09.左手のラッキースター


 雨続きだった梅雨も明けた頃、私は一人で隣町のデパートに買い物に来ていた。目当てはお菓子作りの材料だ。
 一般的な食材程度ならナルホドさんとよく遭遇する近所のスーパーでも事足りるが、小さなスーパーだけに、大きめの無塩バターやクーベルチュールチョコレートなんかは売っていなくて、デパートの製菓材料専門店に行かなければいけない。ついでに夏の洋服なんかも見たりして、大満足の私は片手に大きめの紙袋をぶら下げて帰りの電車に乗った。
 今朝は天気も良かったから散歩がてらに車ではなく電車を使ったのだ。いつもならそんなことしないのに、今日に限ってどうしてそんなことを思い付いてしまったのか。今朝の自分を訴えたくなった。

 最寄りの駅の改札を出て見上げる。鼠色に染まった空からは無数の糸のような雨が降り注いでいて、道路一面を黒く染め上げていた。
 梅雨が明けたとはいえ、油断せずに折り畳み傘でも持っておくんだった。今更後悔しても仕方ないことだけど、私の気分も天気に比例してどんより曇っていく。ダメ元で近くのコンビニに寄ってみるが案の定傘は売り切れだった。
 駅から家まで数十分。頑張って走れば家に帰れなくもないが、それは”頑張れば”の話だ。爪先までびしょ濡れは免れないし、何より問題は紙袋だ。雨でふやけてしまっては中身が散乱して更に悲惨なことになるのは目に見えている。

 雨宿りしたところで雨が止む気配はないし、ここは腹を括るしかないのか。自分の運の悪さに内心文句を垂れつつ、覚悟を決めた時だった。横から聞き慣れた声が私の名を呼んだ。

「入っていきますか?」

 オドロキくんだった。雨天で一層眩しく見える真っ赤なスーツに驚いていると、オドロキくんが慌てたように後ろ髪を掻く。

「驚かせてすみません。人違いだったらどうしようかと思ったんですけど、なまえさんで安心しました」
「私じゃなかったら今頃知らない人と傘を分け合ってたのね」
「ははは。そうなりますね」
「笑い事じゃないけど、凄く困ってたからナイスタイミングだよ。お言葉に甘えてもいいかな?」
「勿論です!傘あんまり大きくないですけど」

 そう言ってオドロキくんは黒の傘を開き、私に入るよう促す。運が悪いなんて嘆いていたけど、間違いだったなぁなんて思いながらいそいそと隣に入った。どうやら送ってくれるらしいが、オドロキくんは遠回りなんじゃないかと聞けば「事務所に寄ろうと思ってたから同じ方向です」と笑ってくれた。

「荷物持ちますよ」
「え、いいよ!ただでさえ傘に入れてもらってるのに」
「でも重そうですし…」
「本当に大丈夫!ありがとうね」

 オドロキくんは不服そうだったけど、何とか引き下がってくれた。流石に荷物持ちまでさせるのは申し訳ない。
 雨の中二人並んで歩く。ふと、傘の大きさにしてはやけにゆとりがあるなと思って視線を巡らせれば、オドロキくんの肩がはみ出て濡れていた。紳士すぎやしないか。傘を忘れたのは私なのに。
 罪悪感に苛まれつつオドロキくんの腕をぐいっと引っ張れば、ピタリと互いの肩が引っ付いた。驚いた表情が私を見下ろす。反射的に身を引かれそうになったけど、念を押すようにもう一度引っ張れば観念したようにその場に留まってくれた。

「せ、狭くなりますよ?なまえさんが濡れちゃうし…その、距離が…」
「私だってオドロキくんに濡れて欲しくないし。相合傘になっちゃったけどごめんね」
「いえ、オレが言い出したことなので。けどこーゆうの慣れてないからちょっと恥ずかしいですね」

 確かに、歩くたびに体が触れ合って何だか少し初々しい気持ちになる。相合傘にときめくような年齢でもないけど、オドロキくんが照れ臭そうに笑っているから私まで吊られて恥ずかしくなった。

「ひぇッ!?」
「危ない!」

 マンホールを踏んだ瞬間、浮遊感に襲われて反転する景色に思わず変な叫び声が口から漏れた。まさか余所見をして足を滑らせるなんて。
 転ぶのを覚悟し、訪れるであろう痛みに耐えるべく咄嗟に目を閉じる。けれど衝撃がこない。恐る恐る目を開ければ、視界一杯にオドロキくんの顔が広がっていた。
 抱えるように私の腰に腕が回されている。一瞬何が起きているのか理解できなかったけど、額に大粒の雫が落ちてきて漸く彼が私を助けてくれたのだと分かった。慌てて起き上がろうとしたけど、見つめ合うような態勢のせいで上手く力が入らず、見兼ねたオドロキくんが引っ張り上げてくれた。動揺を誤魔化すように俯いて、袖で額を拭う。

「ご…ごめんなさい!重かったよね…」
「い、いえ!オレもマンホールあるの気付かなかったし…怪我がなくて良かったです」

 オドロキくんを見ていたから転びましたなんて口が裂けても言えないし、恥ずかしくて穴があったら入りたい。
 まともに顔を見れる気がしなくて俯いたままでいると、視界に腕捲りされたシャツが伸びてきた。まるで差し出すようなそれに首を傾げる。

「地面滑りやすいんで、良かったら捕まっててください。オレの腕で申し訳ないんですけど」

 何もなければ間違いなく断っていただろう。けれどこれ以上情けないところを見られたくなくて、縋るような思いでオドロキくんの腕を摘んだ。なけなしの平常心が腕を組むのは違うぞと訴えている気がしたからだ。
 少し変わった状況でまた二人で歩き出す。若干気まずい空気を振り払うように「そういえば!」と口を開いたが、その声色には無理やり感が丸出しだ。

「オドロキくんはガリューウェーブって知ってる?」
「あ!オレも最近知ったんですよ。法廷で対立してる検事がそのボーカルらしくて、みぬきちゃんがご執心なんですよね」
「え…。牙琉さんだっけ?一昨日うちのお店に来たよ」

 まさかオドロキくんが知り合いだったなんて。そう言えば、オドロキくんは苦虫を噛み潰したような表情をしたので仲がいいという訳でもなさそうだ。

「ファンに追いかけられてるのを匿ったらお礼にコンサートのチケット貰ったんだけど、一人じゃどうも行く気がしなくて」
「そのチケットって、もしかしてこれですか?」
「それ!オドロキくんも貰ったんだ?」
「請求書同封でしたけどね…」

 オドロキくんは財布から取り出したチケットを恨めしそうに見下ろす。いつも法廷で会ってるから招待されたのかと思いきや違うらしい。この前もお釣りはいらないと言っていたからてっきり気前が良い人なのかと思っていたが、地味にケチだ。
 因みにあの後お釣りを返そうと追いかけたけど、滅法爽やかな笑顔でいらないと突っ撥ねられてしまったのでまた来た時の為にとってある。

「…折角貰ったなら一緒に行きませんか?その方がみぬきちゃんも喜ぶだろうし」
「いいの?」
「はい!オレもなまえさんが来てくれると嬉しいです」

 期待の籠った眼差しを向けられて断れる筈がなかった。悩む間も無く返事をすれば、オドロキくんはまたもや嬉しそうに笑った。どうにも、私はこの笑顔に弱い気がする。

 ”ギルティライブ”なんて危険な名前のコンサート、本来なら全く行かないジャンルだけどこの機に流行を勉強してみるのもいいかもしれない。そんなことを考えながら歩いていれば、気付けばあっという間に自宅に到着していた。軒下に入り、オドロキくんに向き直る。傘の中は人一人分いなくなって広々していた。

「送ってくれて本当にありがとう。助かっちゃった」
「あの」
「うん?」

 ここは体育館裏だったか。そう錯覚してしまいそうな程にオドロキくんがもじもじしているので「どうしたの?」と尋ねれば、彼は意を決したように顔をあげるなり両手の拳を握りこんだ。

「連絡先教えてくれませんかッ!」

 まるで宣戦布告のような動静に面食うけれど、オドロキくんは至って真面目な様子だ。
 雨音に包まれる。通り過ぎてく人が訝しげに私達を見ていた。

「喜んで」

 決して多くはない私のアドレス帳に、今日、王泥喜法介の名前が追加された。


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