贈り物
一週間過ぎ、もう日も落ちた頃。ナマエ・ミョウジはなんとかバッハの曲を通して弾けるようになっていた。
「人って、変われるんですね」
すっかり疲れきったナマエが、悟りを開いたような顔で言う。大袈裟だなぁ、とニコル・アマルフィが苦笑しつつも、完成したことの喜びを感じていた。が、外を見れば下校時刻はギリギリアウトな暗さ。それに気づいた二人は慌てて音楽室を出た。
「あー、夜の学校って、意外と怖くないんですね」
見知った場所だからかな?とキョロキョロ辺りを見渡しているナマエ。少しからかってやろうと背筋を指でなぞってみると、いつの間にかナマエが目の前から消えていた。
「あれ?」
前方をよく見ると、この世の終わりだと言わんばかりの顔をしたナマエが縮こまっている。
「あぁ、怖かったんですね。空元気、というやつですか」
「ニコルっ・・・冗談は止めてくださいっ!」
心臓が止まるかと思ったじゃないですかぁっと床をペシペシ叩いている様子は可愛らしくて、すみません、と手をさしのべた。
「ほ?」
「ほ、って・・・どうせ腰が抜けて立てないでしょう?」
「ん?・・・あ、ほんとですねー」
よく分かっていらっしゃる、とナマエは素直に手をとり、そのあと何とか無事学校の外に出られた。ただし障害(ニコル)が多すぎたが。
「ニコルは信用ならない人だとよーく分かりましたっ」
「いえ、すみません。ナマエが可愛いのでつい・・・」
ナマエの思考がしばらくフリーズし、次の瞬間にはボンッと音を立てて顔を真っ赤にした。
「か、かかかか可愛くなんてありませんからっっっ!」
楽譜だけをしっかり持ってその場を脱兎のごとく走り去った。
ただ、ナマエにしては珍しくガラスの靴を落とすと言う失態はせず。
あれからとくにすることもなく、ただ無気力に過ごしていた。だがそのオーラが溢れていたのか、アスラン・ザラが心配そうに声をかけてくる。
「ニコル?」
「・・・あ、な、何ですか?」
「いや、特に何って事はないんだが、最近元気がないように見えて・・・」
あの鈍感なアスランに気づかれるなんて、そうとう分かりやすい顔をしていたのだ、とニコルは苦笑し、大丈夫ですよ、と笑顔で答えた。
「・・・最近、聞こえないな。ピアノ」
弁当のおかずをつまみながら、アスランが四階の音楽室を見上げる。つい最近まではあの場所から下手くそなピアノの音が聞こえていたのに。
「合格したんですよ、きっと」
恋する乙女のような瞳で音楽室を見て、ニコルはそう呟いた。
「ナマエー?」
「むー?」
「最近音楽室行かないねー?」
「むー」
「ピアノのテストはどうなったのー?」
「っむー!!」
「うん、ごめん。返事はいいから先にご飯飲み込んで」
ナマエのむーむー語を理解しているらしい友人はちゃんとご飯を飲み込んでから話をもう一度切り出した。
「で、どうなったの?」
「秘密ー♪」
「あーはいはい、合格したわけね」
「え、いや、わ、分かんないよー?落ちたかも知れないよー?」
よほど知られたくないのか下手な嘘で誤魔化そうとしているが、実のところバレバレだ。友人はため息をつくと『教えてくれた人に報告?』とだけ付け足す。
「うん!」
「じゃあ行ってきなよ」
「む、」
今にも走り出しそうなナマエに一言だけ『ご飯は飲み込んでから!』と付け足すと友人はそのまま見送った。
飛びだしたはいいがそう言えばニコルが何組にいるのか知らず、どうしたもんだか、と突っ立っていた。
(どこにおられるのでしょうか・・・?)
ちなみに手当たり次第にクラスを探すという度胸はない。彼と確実に会える場所は―――
(・・・音楽室、)
自分と彼が最初に出会った場所。そこに行けば、もしかしたら会えるかも知れない、と音楽室へと急いで向かう。校則を無視して廊下を走ったのは初めてだったが、それよりもずっと前から鳴っている鼓動が気になる。そんなに全力で走っているわけでもないのに、心臓は速いビートを刻んでいた。
(ニコル・・・っ)
きっと、この高鳴りは俗に言うアレだ。そうにちがいない。
(ふぅ、や、やっぱりいませんよね)
音楽室を覗いてみるが人影が無い。良いところだと思うのにどうして普通の人が来ないのか不思議に思う。来ると言えば自分やニコルの様な音楽好きな奴ばかりで、少し悲しい気持ちがした。音楽室に足を踏み入れ、当然のようにピアノの椅子に座る。下手な演奏を聴かせれば、また彼は来てくれるだろうか。
(でも、上手くなった曲を聴いて欲しいし・・・)
そう思えば、弾く曲は決まっている。というかあの曲しか上手く弾けない。
鍵盤に指を起き、なるべくゆっくりのテンポで躓かないように注意しながらそれを叩いた。