完全にクラサメくんの意識がなくなったと判断できたのは、彼の私を抱き締める腕が動かなくなったからだ。今まで閉じていた目を開けると、穏やかに眠るクラサメくんの顔。本当に綺麗な顔をしているなぁ、と頬にそっと触れる。起きてしまわないか一瞬戸惑ってしまったが、杞憂だったようだ。
「クラサメ、くん」
声に出して名前を呼ぶ。
もう呼ぶ機会など、ないだろう。
きっと彼を覚えていても、こうして愛しいと思うことがなくなるのだから。
「好き、だよ」
そっと唇に自分のそれを重ねる。
初めてキスしたのは、クラス合同演習の時だった。
今思えば良くあんなことしたな、と思う。
「クラサメくんも、わりと気にしてなかったよね」
楽しかった。
本当に、楽しかった。
これからもきっと楽しいのだろう。
きっと。
「大、好き……だから。ごめんね」
ゆっくりとベッドから降りる。二人分の重さを抱えていたスプリングが、少しだけ伸びた。
ぱっと踵を返すと、二度と振り返ることなくクラサメくんの部屋を出ていった。
バタン、と扉を閉めるとそのまま扉にもたれ掛かる。
戻りたくなる感情を圧し殺して、でもその扉から離れることができない。こんなに未練がましいのか、と呆れてため息をつくと、左右に延びる廊下から足音が聞こえてきた。
「朝帰り、にしては早いけど、どうしたんだい?」
「何もしてないよ。ただ、一緒に『寝た』だけ」
「一緒に起きないの?」
「生憎。許されているのは今日までなんで」
「やっぱり、関係していたんだね?」
それぐらいしかないでしょ?と呟きながら声のする方向を見ると、カヅサが歩いてこちらに向かってきていた。
「本当に、カヅサはタイミングいいよね」
「そうかい?今回ばかりは実験に区切りがついたから、久しぶりに部屋に戻ろうと思っただけのことだよ」
それより、とカヅサの目が細められた。月光を写し出す瞳は、嘘を見破ることができるだろう。
「いいの?クラサメ君は」
いいかどうかなんて、分からない。どちらを選んだところでメリットもデメリットも存在するから。だから私は笑顔を向けた。
「私は自分の選んだ選択肢が間違いだなんて思えないぐらい、その道を信じて進むだけだよ」
「……強いんだね、ナマエ君は」
僕もそれぐらい割りきれたら良かったんだろうけど、とカヅサも笑う。私は手を差し出した。きっとこれも最後だから。
「今までありがと」
「死ぬみたいじゃないか。そんな台詞嫌だよ。でもまぁ、君に堂々と触れられる口実が出来るのはいいことだけどね」
そう言ってカヅサと握手を交わす。人の体温は、とっても温かい。離れることが怖くなくなっていたのは、最後に君と話せたからだろうか。
「じゃ、おやすみ」
「良い夢を」
テラスに来たら、約束通り、居た。その人、と表現して良いのか分からない相手はまっすぐ宵闇の月を見つめている。相変わらず美しいなぁ、なんて考えていたらゆっくりした動作で相手は振り返った。
「覚悟を有していますか?」
「その前に一つ、これを、クラサメ・スサヤに渡してくれますか?」
差し出したのは一つの手紙。相手はそれを見ると、手を出してきた。もちろん、その瞳にこの手紙に対する興味はない。私も、いつかこうなるのだ。
「何れの時か」
「バレたとき、でしょうか?」
「了とした」
相手は軽く頷くと、もう一度私を見据えてくる。
「じゃあ、行きましょうか。もう時間だ」
「………汝の心、捨てて異論はないか」
もちろん、と笑って見せれば、目の前の『人』は笑い返してくれたように思えた。
「汝との二つの契り、必ず務めよう」
相手がそっと肩に手をのせる。そして通りすぎていった。
もう、私の手は寒さで震えることはなかった。