に引かない。…そうだ、あれは微妙に唇からずれていたし、口吸いどころか口付けにも入らないんじゃないか。経験したことはないが、あの行為はきっと男女が唇同士を合わせてするものであって、私達がしたものとは似て非なるものの筈。
 そもそも、あの完璧なまでの山育ち兼世間知らずが意味を分かってやったとは到底思えない。女性との交流なんて全くもって興味なさそうだし、誰もが羨む美貌の裏側は常に強くなることで頭が一杯だ。結局辿り着くのは、じゃあ何故あんなことをした?という初期と何ら変わりない疑問だ。伊之助が何か行動を起こす度に、その真意が読めずぐるぐると同じ結論に辿り着く。
 
 もう、意味分かんないよ…。

 
 訓練から戻ってきた二人は酷い有様だった。ゲッソリと目は虚ろで、覚束ない足取りのまま寝台に滑り込む。何の感想も言おうとしない二人に、当然善逸は未知なる恐怖に叫んだ。「何があったの?どうしたの?ねぇ」と半泣きの善逸に、あの炭治郎も背を向けてただ「ごめん」とか細い声で答えた。
 一体何があったんだと善逸と顔を見合わせて震える。明日から私達も参加するのに、こんな姿を見てしまっては流石に怖気付く。とはいえ、長期間の寝たきりで身体はすっかり鈍っていたし、早めに感覚を取り戻さなければ出遅れてしまう。寝付けなくなってしまった善逸を慰めながら、うとうとと夢の中へ落ちていった。


***



 連れてこられたのは広い訓練場。沢山の湯呑みを乗せた机の横には同期のカナヲが。横一列に正座させられた私達の前にはアオイが仁王立をしていた。キビキビしていてしっかりしているなぁと見ていると、「善逸さんと薫さんは今日から参加ですのでご説明させていただきますね」とアオイが早速私と善逸の為に訓練の説明をしてくれた。

 まずは”柔軟”。すみちゃんなほちゃんきよちゃんにより、寝たきりで硬くなった身体を解される。その次は”反射訓練”。カナヲの前に置かれている湯呑みには薬湯が入っている。それをお互いに掛け合うのだが、湯呑みを持ち上げる前に相手から押さえられた場合は動かせなくなる。つまり、妨害を潜り抜け相手に薬湯をかければ勝ちということだ。最後は”全身訓練”。端的に言うと鬼ごっことのことらしく、アオイとカナヲが相手だ。

 ざっと説明が終わったが、特に嫌悪感のある訓練もなく、ごく普通の回復訓練に見える。炭治郎と伊之助があんなに落ち込む要素が全く見受けられない。だが再度説明を受けただけでも、両端で負のオーラが漂ってくるのだから不思議そうにしていると、突然俯いていた善逸が低い声で「すみません、ちょっといいですか」と立ち上がった。

「何か分からないことでも?」

「いや、ちょっと。来い二人共」

「え?」

「二人だけ?私は?」

「薫は問題ないんだ。俺は二人に話がある」

「行かねーヨ」

「いいから来いって言ってんだろうがァアアアァッ!」

 恐ろしい剣幕で怒鳴りだした善逸に一同がギョッとしていると、女性陣を他所に、あっという間に炭治郎と伊之助の襟首を掴んで罵声を浴びせながら引きずって行った。さながら地獄への誘いのような出来事に困惑したアオイと目が合う。善逸が何に怒っているのかさっぱりだが、間違いなく彼と出会った中で一番の怒り具合だ。

「…何か気に触ることでもありましたか?」

「多分、そうじゃないような気が…」

 そんなに遠くへ行ってはいないのか、善逸の怒鳴り声が聞こえてきた。内容が気になり、皆で耳を済ましてみる。

「女の子と毎日きゃっきゃきゃっきゃしてただけの癖に何をやつれた顔して見せたんだよ!土下座して謝れよ!切腹しろ!」

「何てこと言うんだ!」

「黙れこの堅物デコ真面目がッッ黙って聞けいいか!?女の子に触れるんだぞ!身体揉んでもらえて、湯呑みで遊んでる時は手を、鬼ごっこの時は身体触れるだろうガァアア!女の子一人につきおっぱい二つお尻二つ太もも二つついてんだよッ!擦れ違えば良い匂いするし見ているだけでも楽しいじゃないッッッ!!幸せ!うわぁああ幸せ!!」

 周辺の体感温度が二、三度下がった気がした。完全に筒抜けの邪な会話に、アオイの顔にみるみる影ができる。三人組まで残念そうに外を見つめていた。まさかとは思っていたが、案の定のような結果に思わず遠い目をしてしまう。会話がまる聞こえだなんて夢にも思わないんだろうなと思っていると、善逸が伊之助に「女の子と仲良くしたことないんだかわいそぉおおお」と挑発し始めた。からかわれて自然と大きくなる伊之助の声に、聞いてはいけない言葉が耳を通過した。

「はぁ”ーーん!!??言っとくが俺が一番薫のこと知ってんだからな!裸だって見たことあるもんね!」

「……」

 薫…さん?とアオイが絶望した顔でこちらを向く。あぁ、風呂だ。きっと藤の家紋の屋敷で風呂場に乱入した時のことを言っているのだろう。誤解しか生まないその言葉に、次第に私の目が死んでいく。「違う、違うの…誤解よ…」とその場に崩れ落ちれば、なほちゃんすみちゃんきよちゃんが「元気出してくださぃ〜」と慰めてくれた。
 青ざめる私に何か察したのか、アオイが哀れみの眼差しで背中を撫でてきた。悲惨な現場になっているとも露知らず、炭治郎を除いて意気揚々と戻ってきた男達に怒りの女性陣がギッと睨みつける。善逸がハッと口を抑えるが時既に遅し。会話は全て丸聞こえだったのだ。
 私は「最低」と呟いて、そのまま何か叫びだした善逸と、慌てる炭治郎と、やたらやる気満々な伊之助を放置して早速柔軟に向かった。恥をかかされたのだからこのくらい許してほしい。――― 数分後、地獄を見るとも知らずに。


「イダだだだだッ!ちょ、ちょま…やめでッ」

「あともう少しですよぉ〜」

「頑張ってくださぃ〜」

 うつ伏せのまま腕を全力で後ろに引っ張られ、バキバキバキと嫌な音が鳴る。どうか炭治郎と伊之助に不信感を抱いた私を許してほしい。思った以上に、いやその何倍も機能回復訓練は辛かった。この子達のどこにこんな力が出るのか、両腕に十字固めをされた時には気絶しそうになった。生理的に浮かんだ涙に歯を食いしばりながら耐えていく。

「薫さんはまだ身体は柔らかい方ですねぇ〜」

「でもまだまだですよぉ〜」

 ぐいっと押された上半身が開脚した両足の間でべたりと地面につく。それに我慢できたのも数分だけで、次第に悲鳴をあげる股間節に身体を起こさせて欲しいと必死で頼んだが勿論無視だ。あの屈指の柔軟力を見せる伊之助ですら根を上げているのに、こんなあらぬ方向に曲げて良いのか人体は。
 しかし善逸はどうだろうか。隣で不気味なくらいに笑顔を浮かべながら、どんなに身体をもみくちゃにされようとも難なくこなしていってる。寧ろ喜びすら見えるその表情を、残念な気持ちで見つめた。反射訓練でもさらりとした身のこなしでアオイに勝ち、「俺は女の子にお茶をぶっかけたりしないぜ」などとカッコつけているが、先程の下衆な会話で全て台無しなのに彼は気づいていない。
 反射訓練では何度か薬湯をぶっかけられたが、段々と目が慣れていく内にアオイに勝つことができた。鬼ごっこも息が上がったが捕まえることに成功。しかし、順調に進んだのはここまでで、誰一人としてカナヲに勝つことができなかった。湯呑みを押さえることもできないし、捕まえることすら困難。彼女に勝つにはまだまだ訓練が足りなかった。立ち止まったら一歩下がって、再びアオイに何度も訓練に付き合ってもらう。

 「今日の訓練はここまでです」というアオイの合図で礼をし、ぐっしょりと濡れた病人服を引き摺って部屋に戻る。薬湯のいやーな匂いが身体中からしたが、中々うまくいかない訓練に落ち込んで湯浴みをしたいという気にすらならない。

「紋逸と馬鹿女が来ても結局俺達はずぶ濡れで一日を終えたな…」

「伊之助はいつになったら私らの名前覚えるの…」

「もう改名しようかな、紋逸に…」

「うーん。同じ時期に隊員になった筈なのにこの差はどういうことなんだろう」

 考え込む炭治郎に善逸が怖い顔で「俺に聞いて何か答えが出ると思ってるならお前は愚かだぜ」と凄むのでそれきり炭治郎も押し黙り、沈黙が流れた。
 それから五日間、私達はカナヲに負け続ける日々が続いた。あれだけ順調だった善逸も伊之助も、誰一人として髪の毛一本すら触れることができない。彼女は恐ろしく速かったし、まるで私達の動きが読めているかのように行動を瞬時に切り替え、湯呑みをぶっかけてくる。次第に勝てないとわかってくると、不貞腐れた伊之助や諦めの態勢に入った善逸は訓練に来なくなった。

「あなた達だけ!?信じられない!」

「すみません…」

「明日は連れてきます…」

「いいえ、あの二人にはもう構う必要はありません!貴方達も来たくないならこなくて良いですからね!」

 ふんと踵を返したアオイに炭治郎と肩を落とす。彼女が怒るのも無理はない。忙しい身でありながらもこうして私達の為に時間を割いてくれているのに、勝てないからと拗ねられたらそりゃ手伝うのも嫌になるだろう。何度も頭を下げるが、アオイは完全にご立腹で、これ以上は相手をしてくれない様子だったので「お疲れ様でした…」と仕方なく訓練場を後にする。
 何故勝てないのだろうか。身体が万全な状態じゃないからと負けの言い訳にしていたが、そうでなくなってもカナヲには勝てない。甘すぎた。

「炭治郎は、どう思う?どうしたら勝てるかな」

「うん…まず反射速度が全然違うんだ。匂いも柱と凄く近いような気がするし…後は目…かな」

「目が良いってこと?」

「分からないけど、目が違う気がするんだ」

 炭治郎の鼻はそういう分析もできるからやっぱり羨ましい。私もそういう特技欲しいなぁと濡れて張り付く前髪をかき上げていると、なほちゃん達に袖を引っ張られた。いつの間にと振り返ると、三人がもじもじしながら立っていた。
 どうしたのだろうか。炭治郎と首を傾げていると、恐る恐る二つの手拭いを差し出して来た。もしかして、わざわざ用意してくれたんだろうか。「わぁ、ありがとう!助かるな」と笑顔を向けると、三人の表情が途端に花が咲いたように明るくなる。さっきは死ぬ思いだったけど、こうしていると可愛い子達だ。

「あの、お二人は全集中の呼吸を四六時中やっておられますか?」

 突然の問いに二人して「ん?」と固まる。今四六時中と言っただろうか。全集中の呼吸を?困惑していると、なほちゃんが「朝も昼も夜も寝ている間もずっと全集中の呼吸をしていますか?」とより具体的に言った。答えは勿論、していません。寧ろそんなことできるの…?
 隣で愕然としていた炭治郎がまるで代弁するかのように「やってないです…そんなことできるの?」と三人を見下ろした。なほちゃんによると、これができるとできないとでは天と地ほどの差もあるのだとか。全集中の呼吸は集中力が必要だ。一瞬使っただけでも凄く疲れるし、それを四六時中は想像もできなかった。しかし、既に会得している人は存在しているとのことで、それこそが柱やカナヲだった。
―――つまり、全集中の呼吸ができなければいつまで立ってもカナヲに勝つことはできない。
 そういうことだろう。だけど、手がかりは得られた。これも三人のおかげだ。「ありがとうね。頑張るよ」と頭を撫でると、顔を赤くして嬉しそうに走り去っていった。できるできないじゃない。やるしかないんだ。

「明日から全集中の会得に向けて頑張ろう!」

「おー!」




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