とうとう約束の時間が近づいてきた。黒子しか見たことがない名前が描いた『風』という絵。それをみんなに見せてほしいと頼まれて、今日この日に見せると約束したのだ。
(なんか、緊張する)
体育館から西階段へ行く道のりをドクドク鳴る心臓を連れて歩く。場所を知っている黒子は自分の横に着いて歩いているし、他の作品をいろいろ見たことがある青峰はさらに楽しみにしてくれている。赤司の手に握られているのは例のラベルで、黄瀬が自分の手でもとの場所に張りたいと抗議していた。
階段を上り、最初の踊り場についた。緑間の表情が柔らかくなり、紫原が思わずお菓子を落とす。桃井に至っては足まで止めてしまったぐらいだ。
風が、誇りを巻き上げて視界を悪くしてもなお、その絵のオーラは失われなかった。
「これが、その絵。『風』です」
青峰の言う『世界がある絵』。それが今赤司たちの目の前に広がっている。書斎の開け放たれた窓から入ってくる風が、カーテンとゆったり腰かけられる椅子を通ってここまで、届いてきた。
「なるほど」
「風ねー」
「表しているのだよ、ちゃんと」
「なんか、涙が出てきた……っ」
「すごく気持ちいい風っス」
感想を述べられる声のなかに青峰のものが無いことに気づく。さっと見上げれば青峰は黙って絵を見ていた。
そして言おうか迷ったというような表情をしたあと、ようやく口を開いた。
「俺はそうは思わねー」
「は?」
「ちょ、青峰っち!」
黄瀬が咎めるように詰め寄るが、青峰は名前を一瞥しただけで言葉を続けた。
「ちげーよ。下手っつってるんじゃねぇ。俺はこの絵のタイトルが『風』だって思わねぇんだ」
この時、みんなが絵をバカにしたと思ったときにも表情を変えなかった名前がハッとして目を見開いた。
「確かに風は吹いてる。でもそれはたまたまだろ。だから本当のタイトルに上書きしたんじゃねーのか?」
「どうして、」
「うまい具合に風が吹いてたから、風ってタイトルってごまかしたんだろーけどな。ホントに描きたかったのは違うだろ」
サッと青峰が指差す。
その先にあったものに、名前は瞳を震わせた。
絵の中では一番存在を示している透明感のあるレースのカーテンではなく。
場所を表している本棚でもなく。
風が通ってくる、通り道の一つと思っていた『椅子』を、しっかりと捉えた。
「しかも、ただの椅子じゃねぇよ、これ」
「どういうこと?大ちゃん」
「そこまでは知らねぇ。で、」
どうなんだ、と青峰の鋭い視線が名前を刺す。その時、名前が息を吐き出した。緊張が解けたかのように、ふぅ、と。そして初めて彼女が息をした瞬間を見たような気がした。
「野生の勘、ですか」
「思ったことを言っただけだ」
「正解ですよ。描いてないところまで良く気付きましたね」
そういうものに疎そうな青峰が言い当てたことに一同が驚愕している。あの鋭い赤司でさえも、見抜けなかった。『風』という先入観がなければ言い当てることもできただろうが、条件は青峰も同じだ。
「ただの椅子じゃない、というのも合っているんですか?」
「はい」
「どーゆーことー?」
「ここには、母が座っているんです」
「何でお母さん描かなかったんスか?」
「……死んだ後に描いたものなので」
「え……?」
この話を他人にするのは、初めてのことだった。
幼い頃、いつも書斎に行けば母がいた。
本を読むのが大好きな母が本を読んでいる姿が大好きで、母が書斎に入ったのを確認すればその様子をスケッチした。
けど、その時は一度だって油絵として残そうなんて思わなかった。
理由は、あった。
本をめくる音とか真剣に読んでいたと思えばふんわりと笑う顔とか、絵にしてしまえば音と動きは表現できない。
もちろんもっと上手くなればできるようになるかもしれないし、その時は母をモデルに絵を描こうなんて小さい頃には夢見た。
だから全て独学でいっぱい練習した。
なのに、ある日突然母は倒れた。
元々体が弱かったから、療養も兼ねて大人しく生活していたが、良くはならなかった。
むしろ悪化していたのだ。
それでも元気を出してもらおうと、まだ不十分な実力ではあったが書斎の絵を描き始めた。
でも母のいない書斎には、なんの音も動きも感じられなくて。
こんなときに、スランプに陥った。
思ったように描けなくて、でも母はどんどん弱っていって、時間がなくて、怖い。
怖い。
そして、怖がって、絵が完成することはないまま、母は天へ旅立ってしまった。
私の一番描きたかった人が、いなくなってしまった。
酷い娘だと思った。母が死んだのは勿論悲しいが、それよりも絵を描く目標がなくなってしまったことに絶望していたからだ。長い間筆を持つことを止めて、仲は良かったが干渉はしてこなかった父が話しかけてきたほど、塞ぎ混んでしまった。もう一度書斎へ行けば案外母がニコニコしながら本を読んでいるのではないのか、と思い重い足を動かして何度も書斎に入ろうとしたが、書斎の前に立つと、母が死に行く恐怖と絵が描けない焦りを思いだし、ドアノブを握ることさえできなかった。
何ヵ月もたった、そんなある日。
ふと父がこんなことを行った。
『書斎、埃まみれだろうな』
たったの一言。それだけで何故かドアを開けることができた。
掃除をするという名目ができたせいかもしれない。
開け放った書斎は、本当に酷い有り様だった。
本という本に埃が被り、レースのカーテンは黒ずんでいて、窓は錆びて開かないし、母が座っていた椅子は触れるだけでギシギシと鳴る。怖いからと立ち入らなかったことを呪いたくなった。
そこからは父と二人で大掃除だ。
カーテンを洗い、本にはたきをかけ、窓の金具に油を射し、椅子を整備して、久しぶりに汗をかいた。
三日間ずっと掃除をして、ふと気付くと昔母が座って本を読んでいた書斎にもどっていた。でも、母はいなかった。
この時初めて、母が死んだことに、泣いた。
綺麗になった絨毯にぽたぽたと涙が染み込んでいく様子は、まるで母が悲しみを受け止めてくれているようで、開け放った窓からカーテンを越えて流れてくる風は、まるで母が撫でてくれているようで、
描こうと、思った。
完成させたいと、思った。
そこからは夢中になって描いた。
強く思う部分は、勝手に鳴り出し、勝手に動き出す。
鳥の声や、カーテンの動きが、現れる。
でも、母が生きていたときのスケッチを引っ張り出して再現しようとしても、どうしても母の姿だけは描けなかった。
悔しかった。
でも、どうしようもない。
写真だけは使いたくなかったから。
だから、消した。
初めから書斎を描くつもりだったと、タイトルは悩みに悩んだ末、『風』とつけて、部屋にしまいこんだ。
そして中学に上がり、友達に半ば強引に美術部へ入れさせられ、先輩から作品を見せるように言われて、家に来たときに適当に描いた絵を見せようと思っていたのに、『風』がみつかってしまった。
そして、絵を気に入った先輩に、学校へ飾ろうと提案され、その絵を通じてみんなに出会った。
「この絵の経緯は、以上です」
長い長い話。絵に向かって淡々と語りかけるように、事実を伝えた。絵から目を話す。後ろに立っているであろう皆に目を向けると、黄瀬と桃井は号泣していて、黒子は涙目だった。思わずぎょっとして後ずさってしまう。
「名字っちぃぃぃぃ〜」
(っち?)
「名前ちゃーーーん」
自分よりも背が高くて自分よりも胸が大きい二人に抱き締められ圧死しかけた。
「おい黄瀬、桃井、やめろ。名字が死ぬ」
赤司の一声に我に帰る二人。落ち着いて息を吸うと、紫原に背中をぽんぽんと擦られた。
「頑張ったねー、名前ちん。いいこいいこ」
「え、」
「お前は人事を尽くしたのだよ」
「ちょ、やめ、」
「名前」
青峰が、名前を呼ぶ。
「この絵はちゃんと届いてるんじゃねーのかよ」
母に。
天国にいるであろう、母に。
届いただろうか。
「お前の思いと努力が、どんな距離でも親に届かねぇはずがねぇだろ」
止めてくれ。
それ以上言わないで。
でないと、もう、
「……っふ、ぇ……な、っみだ、とまら、な……」
拭っても拭っても出てくる水滴。
「おか、さん……描けなか、った、けど……うっ……ふ、許しっ、て……くれる、か、なっ…」
「おぅ。かけてねーけど、確かにいるぞ。椅子に座って、本読んでるな」
「見え、る……?」
「優しそうな人じゃねーか」
すごい。
青峰は、本当にすごい。
絵に描いたが現れていない空気を、読み取っている。
「せん、ぱっ……い、は……すご、です」
「俺を誰だと思ってんだよ?名前が物語ってんだろ?」
「はっ、い」
美術部の先輩でさえ理解できなかった絵を、この人は感覚で捉えたのだ。誰にもなし得なかったことを、やってのけた。
「ありがと、です」
絵に隠された輝き
(やっと、絵が、完成した。)