15.アイヘイト


 あっという間に七月に入った。間も無く暑い日々がやってくる。

 私は暑がりで冬の方が好きだから、この時期に差し掛かると嫌でもやる気が削ぎ落とされていく。あの騒がしい蝉の鳴き声なんかも、想像しただけで汗がでそう。幸いカフェの中は涼しくて快適なのが唯一の救いだ。それなのに、

「(なんか、あっついんだよねぇ)」

 お天気のお姉さんも今日の気温はそんなに高くないと言っていた。寧ろ過ごしやすくて適温だった気がする。もしかして空調の調子が悪いのかな。
 気付かずにお客さんに暑い思いをさせていたら問題なので、私は念の為カウンターに座る常連に気遣うように尋ねてみた。

「んん?暑かねぇだろ、丁度いいぞ?何なら涼しいくらいだ」

 おじさんはそう言って、コーヒーを啜るとまた新聞紙に視線を落とした。腑に落ちないが、問題ないならまぁいっかと私も注文の作業に戻る。ブラウニーを切り、トレーに紅茶と一緒に乗せると、窓際のテーブルのお客さんの元に運ぶ。

「お待たせしました」
「ああ、いつもありがとう」

 テーブルに乗せると、男性はにっこりと微笑んでお礼を言った。シンプルな眼鏡とネクタイがよく似合うこの爽やかな男性は、最近よくお店に来てくれるのですぐに顔を覚えた。
 うちのお店は常連のお客さんが多い。その殆どが大体週一、二のペースで来店するが、このお客さんはほぼ毎日決まった時間にお店に来ては日替わりのケーキと紅茶を飲んで帰って行く。頻度の多さに最初は吃驚したけど、毎日のルーティーンを大事にする人なんだなと結論付けたので見慣れてしまった。それに、私としてはお客さんが来てくれるのは寧ろありがたいくらいだ。

 会釈をしてキッチンに戻る。テーブルを拭いたりしていると、なんだか視線を感じたので窓の方を向けば、先程の男性がまだ此方を凝視していることに気付いた。
 何か、あったのだろうか。とりあえず愛想笑いしてみると、男性はすっと目を逸らしてそれきり反応を示さなくなった。
 すぐに背を向けてどうでもいい作業をする。目が笑っていない。貼りつけたようが笑みが、少し不気味だと思ってしまった。



 時計を見上げれば、そろそろお昼の営業も終わる時間だったので今日は早めにお店を閉めることにした。お客さんは皆帰ってしまったし、何よりずっと茹だるような暑さが私を苦しめている。なんなら頭痛までしてきた。電気代節約しなきゃだけど、我慢できずにエアコンをつけてしまいそうだ。
 さっさとドアの札をCLOSEにしてしまおうと椅子から重い腰を上げた時、チリンと来客を知らせるベルが鳴った。嘘でしょ、という気持ちを押し込み「いらっしゃいませ」と顔を向ける。オドロキくんだった。

「つい来ちゃったんですけど、タイミングマズかったですかね?」

 店内の様子で判断したのか、オドロキくんが苦笑する。私はすぐにかぶりを振った。

「丁度お昼の営業終わったとこだけど、オドロキくんなら全然歓迎」
「すみませんいつも変な時間に押しかけて」
「あはは。もう今更でしょ?気にしないで」
「それもそうですね」

 オドロキくんならもう見知った関係だし、私も遠慮なく寛げるから店がCLOSEでもいてくれて構わない。カウンターに座るように促してから、私はドアの札をひっくり返しに外に出た。夏特有のむわっとした空気を予感していたけど、ドアを開けたら逆に涼しい風が頬を撫でる。
 営業中だし気付かないようにしてたけど、やっぱり頭痛いし体もだるさを感じる。まさか、風邪?いやいや七月だよ今。夏風邪は馬鹿がひくって言うじゃないか。冗談じゃない。
 立ち止まった私を不思議に思ったのか、後ろから「どうかしました?」と声を掛けられて現実に戻る。私は「なんでもないよ!」と返事をして慌てて中に戻った。

「今日も仕事?」
「だったら良かったんですけどねぇ」
「相変わらず閑古鳥が鳴いてるのね」
 
 私の言葉にオドロキくんは遠い目で乾いた笑いを溢した。確か初めての仕事がパンツ探しだったとか。あまりに哀れで「事務所変えたほうがいいんじゃない?」と口が滑りそうになったが、そんなことを言ったら元も子もないのでやめておいた。

「何か飲む?」
「じゃあ、このレモンティーで」
「はーい」

 コンロでお湯を沸かす準備をする。オドロキくんは冷たいレモンティーをご所望なので、冷蔵庫からレモンを引っ張り出そうと屈んだ瞬間、ぐらりと倒れ込みそうになった。
 既の所で冷蔵庫の取っ手を掴んだので難を逃れたけれど、あまりに突然のことで暫し呆然としてしまった。

「なまえさん?大丈夫ですか、さっきからボーっとしてる気が…」
「あ、ああごめん。ちょっと暑さでやられたのかも」
「え?今日23度くらいですけど」
「……」

 涼しいなそれは。オドロキくんの言葉に益々自身への疑惑が強くなっていく。きっと夜更かしばっかりしてたからちょっと体調が悪くなっただけだろう。うん、平気、平気。
 適当にオドロキくんに返事しながら、包丁を取り出してとんとんとレモンをスライスしていく。けれど頭痛は増していくばかりで、変な汗まで出てきた。
 オドロキくんが話しているのに、私の耳はそれを右から左へ受け流して内容が全然頭に入ってきてくれない。

 ―――― さんッ!

 どうしよう、凄くしんどい。レモン薄く切りすぎちゃった。

―――― なまえさんッ!火!」
「……え?うわッ!」

 間近で怒鳴られて、私は漸く呼び掛けられていたことに気付いた。ぐらぐらと沸騰する音に下を向けば、煮湯が溢れてコンロの火に勢いがついてしまっている。朦朧としていた脳内が一瞬にして火を止めることで一杯になってしまった私は、愚かなことに、無防備に手を伸ばしていた。

「あつッ!」

 熱に触れた指先を反射的に引っ込まれる。オドロキくんは音を立てて椅子から立ち上がると、カウンターを回ってキッチン内に走ってきた。そして素早くコンロの火を消して鍋をどかしたかと思えば、「失礼します!」と叫んで私の手首を掴んだ。
 もう、踏んだり蹴ったりだし、申し訳なさで何も言えなくて、私はされるがままにシンクまで引っ張られる。オドロキくんは深刻な表情で私の指に冷水を当てた。

「ご、ごめ…」
「なまえさん」

 遮るようにして被さった言葉が力強くて思わず肩が跳ね上がる。静まり返った店内に水道の流れる音だけが響いて、自業自得だと分かっているのに泣き出したい気持ちになった。
 怒鳴られたって文句は言えない。それだけ、私は上の空で迷惑をかけてしまったのだ。火傷の痕が痛い。けれど、同じくらい頭もガンガンして謝罪の言葉がすぐに口から出てきてくれない。

「ちょっとこっちも失礼しますね」
「え?」
「おでこ、触りますよ」

 俯いていた私の顔を無理矢理持ち上げたかと思いきや、オドロキくんは私の前髪を掻きあげてそのまま掌を額に押し付けてきた。
 突然の行動に目を白黒させる。眼前に広がるオドロキくんは至って真剣な表情のまま今度は自身の額に掌を当てると、緩慢とした動作で「やっぱり」と呟いて私と目線を合わせた。

「熱ですね」

 ぴしゃりと告げられた事実に二の句を告げなくなってしまう。まさか、本当に、風邪を引いたというのか。この季節に。
 信じたくなかったけど、この気怠さが何よりも事実を物語っている。朝から暑苦しかったのもそういう訳だ。呆然と固まっていると、タオルで私の指を拭きながらオドロキくんは呆れたように溜息を吐いた。

「どうりで顔色が悪いなと思いました。ずっと上の空だし、レモンは切り刻まれてるし」
「ごめんなさい…」
「体調が悪いなら無理しないでください。まさかこんなに悪化するまで気付かなかったなんてことはないでしょう?」
「……」
「マジですか…」

 だって、夏風邪をひくなんて思わなかったし。気のせいだと思った。と言いたいところだが、これ以上呆れた視線を向けられると私のメンタルが持たないので代わりに無言を貫く。

「とにかく、今日はもうお店閉めて休んでください。オレ、火傷の薬とか買ってきますから」
「ありがとう。でも、薬なら一通り揃ってるから平気…。食べ物もあるし」
「じゃあ塗りますから場所教えてください」
「いやいや、流石にそこまでしてもらうわけには…」
「何言ってるんですか!病人放って帰れるわけないでしょ!」

 勢いに根負けした私は薬の場所が自室であることを告げる。オドロキくんは何故か一瞬「え…部屋?」と動揺していたけど、すぐにかぶりを振って案内を促した。
 まさかオドロキくんに看病してもらうことになってしまうなんて。部屋、掃除しておいてよかったと私はこっそり安心した。


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