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病み上がりの頭に容赦なく男の大爆笑が響き渡る。頭痛が悪化しそうだ。
「僕のこと迎えにきた天使だと思ったってマジ??ウケるんだけど」 「全然天使じゃないことは分かったんでもう笑わないでください」
目が覚めると私はお寺らしき場所のベッドに横たわっていた。夢でも見ていたのかと思いきや、「や」と片手をあげて現れた姿を見て、私は半ば強制的に現実を受け入れた。 未だに腹を抱えて笑っているこの男の人は五条悟さんというらしい。気を失う前に助けてくれた上、独特な容姿をしていたからすぐに分かった。
「まー聞きたいことは山程あるだろうけど、とりあえず僕から一つ質問していいかな」 「…どうぞ」 「君は呪術師かい?それともただの一般人?」 「呪術師…?よく分かりませんけど、私はただの一般人でしかないです」
不思議そうに五条さんが首を傾げるので、何か可笑しなことでも言ったかと私まで不安になる。
「実は途中から君のことを観察させてもらってたんだ。うちの近所の墓地で呪霊を目視したって窓から連絡がきて、たまたま僕が近くにいたから馳せ参じた訳なんだけど、呪霊に慣れているようだったから僕の知らない呪術師がいたのかと思ってね」
どうしよう。何を言っているのか全く理解できない。窓?呪霊?理解できないのは絶対に私の勉強不足などではない筈だ。 通常人には視えない異形の化け物について当たり前のように話すこの人は一体何者なのだろうか。まるでずっと前から存在している常識のように、非日常を突きつけてくる。 要するに、あの化け物を始末する組織が確立しているということなのだろう。そしてその組織は、私のように化け物…いや、呪霊を当然の如く視認することができる。
「観察って、結果的に助かってはいますけどちょっと遅かったらあの男の子も死んでたんですよ?」 「あんな呪霊どうにでもできるから。流石に危ない時には割って入ってたし、実際そうしたでしょ」
「ちなみにあの男の子はちゃんと家に送り届けたよ」と言われてほっとした。目が覚めてから一切姿が見えなかったので、最悪の報告を覚悟していたのだ。最後に謝れなかったのは悔やまれるけど、もしかしたらあんな記憶忘れてしまったほうがいいのかもしれない。
そして、私が今一番問いたいのは何故私だけがここに連れてこられたのかということだ。
「名字名無し」 「は、はい」 「分かってるかどうか怪しいけど、君はあの時呪術を使ったよね。呪いと言ったほうが分かりやすいかな」
”呪術”。聞き慣れない言葉を飲み込んで、反芻する。自然と左手の数珠に目がいって、五条さんはそれを見逃さなかった。 この際何で名前知ってんだとか聞くべき疑問は萎んで消えてしまった。それ以上に驚くことが多すぎて、脳みその処理が追い付かない。
「私もあれを見たのは初めてで…。というより、呪霊が襲ってくるのもあんな風に消えるのも何もかもが初めてでよく、分かり、ません」 「君が寝ている間に君の家系のことを調べさせてもらった」 「え。そんなポンポン出てくるものですかね」 「勿論。何しろ、元呪術師の家系だからね」
そんな事実は知らない。何一つ聞かされていない。私が言うのも何だが、確かに実家は古めかしい平屋の屋敷でそれっぽいけど、誰一人として呪霊の話なんか持ち出さなかった。
―――― いや。
「理解したかな。いたよね?一人だけ君の味方が」
母には見えなかったけど、お婆ちゃんだけは私が呪霊を見ることができると気付いてこの数珠を持たせてくれた。 「私がお前を守るよ」。そう言って貰ってからずっと身に付けるようになって、十六歳になって祖母は亡くなった。それが合図だったかのように、今日初めて死を間近に感じたのだ。
「その数珠は呪具といってね。簡単に言うと君のお婆さんの呪力が込められている。大事な孫を誰にも傷付けさせない為の呪いがね。そして掛けた本人がこの世から消えたことで効力を失った」 「…」 「調べてたら分かったことだけど、君の家系は呪術全盛の時代に結界術を得意として活躍したそうだ。それが徐々に生業を変え、術式の遺伝も薄くなり、代々この界隈から消えていった家系だ」 「それは、よくある話なんですか?」 「よくある話だよ。君も思い知っただろうけど、命が掛かってる仕事なんだ。心が折れて辞めていく人を僕は何人も見てきた。それでも稀に君やお婆ちゃんのように呪力を持って生まれる人は確かにいる」
「そして本来、呪術師になっていた筈だった」その妙に含みのある言い方に、私は徐々に彼が何を言わんとしているのか漠然と理解しようとしていた。 私が今横たわっているこの場所は、東京都立呪術高等専門学校。呪術師を育成する場所だと五条さんは言っていた。そして彼はこの学校の教師である。
「人手が足りないんだよ」 「無理です」
バッサリと切り捨てたものの、五条さんの張り付いた笑みが崩れることはない。何なら更にニコニコになった気がする。
「一年生なんて今年三人しかいないんだよ?」 「少な!?思ってた以上に少ないんですけど!?」 「名無しに刻まれた術式がどんなものかはまだ不明だけど、血筋的に恐らく”守り”に特化した呪術だと考えられる。貴重な人材だよ」 「何と言われようと無理なものは無理です!」
あんな恐怖を味わって数時間で「はい!呪い祓います!」なんて勇ましくなれるほうが無理な話だ。助けてもらったからこそ、呪術師と言うのが如何に重要で命懸けかも理解できる。でも、だからって、視えるだけの私にはどうにもできない。 私はごく普通の高校に通う普通の女子高生だ。ずっとそうなるよう願ってきた。今更家庭の事実を知ったところで私の願望が変わることない。私はそんなに、できた人間じゃない。
もう一度、はっきりと断ろうと口を開きかけた。しかし、喉元まで出かかっていた言葉達は、目の前の五条さんによって空気に溶けて消えていった。
「見て見ぬふりするんだ?」
脳裏からブチっと不快な音色が響く。
「…は?」
どれだけ睨んでも目の前の男は意地悪い笑みを浮かべて余裕そうに笑っている。出会ったばかりだというのに、この男は容赦なく人の地雷を裸足で踏み躙ってくる。目元は布で覆われて見えないのに、見透かされたような視線が堪らなく腹立たしかった。
「だってそうでしょ。名無しは呪霊をしっかり視ることができる。これまでだって何人もの人が身体に呪霊を纏わせている姿を見てきた」 「でも、私にはどうすることもできなかった!」 「これからは違う」
ヒュッと喉から乾いた空気が漏れた。
「もう君を守ってくれる偉大な呪術師はこの世にはいないんだ。それがどういう意味か、分かるね」
祖母がくれたこの数珠は、彼女の術式によって私の姿を呪霊から消していた。それがなくなったということは、これから何度でも呪霊に狙われるようになるということ。 また今日のように誰かが巻き込まれるかもしれないし、一人で孤独に死ぬのかもしれない。どちらにせよ私には対処する術がない。
「当然、僕には君を強制的にここに転入させる権限なんてない。決めるのは君だけど、君や知らない誰かが犠牲になるかもしれないってことを忘れないほうがいい」
もう乾いた笑いしかできなかった。五条さんの言い方は一見私の尊厳を守っているようだけど、裏を返せば脅しだ。「お前が呪術を学ばないと誰かが死ぬぞ」。暗にそう言っているようなものだ。
「…とりあえず、学校変わるとか私だけの判断じゃ決められないので。まずは保護者に相談させてください」 「勿論そうしてもらうつもりだよ。それじゃあ怪我も平気そうだし、一旦お家まで送るよ」
言われてみれば頭の傷も何事もなかったかのように消えていた。これも、術式というもののおかげなのだろうか。 何だか一日に沢山のことが起こりすぎて酷く疲れた。ベッドから降りるのを愚図っていると、ドアを開けた五条さんがふと振り返った。
「見捨てればよかったのに、見ず知らずの子供助けてる時点で相当お人好しだし矛盾してるよね」
ひらりと手を振って、ぴしゃりとドアを閉められる。呆気にとられるのも束の間。私は今日、よーく分かった事実を改めて噛み締めた。 五条悟という人間はそれなりに性格が悪いということだ。
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