「テツヤ、僕と取り引きをしようか」
―――魔王が笑みを浮かべた。
WC準決勝が終わり決勝を明日に控えた日、黒子は赤司から呼び出しを受けた。五人いるかと思ったのだが、どうやら赤司のみのようだ。紫原の一件で疑心暗鬼になった黒子は、準決勝の海常戦でそれを確かなものにした。海常戦で、黄瀬の方から隠すことなく事実を告げられたのだ。そうだろうとは思っていたが、改めて肯定されるともう逃げ場はない。黒子が黄瀬に何度理由を尋ねようと、黄瀬は笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。
「いきなり呼び出して何の用ですか」
「そう警戒するな、明日試合をする仲なんだから」
「黄瀬くんから聞いて事情は確信しています。君達がしている行為を僕は絶対に許しません」
「テツヤに許してもらおうだなんて思ってないさ。……だけど直接の原因がテツヤにあるのは事実だよ」
「……え?」
黒子の目が見開かれる。予想通りの黒子の様子に赤司は密かに笑った。黒子は訳が分からないといった風に動揺する。
「涼太や大輝がお前を好いていたことは誰の目から見ても明らかだった。もちろん真太郎や敦もね。それなのにお前が僕達を裏切って姿を眩ませたりなんかするから。だからあいつらは暴走したんだよ」
「そんなの……」
「確かにテツヤから見たらとばっちりかもね。けれど涼太達の先輩や同級生からしたらもっと理不尽なとばっちりだ」
ゆっくりと赤司が黒子に近づく。広い場所であるのに黒子の逃げ場は無かった。赤司から発せられる気に圧されたからだ。
「テツヤ、僕と取り引きをしようか」
WC決勝戦、誰もが固唾を飲んで見守る中ホイッスルが静かに鳴らされた。途端に動き出す両者、どちらもペースを奪われないように必死だ。そんな中赤司は黒子のマークについていた。これに関しては洛山内で揉めることになったが、かといって赤司以外に黒子のマークが勤まるわけでもなく。結局眼を活かして黒子のマークに回ることになった。
「テツヤ、取り引きは忘れてないね」
「………この場合、君がでしょう」
「ははっ、…確かに」
天帝の眼を使えば誰のプレイでも手に取るように分かる。しかし黒子のプレイだけは完全では無かった。視線誘導という技は当然ながらに赤司にも通用するからだ。赤司にとっての唯一の弱点であるからこそ、何よりの懸念材料だった。
「まぁ動くのは第3Qくらいからだからね、それまで決勝戦を楽しもうじゃないか」
「……そうですね」
二人が密かに会話をしているのを、観客席にいた四人は静かな目で見ていた。かつてのキャプテンと幻の六人目の試合はキセキの世代同士で見たいと言って、各校の面々とは席を離れている。もちろんこれは気兼ねなく内輪で話せるようにだが。
「赤司の奴、テツにはもう話つけてんだよな」
「当然だろう。そうしなければ今までの試合、全く意味が無くなってしまう」
「まぁ俺として青峰っちと緑間っちとガチでやれたから良いっスけど」
準決勝で共に敗れた秀徳と海常は、先日三位を決めるための戦いを行った。体を壊さない程度に抑えろと赤司には言われていたが、当然そんなことで収まるわけもなく。結果は秀徳の勝利で終わったが、両者共が大変困憊した状態になった。さすがキセキの世代同士の戦いといったところだろうか。
「にしても負けるなんて悔しいっス」
「馬鹿め、俺がお前如きに負けるわけないだろう」
「え〜、そういうわりには結構接戦だったじゃん」
「うるさいのだよ!」
そうこう話しているうちにも試合は進行している。洛山が10点リードしているこの状態は、誠凛が喰らいついている証拠だ。バスケでは20点差がつくと追いつくのは難しい。
(予想以上にみんな動けてる。特に火神君は調子良いわね)
試合が動くのは恐らく第3Qくらいからだろう。リコは空気からそう読んでいた。事実赤司が行動を起こそうとしているのも第3Qからなので外れていない。ただ起こす行動そのものを把握出来ていなかっただけだ。
「黒子君のミスディレクションを赤司君がここまで警戒してるとはね。良い誤算だったわ」
第1Q終了まであと一分、第2Qを終えてのインターバルが勝負所である。だからそれまでに点差をつけられる訳にはいかない。第1Qを終えたメンバーを迎えながらリコは次の作戦の案を練っていた。
「そういやみんなはこの後どうするっスか?」
一見すると試合後の予定を聞くような黄瀬の質問だが、実際にもっている意味は大きく違う。もちろん緑間達もそれは理解していた。
「あぁ?俺は別にすぐで大丈夫だけど」
「俺も同じくだ。赤司が手続きなど済ませているだろうからな」
「俺は荷物纏めたりで少し時間掛かるかも」
「俺もすぐで大丈夫っス」
楽しみだと言わんばかりに黄瀬が嬉しそうな顔をする。けれどこれは黄瀬だけに限ったことではないのだ。表情や言動にしないだけで内心彼らは浮ついていた。待ちに待った瞬間がもうすぐそこなのだから。
「ホント、楽しみっスよ」
狂喜に満ちた目で黄瀬は二人を見る。それに気づいたのか、赤司は黄瀬をちらりと見てにこりと笑った。
「すげぇ……、洛山が追い込まれてる」
始めにあった点差は徐々に狭まっていき、ついに誠凛は2点差にまで洛山を追い込んだ。準決勝まで涼しげな顔をしていた赤司に苦悶の表情が浮かぶ。洛山の勝利を信じて疑わない四人に焦りや不安が出てきたのか、小さなミスが出るようになってしまった。
「落ち着け!相手のペースに呑まれるな!」
赤司の指示がコートに響くが、そこに余裕はない。あるのは想定外の状況を恐れる気持ちだ。それが洛山に如実に伝わるから余計に洛山側の不安感が増していく。―――流れは完全に誠凛がもっていた。
「あと1分!第4までに同点目指すぞ!」
日向の叫びが誠凛に活力を与える。実渕からボールを奪った伊月が火神にパスを回す。それを赤司が止めに入るが、黒子の介入によりパスが真反対の日向に渡った。意表をつかれた為洛山側の反応がワンテンポ遅れる。ブロックがくる前に放たれた日向のボールは、見事にネットをくぐった。
『ピーー!!第3Q終了です』
宣言通り同点に並んだ誠凛と洛山。この流れが第4Qで断ち切られないと洛山は負けるかもしれない。そんなプレッシャーを背負った赤司は、ドリンクに口をつけただけで何も話さなかった。
「お疲れ様っスね、WC優勝校さん」
火神や日向達の前に現れたのはキセキの世代の面々だ。ただそこに赤司はいない。試合後その場に崩れ落ちた赤司はそのまま意識を失ってしまい、今は救護室のベッドを借りている状態なのだ。黒子は赤司が心配だからという理由で連れ添うことにした。今まで負けを知らなかった者がこれからどうなるのか、黒子にはそれを受け止める義務がある。
「準決勝でお前とやってすげぇ楽しかったぜ」
「それは良かったっス。決勝は俺達四人で見てたんスよ」
「だからお前ら一緒なのか。仲良いじゃねぇか」
「黄瀬が無理矢理誘ってきただけなのだよ」
「みどちんのツンデレめんどくさい」
「こいつからツンデレ取ったらメガネしか残んねぇよ」
「あとおは朝となのだよっスかね」
「お前達いい加減にするのだよ!」
仲良しな高校生といった光景に、火神は試合に勝てて良かったと思った。もしキセキの世代が負けを知らずに今後生きていったら、きっと人生楽しめないに違いない。そして火神も彼らがいなければ楽しいバスケというものに出会えなかっただろう。そのお礼と宣戦布告もこめて、火神は右手を出して黄瀬の手を握った。
「お前達とのバスケ楽しかった。また試合しようぜ」
「何言ってんスか?火神っちとはもうバスケしないっスよ」
握られた手を黄瀬が拒むように払う。黄瀬の行動の意味が分からずに、火神は手の行き場を迷わせながら黄瀬に問いかけた。
「……どういうことだよ黄瀬」
「言葉の通りっスよ。ちなみに火神っちとバスケしないっていうのは俺ら全員の意志だから」
「……火神、お前こいつらと喧嘩でもしたのか?」
「そんな覚え無いっすよ!!」
「無意識なんじゃない?謝っといた方が良いって」
「別に喧嘩云々ではないのだよ。ただ火神とバスケをする理由が無くなった、それだけだ」
「理由って……バスケに理由なんかいるかよ!」
「俺達にはあったんだよ。こんな狭い世界で戦う理由がな」
「その理由が無くなったからバスケはもうしない。まぁストバスくらいはするかもね〜」
むしゃむしゃとお菓子を食べる紫原の姿も、ラッキーアイテムを抱えた緑間の姿も、ボールを手で器用に操る青峰の姿も、キラキラと纏うオーラが輝いている黄瀬の姿も、みんないつもと変わらない。それなのに大切なパーツが抜け落ちたかのように、キセキの世代と火神との距離が大きく歪んでいた。もちろん火神に思い当たる節などない。だから理不尽で不条理なキセキの世代との決別に、火神は思わず声を荒げてしまった。
「なんで!負けてチームの大切さが分かって、バスケが楽しくなったって言ってたじゃねぇか!!」
「そんな熱くなんなよ。つぅかお前らに負けたんじゃねぇ、負けてやったんだよ」
「………どういうことだよ、それ」
「俺と誠凛が練習試合したっスよね。あの時から俺達八百長試合してたんスよ」
「……八百長だと?お前ら負けた腹いせに言ってんだったら後輩でもぶん殴るぞ」
「本当なのだよ。……少なくとも俺は決勝で誠凛相手に手を抜いた」
「けどお前全面でシュート打ってたじゃねぇか!あれに手抜きなんて……」
「俺らとしては逆にコイツの技の矛盾点に気づかねぇ方がおかしいと思うぜ」
「矛盾点?」
「そもそも俺のシュートの特徴は長いループにあるのだよ。その長い滞空時間のおかげでデフェンスに戻れるのが利点だ。……だが俺はコートの全てからシュートが打てる。つまりはわざわざ長いループで投げてデフェンスに戻る時間を稼ぐ必要は無いのだよ」
緑間から告げられた事実に誠凛は圧倒された。確かに言われたらそうかもしれないが緑間の圧倒的シュートを前にそんなことを考えられる訳が無い。それに緑間の言葉は理に適っているとはいえ半ば屁理屈にも聞こえてしまう。
「………黒子は、黒子はそのこと知ってんのか?」
「準決勝で俺が教えたから確実に知ってるっスね。でも紫っちと試合した時に気づいたんじゃないかって赤司っちは言ってたっスけど」
「………ふざけんなよ」
沸々と沸き上がる湯のように日向の思考が怒りで満ちていく。キセキの世代達はまるで当たり前かのように言っていたが、それはどう見てもおかしい。今までの試合が八百長だった?理由があったからバスケをしていた?ならこの一年、全力でぶつかり合った自分達は一体何だったのだ。それに彼らの言い方は彼らと戦ったチームメイトすらも侮辱している言い方である。
「この一年八百長してましただぁ?てめぇら調子いいことほざくのも大概にしろよ。てめぇらと戦ったチームメイトですら騙してたって言う気か」
「そうだよ。だって俺達が今の高校入ったのは今日の為だし」
「じゃなきゃわざわざ離れた高校なんて通うかよ」
「本当は俺達一緒の学校行く予定だったんスよ。でもそれじゃ意味無いからって嫌々別れたんス」
「今まで秀徳でやってきたバスケも悪くはなかった。だが本来の目的は本来の目的で最優先事項なのだよ」
恐らくキセキの世代は本心で言っているのだろう。しかし誠凛から見たら意味が分からない。何故そんなことをしたのか。どうしてそれに誠凛が選ばれたのか。そして何が目的なのか。そんな疑問がぐるぐるとしていると、誠凛の後ろからあの声がした。
「お前達何をしている?」
「………赤司」
「やぁ誠凛さん、良い試合だったと言いたいが………涼太、現状を報告しろ」
「えっ、全部終わったから種明かしっスけど」
悪びれる気も無いのか、平気な顔をしてさらりと言ってみせる。そんな黄瀬に赤司は大きく溜め息をついて頭をくしゃりと掻いた。
「誠凛には明かさない、僕はそうテツヤと約束したんだけどね」
「えっ、そうなんスか?てっきり種明かしして良いと………」
「全くお前達は……。もういい、救護室にテツヤがいるから回収して今日は帰れ。後始末は僕がしておく」
赤司はそう言うと誠凛の前に向き合うようにして立った。四人がこの場を離れたことを確認してから、赤司は背負った荷物を下ろした時のように大きく息を吐く。そうして体から力を抜いてから赤司はその双眼で誠凛を射抜くように見た。
「あの馬鹿達が勝手に動くから困ったよ。僕はテツヤと口外しないという条件で取り引きしたのにね」
「取り引き………」
「……どうしてこんなことになったのか、理由を聞きたいんだろう?事実その資格が誠凛にはある」
赤司から告げられたその計画は、非常に壮大で傲慢で身勝手そのものだった。
黒子が部活を辞めてから、五人の素行や態度はどんどん悪くなっていった。その典型的な例が黄瀬と青峰だ。青峰の場合体育館に寄り付くこともせず授業にも出ない。終いには暴力沙汰まで起こす始末である。このことは赤司が揉み消したから良かったものの、露見したら大問題であろう。黄瀬は普段と見かけが変わっていない分、内面が酷かった。物には当たらない、ただそれよりも甚大に周りに被害は出していた。
赤司は思ったのだ、全て黒子テツヤの消失が原因なのだと。だから黒子テツヤを取り戻せばきっと元に戻る。実際この話をしたら見て分かる程に二人の機嫌は良くなった。もちろん緑間や紫原もである。
「だが取り戻すとはどうするのだよ」
「簡単だよ。テツヤを勝たせてWCで優勝させる」
「優勝させるって……そしたら黒子っちとチームメイトが仲良くなっちゃうっスよ?」
「……逆じゃない?黒ちんが、もし八百長で勝ったって知ったら自分から離れると思うけど」
「敦の言う通りだ。テツヤなら罪の意識から一緒にいられないと思うだろう。なにせ『優勝した』んじゃなくて『優勝させてもらった』だからね」
そのためには黒子がWCの決勝まで来る必要があるのだが、赤司はそのことについて心配していなかった。なにせ関門であるキセキとの学校の勝利は決まっているのだ。幻の六人目としてキセキの世代が誇る黒子が他に手間取るとは考え辛い。
「居場所を失ったらテツヤはきっと僕達の所に来てくれる、……絶対にね」
赤司の判断や考えに間違いなど存在しない。ただ唯一の誤算は黒子が行った誠凛のレベルが予想以上に高かったことくらいだ。だから『頑張った故の勝利』を違和感なく作り出すことが出来た。特に火神はキセキの世代と上手く渡り合ってくれた存在だった。
「何故誠凛が選ばれたのか。答えは至って簡単だ、……誠凛にテツヤが行ったから。それしか理由なんてない」
先程までの試合で見せたような焦燥は最早完全に消え去っていた。―――いや、あの焦燥ですら演技なのだ。あの赤司が誠凛相手に苦戦している様子は、単に勝利を演出するための小芝居でしかない。余裕が無くなっていく様は観客や誠凛に、誠凛の勝利を信じさせる要因になった筈だ。
「この一年間、僕達の計画に協力してくれてありがとう。残された年月、バスケを楽しんでくれ」
「………止めんのか?」
「あぁ。僕達はこれから同じ高校に編入する予定だ。だけど僕達が同じ高校で再びバスケを始めたら中学の二の舞だろう?だからバスケから身を引こうと思ってね」
「ホントどこまでも身勝手だな」
「この話を他の連中に話すかどうかはみなさんに任せるよ。ここから先の話には興味はない」
赤司は着ていた洛山のジャージを脱いだ。下に着ているのはただのTシャツ―――ではなかった。
「それ……」
「僕達が進学する学校のものだ。みんな下にこれを着ている」
自身がいた学校との決別を表しているのだろう。赤司は洛山のジャージを感慨もなくスポーツバッグに入れた。代わりに出したのは新しい学校のジャージだ。見たことがない、恐らくバスケでは無名の学校なのだろう。赤司はそれをまるで今まで着ていたかのような、そんな佇まいだった。
「じゃあお元気で、またどこかで会えたら」
赤司は微笑みながら場を後にした。その微笑みは、今までのどんなときよりも美しく年相応なものだった。