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「ちょっと待ってくださいよ。私が呪いの祓い方すら知らないの知ってるでしょう」

 思った以上に震えた声が溢れて情けなくなった。私の言葉を聞いた野薔薇と虎杖君はその事実を知らなかったのか、片眉を潜めて私を見ている。
 ということは、私以外の三人はそれなりに実力があって、今更呪いの一匹や二匹屁でもないということだ。同じ転入生だからと虎杖君に期待していた私が馬鹿だった。彼の中には特殊な武器がある。そんな俄かに信じられない話を事前にしっかり聞いていたというのに。
 如何に私が場違いなのかを改めて突き付けられた気がして、五条先生の言葉の先を聞くのが怖くなった。

「知ってるさ。だから行ってこいって言ってるの」
「呪術を使ったことがあるって言ってもあんなのまぐれでしかないのに、わざわざ死にに行けって言うんですか?」
「呪力の流し方なら粗方教えてあげたし大丈夫大丈夫。理解できてるならこういうのは実践が一番だから」

 きっと今の私の表情はとんでもなく絶望したものに違いない。五条悟について分かったことその二。この人は信じられないくらい言葉が足りないというのと適当だということだ。
 きっと私が何を言っても彼の判断が覆ることはないのだろう。抗言したい気持ちをぐっと抑え、私は強制的に背中を押されて廃ビルへ放り出された。

「ちなみに、野薔薇と悠仁は名無しの手助け禁止ね」

 密かに抱いていた期待を見透かしたように止めを刺す先生が悪魔に見えてきた。誰だ最初に天使って言った奴は。
 見るからに憐れみの視線を向けてくる二人にどうにか笑顔を向けるも、頼りない苦笑しか出てこない。野薔薇に関しては最早ドン引きの表情だ。私に対してか五条先生に対してかは不明だが、どうか後者でありますように。

 五条先生と伏黒君に見送られながら、等々三人で廃ビルの内部に足を踏み入れた。おどろおどろしい雰囲気を肌身に感じながらも、前を歩く二人の歩みは軽快だ。

「あ〜ダル。何で東京来てまで呪いの相手なんか…」
「?呪い祓いに来たんだろ」

 野薔薇は呪いを祓うという呪術師の大義にそもそも興味がないのか、気怠そうに不満を溢しながら階段を登っている。その後ろ姿を虎杖君が不思議そうに眺めていると、ふと彼女が振り返った。

「時短時短。バラバラに呪いを祓っていきましょ。私は最上階から、アンタは下から。名無しはそうね…一緒にいられないのは気の毒だけど、真ん中を見張っていて頂戴。そしたら何か起きても私達のどっちかが駆け付けられるでしょ」
「野薔薇様!」
「さっさと終わらせてザギンでシースーよ!」
「ちょっと待てよ。もうちょい真面目にいこーぜ。呪いって危ねーんだよ」

 「知らんのか」と純粋な眼差しで悪意のない言葉を並べる虎杖君に、野薔薇の額に青筋が浮かぶ。そして容赦なく階段の上から虎杖君を蹴り飛ばした。

「最近までパンピーだった奴に言われたくないわよッ!さっさと行け!」
「今日ずっとお前の情緒が分かんねーんだけど!」
「だからモテないのよ」
「なんで知ってんの!?」

 あーだこーだ言いつつ言われた通りに虎杖君は下に向かっているし、気付けば野薔薇もさっさと上の階に消えて行ってしまった。
 一人取り残された私に今にもポツンという音が聞こえてきそうだ。とは言え、二人も五条先生から手助けするなと言われている以上どうすることもできない。

「なぁ、名字」
「虎杖君?」

 わざわざ戻って来たのか、下の踊り場から顔だけを覗かせた虎杖君が心配そうに此方を見上げていた。

「本当に危なかったらさ、すぐに走って逃げろよ。死んじまったらそれで終わりなんだ」
「…うん。ありがとう。とにかく何とかやってみるよ」
「おう。一緒に頑張ろーぜ」

 虎杖君は眉を八の字にして薄く笑うと、今度こそ足音を響かせて階段を降りて行った。今度こそ、本当に一人だ。
 手首から数珠を外し、掌で大事に握る。虎杖君は何やら物騒な片手剣を五条先生から貰っていたけど、私にとって呪いを祓う為の武器はこの呪具しかないのだ。今までは祖母の呪力が込められていた数珠。これからは、私自身の呪力を込めて扱うしかない。
 薄暗がりの廊下を歩いているとやけに私の足音が大きく響く。いつどこから飛び出てくるか分からない充満した気配の中、ひたすら息を殺すことしかできない。

 刹那、背筋を這い上がってくる強烈な悪寒。この感覚を知っている。味わったことがある。

 脳みそが状況を理解するよりも早く、自然とその場で屈む。頭上で何かが空を切るように飛んだのが分かった。

「ごりよ…う、アリ…ガとぅ」
「ちょっと、出番早くない…?」

 恐る恐る振り返った先には案の定、あの時とは違う形状の呪霊がそこに立っていた。短い二本足に似合わず大きく膨れ上がった頭部。獲物を狙い損ねた長い両手を、手持ち無沙汰とばかりに弄んでいる。
 異形の姿はどれだけ見慣れても気持ちが追いつかないものだ。まさかこんなに早く出会うなんて。煩いくらいに早鐘を打つ心臓を必死に押さえ込んで、私は体制を呪いと対面する形に持ち直した。

「大丈夫、怖くない。怖くない。どうにかしてやるし」

 ジャラと揺れた掌の数珠は少し心許ない。けれど、墓地で出会った呪いよりも遥かに目の前の呪いは劣っているのが感じられる。
 こんな小さな呪具でも今に大きくなって木っ端微塵にしてやるんだから。

「出でよ結界!」

 シーーーン。

 期待していたものが出てこない。静まり返る廊下。
 目の前の呪いは疑問符を浮かべながら目を瞬せ、私の滝のように溢れ出す冷や汗を見るなり馬鹿にしたように口端を歪ませた。
 呪いに失笑されるという前代未聞のこの状況。期待も希望もあっさりと裏切られた私がとるべき行動は、最早一つしか残されていなかった。

「五条先生のバカァァアア!ちょっとイケメンンンンッ!」

 なりふり構わず廃ビルを全力ダッシュ。勿論呪いは不気味な呻きを漏らしながら数メートル後を追いかけて来ている。
 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ全然どうにかなってないじゃん木っ端微塵にされるの私の方じゃん。
 後ろから呪いの両手が弾かれたゴムのように伸びてくる。前方には行き止まり。捻った身体を遠心力に乗せて右方向へ滑り込ませると、呪いの両手がそのまま行き止まりの壁に突っ込んだ。
 壁が半壊していく音を背後に、完全にデジャブを感じるこの状況の打開策を必死に考える。けれど、脳内を占めるのは恐怖や怒りばかりで正常に働いてくれない。

「先生も先生で!いきなり実戦とか馬鹿なの!?死んだら絶対呪ってやるから!!」
「マタ、オコシィ…くださ、ィ」
「ぎゃぁあああこっちこないでぇええ!」

 狙いを定めて勢いよく飛んでくる両手。もう逃げ場はない。
 やけくそだった。怒気を含み、腹の底からの絶叫。両手が私の背中に触れそうになった次の瞬間、すぐ後ろから紫電が弾ける破裂音と不快な焦げ臭さが鼻腔を掠めた。
 ふっと軽くなった圧が、呪いの生死を物語っている。振り返った拍子に情けなく転んだ私は膝の怪我にも気付かず、跡形もなく呪霊が消えてしまった虚空を暫く凝視していた。

「術式が、」

 誰の力を借りる訳でもなく、電光をうねらせながら一人でに宙に浮かぶ円形の結界。数珠はやはり私の掌にはなくて、あの時と全く同じ姿で私の目の前にあった。
 恐らく、数珠で囲まれた面積を呪いが触れることで蒸発したような現象が起き、結果的に祓うという行為に繋がるのだろう。そして私は理解した。結界はいつもギリギリの瀬戸際で発動する。特に怒りや悲しみ、恐怖といった感情に己が支配された時だ。
 五条先生は、呪いとはマイナスのエネルギーだと言っていた。ならばこの理屈も筋が通っている気がする。現に私は五条先生への怒りと死への恐怖で一杯だったのだから、皮肉にも先生のおかげで発動できたようなものだ。

「この学習方法は…心臓に悪すぎます先生…」

 初心者にはもう少し寛大な心で接してほしいものだ。でもある意味、二回目の術式の発動に成功した事でなんとなく要領は掴めてきた気がする。
 今はこの力をコントロールできるようになることを目的に精進するしかない。野薔薇や虎杖君達も仕事を終えたのだろうか、初めよりうんと軽くなった呪いの気配に、私は漸く額の汗を拭うことができた。


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