17.ゾッとする話


 軽い風邪だった為すっかり体調は良くなり、普段通りの営業を再開することができた。それもこれも、早期対応してくれたオドロキくんのおかげである。
 改めて彼にお礼のメールを送り、パタリと携帯を閉じる。ふと、去り際にオドロキくんが送ってきた注意喚起のメールを思い出して、私はもう一度携帯を開いた。
 
"戸締りしっかり確認してくださいね"

 暗い部屋の中、画面の光が顔に注がれる。そこに浮かぶ文を反芻すればするほど、穏やかではいられない。

 単純に挨拶か、心配してくれているだけなのかもしれない。けれど、それだけでは片付けられない心当たりが確かに私にはあった。
 ―――― 視線を感じるのだ。気のせいかもしれないと何度も思ったが、明らかに玄関の置物が移動していたり、ポストに白紙の手紙が入っていたり、あからさまに不可解な出来事が最近になって増えている。
 オドロキくんは何か知っているのだろうか。それならば、このメールの意味は全く別のものになってくる。
 
 何だか不気味だ。寝ようと思って電気を消していたのに、すっかり目は冴えてしまってとてもじゃないが安眠できる気がしない。近くに今夜だけでも泊めてくれる友人などいないし、こんな広い家で一人はあまりにも心細い。
 溜息を零しながら四肢を投げ出すと、ベッドが悲しげに軋んだ音を立てる。寝返りをうてば、テーブルの上でちらつく小さな紙が視界に入った。

「あ」

 そうだ。どうしてすぐに思い付かなかったのか。頭に浮かんだ案に私は瞬時に飛び起きると、大慌てで身なりを整えてからテーブルの前に正座した。
 手にした名刺には成歩堂の文字と電話番号。何となく貰ってからテーブルの上に放置してしまっていた。しかし、今こそこれが大いに役立つ時が来たのかもしれない。使う日なんて来ないだろうと思っていたが、まさに人生何があるか分からないと痛感する。
 ゴクリと唾を飲み込んでから通話ボタンを押す。あの男に電話なんて一度もかけたことがないので妙に緊張しながら携帯を耳に当てると、暫しの沈黙の後、いつも以上に気怠げな声が鼓膜を揺らした。
 内心至極安堵するが、それを悟られないように懸命に声を押し殺して返事をする。

「あの…私なんですけど…」
『…私私詐欺とは随分新手だね。流行りの詐欺かな』
「いや違いますから…てか絶対分かってますよね。成歩堂家の給食当番やらせてもらってるみょうじですが」
『前から思ってたけど、君割と気に入ってるでしょそれ』

 「それで、こんな時間にどうしたのかな」そう欠伸を噛み殺す音声が耳を通り過ぎて一瞬二の句を告げなくなる。果たして何と言えばいいのか。ここまで来て、適切な言葉が浮かばず黙り込んでいると、ナルホドさんが不思議そうに名前を呼んだ。

「…成歩堂なんでも事務所って今日だけ二四時間営業だったりしませんか」
『うちには未成年がいるから労働基準法違反しちゃうなぁそれは』

 娘の給料で食ってる父親が何言ってんだ。遠くからみぬきちゃんの「あーパパ女の人と電話してるー」という声が聞こえてきて、自然と目が遠くなる。

『そんな遠回しに聞かずに事務所ならいつでも来てくれていいのに』
「うッ…じゃあ、こんな時間に大変申し訳ないんですけど、ちょっとお邪魔してもいいですか。事情は後で話すので」
『勿論。待ってるよ』

 ナルホドさんが切ったのを確認してから私も携帯を切り、暫しの安心感をしみじみと感じた後パーカーを羽織って家を出た。窓やドアも念入りに戸締りを確認して、自分でも落ち着きがなさ過ぎるとは思いながらも周囲を二、三度見回してから自転車に飛び乗る。正直、側から見れば不審者はお前だと指をさされそうな挙動不審具合だ。
 
 事務所は我が家からもそれなりに近く、自転車を爆速でこげば数十分で到着する。キィッと真夜中の住宅街にブレーキの音を響かせ、見慣れたアパートの前に止めてから階段を上った。
 
「早かったね」

 ブレーキの音で分かったのか、既にナルホドさんが玄関のドアから顔を覗かせて立っていた。
 促されるように開かれたドアにお邪魔しますと告げてから足を踏み入れ、靴を脱ぐ。廊下の先で隙間から見えた事務所内ではみぬきちゃんが漫才でも見ているのか、笑い声が漏れて来ていた。

「ちなみにオドロキくんはもう退勤していないからね」
「一体なにがちなみになんですか」
「おかしいな、もっと初心な反応期待してたんだけど」
「年齢考えてください私の」

 この親子は何かとオドロキくんを出してくるので本当に油断ならない。話を逸らす為に「とにかく遅い時間なのにありがとうございます」と言えば、ナルホドさんはいつもの余裕そうな、大人な笑みを残してみぬきちゃんがいる部屋に入っていく。
 広い背に続き、相変わらず特殊な置物で散らかった部屋に入れば、テレビに食いついていたパジャマ姿のみぬきちゃんが嬉しそうにソファから起き上がって私に近寄って来た。

「あれ、なまえさん!どうしたんですかこんな時間に?」
「お邪魔してます。ちょっと相談したいことがあって…」
「僕の考えでは、この時間で更にすっぴんダル着で来るくらいだから割と重大な話なのかと思ってるけど」

 あまりに的確過ぎる言葉に衝撃を受けていると、みぬきちゃんが手慣れた様子でテーブルの上に温かいお茶を置いてくれた。この人の前だとどうにも隠し事ができない。平静を繕うように湯飲みに口を付ければ、あまりの熱さに舌を火傷した。
 
「今夜だけ事務所に泊めてくれませんか」

 正直に言って、最近の奇怪な出来事にまいっている。もっとはっきり言うと恐い。
 そんな感情が全面的に顔に出ていたのか、ナルホドさんは少し驚いたように此方を見ていた。みぬきちゃんはお泊まりだ!と楽しげにしていたが、賢い子だ。きっと私の緊張には気付いているに違いないし、敢えて空気を明るくしてくれているような気がした。

「最近、妙な視線を感じるんです。気のせいかと思ったけど、明らかに物が動かされた形跡もあるし、怪しい手紙は届くし、買い物の時も時々誰かに付けられてるような気がして…」
「なまえさんそれって、どう考えても」
「…ストーカーだよねぇ」

 考えなかった訳ではないが、ここまではっきりと突き付けられるとより一層気が重くなる。例えばこれがただの気のせいであったならば何よりだが、それはそれで私に問題があるし、かと言って事実であったならばそれもそれで問題だ。完全に二律背反に陥ってしまっている。
 重い溜息を吐き出したいのを堪えていると、何やら逡巡していたナルホドさんが「実は」と切り出すのが聞こえて顔を上げる。

「一昨日、オドロキくんからなまえちゃんの店の前で不審な男を見たって話を聞いているんだ」
「え、」

 ゾゾゾっと鳥肌が立っていく。一昨日といえば、丁度あのメールが届いた日だ。

「僕としても心配だし、これに関しては警察に連絡する前にまず調査しようと思っている。証拠がないと彼等は動かないからね」
「でも、いいんですかお願いしても」
「いいに決まってるじゃないですか!うちはなんでも事務所なんですから!」
「君にはお世話になっているしね」

 この瞬間、私は過去の数々の愚痴を悔い改めたのは言うまでもない。それはもうテーブルに叩きつけんばかりの勢いで頭を下げる私に、ナルホドさんはいつもの胡散臭い笑い声をあげている。

「とにかく、明日オドロキくんに詳しい事情を話して調査してもらうから、今日はもうゆっくりして」
「うん…ありがとうございます」
「それで、僕と一緒に寝るかみぬきと一緒に寝るか選べるけど」
「そこはソファで寝ますから大丈夫です!!」
「パパセクハラだよ」
「はっはっはっは」
 
 こうして無事、側に誰かがいる状態を確保できた私は安心感に包まれながら眠ることができた。ソファは決して柔らかくはなかったけど、それでも、今はその硬さが何よりも不安を取り除いてくれたのだった。


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