【戻れない歪み】
「とりあえず一発殴っていいっスか」
言い終わる前に黄瀬の拳が大きく振り上げられる。天帝の目でそれを赤司は予知していたが、避ける素振りなど見せなかった。赤司自身が殴られるだけのことをしたという自覚をしているからだ。
けれど黄瀬の拳は赤司に到達する前に傍にいた青峰に防がれることになった。力だけでいえば黄瀬と青峰はほぼ互角、若干青峰の方が上くらいだ。しかし正気を失った黄瀬の拳は普段よりも重くいつもとは違う。
結局青峰が一撃を防いで後ろから紫原が羽交い絞めにすることでなんとか押さえつけることができた。
「何故止めた大輝。僕は涼太に殴られてもいいと思ったから避けなかった」
「………俺が赤司を許さねぇから」
青峰が赤司の姿を睨みつける。青峰が怒った姿を見たことがないわけではなかったが、それでも足が一瞬竦む。
青峰は視線を赤司から逸らして、ドア越しにリビングにいる黒子の元へ送った。
「俺は赤司を許す気はねぇ。だから殴るとか詰るとか、そういう責めることはしない」
「罪が許されないということを永遠に味わえ、と。お前にしては嫌な趣味じゃないか」
糾弾されれば罪が軽くなるなどとは思わせてくれないようだ。青峰ですらそうなのだから、リビングで黒子を診ている緑間と付き添いの桃井もそうだろう。いや、桃井は一発キツイビンタをお見舞いしてくるかもしれない。
「終わった。中に入っていい」
リビングにいた緑間が廊下にいる四人に入室を促す。けれど変わり果てた黒子の姿が見たくないからか、四人の足が進まない。
緑間は呆れた目で四人を見てから、赤司に声をかける。
「入らないのか」
「……」
「じゃあ入るな。今のお前は不要なのだよ」
緑間が扉を閉めようとした時、青峰が身を滑らせるように中に入った。それに続くように黄瀬と紫原が中に入る。赤司は紫原に連れられるように中へ入っていった。
「桃井、黒子を連れて少し外にいてほしい。今の状態なら大丈夫だろう。マンションの外でいい」
「うん分かった。じゃあ後で」
桃井が黒子の肩を抱くようにして立ち上がらせ玄関へ歩く。
今は深夜だがセキュリティの高いこのマンションなら安全だ。寒空の下女性を外に出すのは忍びないが、話を聞かれるわけにはいかない。
少しでも黒子の耳に入れば取り乱す可能性がある。精神的な問題は緑間の専門分野ではない。正確な処置ができない今、悪化させるかもしれないことをするのは良くないだろう。
「緑間くん」
すれ違い様に、か細い声が緑間の名前を呼ぶ。黒子の目には様々な暗い感情が浮かんでいて、ほの暗い水色が緑間の方へ向く。
「赤司くんを虐めないでください。全部悪いのは僕で赤司くんは何も……」
「これからのことは今からゆっくり話し合う。だからしばらく外にいてくれ」
「………はい」
ガチャリと閉まる音がすると黄瀬がソファに座り込む。その隣に青峰が、残りの三人は壁に凭れるように立った。
「まず赤司に聞く、お前は今回の原因をきちんと理解しているな」
「……あぁ」
「黒子の様子が変わったのはいつからだ」
「正直分からない。ただ僕が気づいたのは今日だ」
「アンタ今まで黒子っちと一緒にいたんだろ!なんで一番近いアンタが気づけないんだよ!」
「落ち着け黄瀬。今は口を出すな」
この場所で一番落ち着きのある緑間が場を仕切るのは自然な流れだ。しかし緑間が淡白というわけではないのだ。
緑間だって腹の中は煮え滾っていて、できることなら赤司に詰め寄りたい。けれどここで緑間が理性を失えば、かろうじてある秩序が失われることになる。
そうなれば正しい判断が出来なくなり、もしかしたら最悪の結果を導き出すことになるかもしれない。
「専門家でない俺が黒子に対する診断を出すのは良いことではない。これに関しては明日病院に行くべきだ。予約ができるか保証はないが先輩に頼んでみるのだよ。仕事もあるだろうから朝一にしておく」
「僕は仕事だから行けない。付き添いは桃井に頼んでおく」
「――あぁ?」
青峰がゆらりと立ち上がり赤司の胸ぐらをがしりと掴む。止めに入るべき三人も赤司の言葉に虚をつかれ動けない。そんな中赤司だけが平然と青峰を見つめていた。
「オマエ本気で言ってんのか」
「あぁ。僕にはやるべき仕事があるから休めない」
「テツがオマエのせいでああなったのに、オマエはそんなの知らないって仕事に行くのか」
「僕が行くべきだというのは理解している。だが仕事は休めない」
「テツより仕事だって言うんだな」
「……あぁ」
「そうか」
履いていたジーンズのポケットから青峰がくしゃくしゃの紙を取り出す。青峰は粗雑に皺を伸ばしていき、赤司に突きつけるように差し出した。
「だったら受け取れよ。オマエじゃテツを幸せにできない」
「青峰、それは……」
「俺が用意したもんじゃねぇ。さつきが貰ってきたもんだ」
「桃っちが?」
「……前にテツと会った時に少し聞いてたらしい。使わなければいいけどって言いながら棚にしまってたみてぇだ」
「それはいつ頃だ」
「多分……三週間くらい前」
「三週間…、随分と長い間赤司は見落としてきたようだな」
皮肉を込めて言って赤司を見るが、赤司は何も言わずに紙を眺めている。
「とにかく別れろよ。オマエは仕事がある限りテツを大切にしない。だったらテツが可哀想だろ」
「そんなところを全て受け入れてくれること前提に結婚したなんて言ったら、俺本気で殴るっスよ」
今この場所に赤司の味方はいない。けれど赤司は表情を歪めることなくただ立っていた。離婚届けを突き出されているにも関わらず、態度を変えることはない。
「離婚する気はない。それに仕事がある限りテツナを愛さないなんてことはない」
「赤司、はっきり言うが素人の見立てでも黒子のは精神病だ。赤司の協力なしに治ることはない」
「だけど仕事は外せない」
「おいテメェ、いい加減に―――」
「お前達が思う以上に会社は大変な状況に置かれているんだ!!僕の判断が誤れば何千人の社員の暮らしが危うくなる!そんな中で妻が病気だからって全てを放って置けるわけないだろう!」
「あ、赤司っち……」
「僕だって分かっている、何が原因で自分がどうするべきか。けれど僕の背中には何万という人達がいる。それを捨ててテツナに専念出来るほど僕は出来た人間じゃない」
黒子の症状が短期的に治るのか長期的に掛かるのかは分からない。けれどたとえ一日でも二日でも、赤司は社を空けるわけにはいかない。
無能な幹部共のせいで起きた問題の分を挽回すべく、毎日奔走しても足りないくらいなのだ。
実淵達は十分頑張ってくれている、彼らの負担を増やすわけにはいかない。
ならば赤司がより動くしかないのである。
「真太郎、病院のことに関しては一任することになると思う。頼んでもいいか」
「……出来る限り力を尽くす。だが赤司にしか出来ないこともある」
「分かってる、今日は突然呼んで済まなかった。タクシー代は出すから車を拾っていってくれ」
外にいた黒子と桃井を中に入れる。一人暮らしの桃井の家で今夜黒子は過ごすことになった。桃井なら傷ついた黒子の心を少しでも癒してくれると信じて。
「どうしたらいいんスかね」
ぼそりと黄瀬が呟いた言葉に緑間が小さく言葉を返す。
「どうした」
「俺、今回は赤司っちが全面的に悪いって思ってたんスよ。でも赤司っちにも守らなきゃいけないものがあるんスよね」
「そのためならテツを傷つけていいのかよ」
「そうじゃなくて。ただ赤司っちを責めても仕方ないんだなって」
「お前にしては大人な思考だな。確かに赤司は上に立つ人間だ。その分人より背負っているものが大きい」
「緑間までかよ」
「ただ黒子のことだけを想って生きていけない立場ということだ」
「でもさー大丈夫だと思うよ」
珍しくお菓子を食べていない紫原がようやく口を開く。よく考えてみたら、今まで紫原は何も喋っていなかった。
「大丈夫って、何が?」
「赤ちんさ、俺たちに電話掛けてきた時すごい声だったんだ。ホントどうしたらいいか分からないって感じでさ。あんな声は黒ちんが大事じゃなきゃ出せないよ」
「……紫原、俺たちは赤司が黒子を愛しているかどうかを話しているわけではないのだよ」
「知ってるよ、でも大丈夫だって」
紫原が何を根拠に言っているのかが分からない。けれど紫原は確信に満ちた目で流れゆく景色を追っていた。
「すまない玲央、十五分寝かせてくれ」
実淵の返事を待たずに赤司は机のものを端に寄せて臥せる。仕事場で寝るなんていつもならありえないことに実淵は目を疑った。同じく場にいた葉山も同じで信じられないといった目で赤司を見ている。
(疲れた……)
今日の朝、桃井が黒子を病院に連れて行ってくれている。赤司はその報告をついさっきメールで受け取っていた。
やはり緑間の見立て通り精神病の類だったそうだ。
医者から直々に話を聞きたいのだが、今の赤司には病院に行けるだけの時間の余裕がない。緑間相手なら深夜でも会えるが流石に一般の医者相手では無理だ。
(会いたいけど、許さないだろうな)
時間的に会えるはずないのだが、とにかく黒子と会って話したい。今までのことを謝罪して二人でずっと一緒にいたい。
でも周りの環境がそれを許してくれない限り、赤司は黒子とゆっくり会うことも話すこともできないのだ。だからこうして机に臥せて悶々と現状に苦痛を感じている。
「……、メール。敦から?」
紫原からのメールは珍しい。面倒臭がりな紫原は電話すらなかなかしてこない人間なのである。急ぎの内容なのか、もしくは励ましの内容なのか。
ただ後回しにしてはいけない、そんな気がして、赤司は重い手を動かして携帯を操作した。
『赤ちんハロー。赤ちんに助言っていうか、まぁ俺の独り言。普段の赤ちんなら会社のことも黒ちんのことも、うまく立ち回れるんじゃないかなーって。失敗を恐れて何かを躊躇するのは赤ちんらしくないと思うよ。 PS:黒ちんにあげるケーキ、二人で食べて感想を聞かせてね』
他の誰よりも短いメール、たった四行のそのメールに紫原の思いが全て込められていた。
最後に書かれた二つのケーキという部分は記憶にない。何のことだと頭を巡らせた時、いつかの日にゴミ箱に捨てられていた箱を思い出した。
あれはもしかして紫原から黒子に贈ったものだったのではないだろうか。だとすると時期を考えて、そこで赤司は黒子の誕生日のことを思い出した。
二つということは赤司の分も用意してくれていたのだろうか。何も残っていなかったということは、黒子が二つとも食べたということになる。
どんな気持ちで二人分のケーキを食べたのか。今更後悔しても遅いことであった。
あの日、赤司は仕事に忙殺されておめでとうの言葉すら言ってやれなかった。プレゼントこそ無かったものの、あの時一言声をかければ何かが変わったのではないかと思わずにはいられない。
しかしこのメールで大切なのはそこではない。紫原が言いたいことはそれではない。
赤司が無意識に恐れていた失敗、それを紫原を指摘している。
基本的に赤司の中に失敗という言葉はない、赤司の努力と才能が全てを可能にしてきた。
しかし今、会社と黒子という二つのことで赤司は悩んでいる。それを紫原は見ておかしいと思ったのだろう。
(……そうか、二つのことを両立出来ないなんて僕らしくない。まったく、無意識に会社という大きな枠組みに囚われて本質を見誤ったか)
悪意も他意もない紫原の言葉は粉のように赤司の中に吸収されて何も残らなくなる。けれどそれでよかった。
「征ちゃん、十五分経ったわよ」
「……済まない玲央、少し出てくる。戻ってくるから仕事を頼む」
「え、征ちゃん!?」
コートを乱雑に手にして財布と携帯だけをポケットに入れる。
恐らく今の時間なら黒子は家に桃井と共にいるだろう。もしかしたら青峰らもいるかもしれない。
会えばきっと言い合いになるかもしれないが、今の赤司にはどうでもいいことだった。
タクシーを急いで走らせて家に向かう。かなり無理をさせたが一時間で着くことができた。普段走ることのない階段を数段飛ばしで上がり、家に着く頃には息が完全に上がっていた。
鍵は開いているだろうと予想をつけてドアノブを回す。案の定鍵は閉まっていなくて、赤司の侵入を簡単に許した。
「え、赤司君!?」
「今日はありがとう桃井、テツナはいるか」
「え、あ、うん。テっちゃんなら寝室に……」
言葉を最後まで聞かずに赤司は黒子のいる寝室へ足を向ける。今更だが青峰たちはいないようである。
「テツナ!!」
「え、………赤司くん?」
まさかこんな時間に会えるとは思っていなかったようで、顔に驚いていると書いてあるようだ。そんな黒子を赤司は渾身の力で抱きしめて、耳元に口を寄せて赤司は言い切った。
「テツナ、一週間待っててくれ。全て終わらせたら、二人でどこかへ行こう」
一週間、長いとは言えないが短いとも言い難い時間。その間赤司は黒子を待たせると宣言した。けれど同時に約束されたのはその後の安寧。赤司のその言葉が、黒子にはすごく嬉しかった。
「……はい、待ってます」
赤司が口にしたのは言ってしまえばただの口約束。だからそこに効力なんてものはないし、赤司が守れなくても責めることは出来ない。
それにあんなに忙しいと言っていた赤司の言葉だ、そこに信憑性など無いに等しいのである。
けれど黒子はその言葉に嘘偽りはないと、そう確信していた。